第5話 真実
古谷旅館の駐車場に、光生の車はゆっくりと入って来た。日が暮れると、この辺りは少し海風が強くなって来た。この町は昔から山を越えて北風がよく吹く。その風に合わせて港の中の潮も南側へ流れている事が多い。
光生は久しぶりに、この町に降り立った気がした。祖母と二人、市内で暮らし、その祖母が亡くなってからは、この町にも帰る事は無かった。
今日は二十数年ぶりに帰った義秋に会うために、この町に来た。酒を飲むという事もあり、着替えの入ったバッグを下げて、古谷旅館の玄関に立つと、ほぼ同時に中から智子が出て来た。
「ミツオ。いらっしゃい」
智子は光生の荷物を取ろうとするが、光生はそれを断り、智子にニコッと微笑んだ。
「自分の荷物くらい持てる」
そう言うと、智子の背中を押す。「もういるのか」
光生は玄関で靴を脱いだ。
「うん。もう始まっとるよ」
智子は光生の前にスリッパを置いた。
「そうか」
光生は智子の後ろをゆっくりと着いて歩く。
この旅館も何度か泊った事があった。新しくなってからは初めてかもしれない。
物珍しそうに周囲を見ながら歩く光生に気付き、智子が訊く。
「そうか…。ミツオも初めてやった」
「ああ。新しくなってからはな…」
智子は光生の顔を覗き込んで、
「大浴場もあるけんね…。後で入り…」
そう嬉しそうな顔をした。光生も小さく頷いた。
部屋の前に立ち止まり、智子が戸を開けた。部屋の中の全員の視線が光生に刺さる様だった。
どんな顔をして部屋に入ろうかと考えていた光生だったが、そんな事は無意味で、自然と光生の顔は昔に戻る様だった。
「おお…ミツオ」
初めに声を掛けて来たのは政典だった。その横に座る誠二。二人は立ち上がり光生に歩み寄った。
「久しぶりたいね…」
「大先生…待っとったとばい」
二人は大声でそう言って、光生を自分たちの間の席に連れて行った。
荷物を自分の後ろに置いて、ゆっくりと座り顔を上げると、そこには義秋の姿があった。
「ヨシアか…」
光生の口から自然にそうこぼれた。
「ああ…、久しぶりだな…ミツオ」
義秋は手を差し出した。その手を光生ががっちりと掴んだ。
光生にとっては、義秋と会うのはもちろん二十数年ぶりだが、この政典や誠二と会うのも数年ぶりだった。
何年経っても幼い頃の感覚は消えるモノでは無かった。その幼馴染たちは笑顔で昔話を始め、義秋もその昔話に向かいの席から参加した。
小学生の時、秋になると学校の帰りに山に入り、アケビやムベを取る。そんな事を楽しんでいた。
「ヒラクチんおるけん、気を付けえよ」
そう言って先頭を歩いて草むらに入るのはいつも誠二だった。ヒラクチとはマムシの事で、秋口には産卵をするマムシが
「分かっとる。お前が先頭やけん、お前が噛まるんなよ…」
政典はアケビを挟んで
誠二は親戚に少し年上の従兄などが多かったため、アケビやムベの
「ばってん。良う知っちょるな…セージは」
蛇が苦手な義秋は、人一倍足元を気にしながら草むらを歩いた。
「トシカズ兄ちゃんはもっと知っとるけんね…」
トシカズ兄ちゃん。
誠二の従兄なのだが、町を切っての不良だった。中学にもほとんど行かずに、フラフラと遊び歩く。小学生の義秋たちには、ある意味、恐怖の存在だった。そのトシカズ兄ちゃんの親戚だというだけで、誠二は一目置かれている様な所もあった。
「そう言えば、トシカズ兄ちゃんって今、何ばしとらすと」
政典はムベの実を次々に落としながら言う。
「今は、船乗って、手伝いばしとらす」
誠二は近くの木に登り、手で採れるアケビを取りながら言った。
アケビの実は熟れると皮が割れて中の果実が見える。しかし割れるのを待っていると、他の奴らに取られてしまう事もあって、誠二は青い実も千切っている。
「ほら、ヨシア」
誠二は千切った実をどんどん投げて義秋に渡す。義秋は学校から持って来た段ボールを組み立てて、その中にアケビの実をどんどん入れて行った。
「もう入らんぞ…」
義秋はいっぱいになった段ボールを持ち上げて言う。その声に誠二と政典は手を止めた。
「これくらいにしちょくか…」
誠二はスルスルと木から下りて来た。
「おーい。ミツオ。帰るばい」
政典は藪の中に居た光生に声を掛けた。
段ボールいっぱいのアケビやムベの上に、光生が下で受けた分が乗せられる。
「こげんいっぱい。どうすっとや…」
四人で顔を見合わせて笑った。
その草むらから出て、アスファルトで舗装された道の真ん中に並んで座り込む。そんな道を車が走る事もそうは無い。それほどの山の中だった。
その道に座り込んで、食べられそうなアケビやムベを四人は食べ始める。種の周りに付いたゼリー状の果肉だけを食べて種を吐き出す。そんなモノでも当時の小学生にはご馳走だった。
「ここだけでん、後、二回は取れそうたいね…」
光生は巨人帽を裏返して中のゴミを取りながら言う。
「どげんやろうか…。他の奴に取られたら、すぐ
誠二はそう言って、光生に目がけてムベの種を吐いた。
「うわ…汚かね…」
光生は身体に付いた種を払う。
それを見ながら笑っていた義秋に、政典が声を掛けた。
「ヨシア…」
義秋がその声に振り返ると、政典はその義秋の顔を目がけて種を吐いた。
そんな詰まらない事でも楽しんでいた。
その内、ターゲットになった光生が本気で怒り出す。いつものパターンだった。
日が暮れ始めると、四人で取ったアケビやムベを等分に分ける。
「青い実は
誠二はそう言う。傷だらけのランドセルの中はアケビとムベでいっぱいだった。
光生は一気に飲まされて、少し辛そうにグラスを置いた。
「そう言えば、セージ」
「何ね…」
誠二は上着を脱いで後ろに置いた。
「お前の親戚の…何だっだかな…」
光生は思い出そうと、こめかみに指を当てた。「ほら、怖い兄ちゃんがおったやろ…」
誠二はそれにピンと来たのか、
「ああ…トシカズ兄ちゃんか…」
そう言った。
「ああ…そうそう。何だったかな」
今度は名字を思い出せないのか、光生はまだ悩んでいた。それほどに光生が覚える事は多いのだろう。
「竹本利一」
誠二は並々と注がれたビールに口を付けた。
「そうそう。その竹本さん」
やっと思い出せたと言わんばかりに一息ついて、光生もビールを飲んだ。「最近うちの病院に良く来てるよ…」
光生は箸を取って料理を口に放り込む。
「誰かの見舞いかな…」
光生も町を離れていた時間が長いせいか、ほとんど方言が出なかった。
「トシカズ兄ちゃんは、勘当されとらすけんね…。何も話は聞かんね…」
誠二も料理を食べながら言った。「ヤクザばしとらしたとやけど、何年か前に刑務所入って、アシば洗わした筈たい…」
「ヤクザかいね…。トシカズ兄ちゃんらしかね…」
政典は苦笑しながら言った。
確かに記憶の中にあるトシカズ兄ちゃんには、ヤクザという職業がよく似合う。
義秋も当時の様子を思い出して苦笑した。
そんな話をしていると智子が部屋に入って来た。
「ごめんごめん。今日は泊り客の多かけん、忙しかったい…。もう大丈夫やけん」
智子は節子の横に座った。そして温くなったビールを一気に飲んだ。
節子はそれを見て、智子のグラスにビールを注いだ。
「何の話ばしとったと」
智子が部屋に入って来た所で、トシカズ兄ちゃんの話は中断した。
「智子、お前も大変だな…」
光生がビールの瓶を持って智子の前に差し出す。智子は節子に注がれたビールを一気に飲み干し、光生にビールを注いで貰った。
「そげなペースで飲んだら、酔っ払う…。私ば酔わせて何ばすっと」
智子がそう言うとみんなで笑った。
義秋は少し酔いを冷ますためにテーブルから少し離れ、壁に寄りかかってタバコを咥えた。周囲を見渡すと政典は既に横になり
それに気付いたのか、節子が顔を近付けて、
「お水入れようか」
そう言う。
「いや…大丈夫だよ。ありがとう」
義秋は節子に微笑んだ。
それを見ていたのか光生が立ち上がって、義秋と節子の傍に座った。
「お前ら…。相変わらず仲良いな…」
光生はそう言うといやらしく笑った。
「何言ってるんだよ…」
義秋は煙を節子や光生にかからない様に吐きながら言う。
光生は自分のグラスをテーブルに置いて、義秋のグラスとビールを取った。
「ほら」
そう言ってグラスを義秋に渡す。
「ああ…ありがとう」
義秋は礼を言って、光生にビールを注いで貰った。
「改めて、再会に乾杯だ」
光生はテーブルの上の自分のグラスを取り、自分でビールを注いだ。「ほら、節子も…」
そう言われた節子は自分のグラスを取り、三人でグラスをぶつけた。
一気にビールを飲み干す光生を、義秋は見て微笑む。昔の光生からは想像出来ない姿だった。同級生で一番ひ弱なイメージだった光生が医者になって、今、目の前で一番酒を飲んでいる。それが義秋には不思議な光景に映った。
「どうした…」
光生は自分を見つめる義秋に言う。
「あ…いや。何でも無い」
そう言うと、タバコを灰皿で押しつぶした。
「ライターやってるんだって…」
光生は空のグラスにビールを注ぎながら言った。
「ああ…」
義秋はグラスを脇に置いた。
「お前らしい仕事だな…」
光生は口元を緩める。
「お前も、良く医者になったな…」
義秋は光生の腕をポンポンと叩いた。
光生は無言で小さく何度も頷いた。
光生のその顔は何かを噛みしめている様な表情に見えた。
「ヨシア…」
光生は思いつめた顔で言う。「タバコ一本くれないか…」
義秋の表情は一気に緩んだ。
「良いよ…」
そう言ってタバコの包みとマッチを光生に渡した。
智子と誠二の笑い声が聞こえる。節子はその笑い声につられて二人の会話に交ざった。
「医者になった時にタバコは止めた。医者がタバコなんて吸ってどうするって言われてな。けどこうやって楽しく飲んでいると欲しくなるんだよな。人間、そう簡単に変われやしないさ…」
マッチでタバコに火をつけながら言った。
「身体には良くないけどな…。けど、そんなモン、原発に比べりゃ、屁でもないさ…」
光生はタバコとマッチを義秋に返した。
「原発の町の現状を書きに来たんだろ…」
光生は小さな声で言った。
その言葉で義秋の酔いは一気に冷めた。
「ミツオ…」
「この町に来て書けるモンなんて、それくらいしか無いだろう。釣りの特集を書く様な顔はしてないしな…」
光生は口元を歪めた。
義秋はグラスを取り、テーブルに戻った。光生も義秋の横に座り直した。
「近くに来たついでに少し寄ったつもりだった。書くつもりなんてまったく無かった」
義秋は箸を取り、料理を食べる。「帰って来て、山の上の土産物屋で節子と智子に偶然会った。それでこうやって同窓会が出来てる訳だ」
グラスのビールに口を付けた。
「会うやつ会うやつが、俺に原発の話をする。俺も住んでいた町だ。当時はそんな事、気にもしなかった。その原発があれから二十数年経った今、この町を苦しめている事を目の当たりにした。俺の様なライターがそんな記事書いたところで何がどう変わるかなんて分からん。そこまで影響力のあるライターでもないしな…」
気が付くと義秋の言葉をみんなが聞いていた。寝ていた筈の政典もゆっくりと身体を起した。
義秋はそれを見まわし、俯いて笑った。
光生はゆっくりと立ち上がり、自分の席に戻る。
「何処がそんな危ない記事を拾ってくれるかなんて分からん。もしかしたら拾ってくれる出版社なんて無いのかもしれん」
義秋はその場にいる全員を見ながら語る。
その場にいる幼馴染達もその義秋をじっと見つめて聞いていた。
「しかし、聞けば聞く程にこの現状を世間に知ってもらう必要がある…そう感じた。そう思った。もちろん、さっきも言った様に危ない記事だ。そんな話、智子のダンナが働いている様な普通の新聞社では、余程覚悟して特集でも組まない限りは扱えないだろう」
義秋は自分のグラスにビールを注ぐ。そして一気に飲み干した。
「書くよ。この町で生まれた俺にしか書けないレポートをな…。お前らから聞いた生の声を…」
「ヨシア…」
誠二が呟く様に小さな声で呼んだ。
義秋は誠二の声に顔を向けた。
「ありがとう…」
誠二は頭を下げた。
「止めろよ…。友達だろうが…」
義秋は目を伏せる。
「けどなヨシア…」
光生がビールのグラスを持った。「色々な意味で、お前が言う様に危ないレポートだ。今以上の風評被害が起こる可能性もある。現にこの町も含め、周辺の町に住む人々の身体に異変が起こっている事は否定しない。それに…」
光生は節子の顔を見た。その視線の先を全員が追う。
節子は伏せた目を潤ませた。その節子の肩を義秋が抱いた。
「分かってる…。原発に伴う莫大な金の動きだな…。もちろんそれも書く必要はある。その結果…」
義秋の節子を抱く手に力が入る。「その結果、辛い未来が待っているかもしれない。それでも真実を書く。それがお前らやこの町を救える唯一の手段だからな…」
その部屋は静まり返っていた。みんなが何かに耐える様に身体を震わせていた。
「ヨシア…」
声を発したのは智子だった。その声も涙に震え、聞き取れない程だった。
義秋は節子の肩越しに智子を見た。
「全部終わったら、節子ば連れて行き…。それもヨシアの仕事たい」
「そうだな…。そうすれば丸く収まる」
光生が笑いながら言った。
「あのな…」
義秋が口を開くと、それを誠二が遮る。
「そうたいね…。節子もヨシアと一緒なら何処でも生きていけるたい…」
「それで決まり。よし、飲もか…」
政典はビールのグラスを手に取った。
「お前ら…」
義秋は苦笑した。
「よしよし、飲もう。ほらミツオ、注げ」
智子は空になったグラスを光生の前に突き出した。光生は正座して智子のグラスにビールを注いだ。
義秋にはその光景が昔に戻った様に見えて可笑しかった。
その日、夜遅くに政典と誠二は帰って行った。その夜は再び冷え込み、雪がちらついていた。
義秋は誰もいない大浴場で、曇るガラスの向こうを見つめていた。
「おう、ヨシア…」
後から入って来た光生が義秋を見つけて名前を呼んだ。
「お前もまだだったのか…」
自分の横まで来た光生に言った。
「ああ。ちょっと酔ってたんでな…。横になってた」
光生も同じ様に窓の外を見つめた。窓の外でちらつく雪を二人で見ていた。
「お前、そう言えば結婚は…」
義秋は光生に聞く。
光生はお湯をすくって顔を洗っていた。
「ああ…一度したが、別れた。ほら、医者になるの遅かったしな。金が無くてよ。嫁はそれに耐えきれずに出て行ったよ。幸い子供がいなかったから、今じゃ金持ちの開業医と再婚したらしいよ」
外を見たまま光生は言った。「お前は…」
光生は義秋を見た。義秋はその光生から視線を逸らして外を見た。
「俺は完全に婚期を逃したな…。こんな仕事してると、家庭があっても家には帰れない事が日常だ。時には海外に何カ月も行く事だってある。ホテルやこんな旅館に泊れるならまだマシだ。車の中に何週間も寝泊まりする事もあるしな…」
義秋も顔を洗った。
それを見て光生は微笑んだ。
「フリーライターって、格好良いだけの仕事じゃないんだな…」
「当たり前だ。ライターが格好良いなんて一度も思った事無いよ…」
義秋と光生は顔を見合わせて笑った。
「しかし、久しぶりにこうやって顔を見て、話して…楽しかったよ…」
光生は大浴場の天井を見上げた。
義秋は小さく頷いた。
「ヨシア…」
光生の表情が変わった。「原発の情報が欲しいなら、浩美の母親の店に行け。もっと詳しい情報が聞けるよ。うちの病院のすぐ傍にある。何なら一緒に行ってやるよ」
義秋は頬を緩めて、光生に礼を言った。
「今日、偶然、浩美に会ったんだよ…。ほら、途中のコンビニで…」
「ああ…あそこを過ぎるとコンビニなんて無いからな…。みんな一日一回はあのコンビニを使うんじゃないか…」
光生は眉を寄せて言う。「アレだろ…。デリヘルの送迎だろ…」
「らしいな…」
義秋は頷きながら言った。
すると、光生は義秋に顔を寄せた。
「浩美の母親の店は、それだけじゃないんだ…」
小さな声で光生は言う。
義秋も光生に顔を寄せる。
「どういう事だ…」
「原発の視察や調査に来る役人や業者、政治家などに女を派遣している」
光生は眉を吊り上げながら言った。「俺もあの病院に赴任した当初、何度かあてがわれたよ」
義秋は光生の横顔をみて、
「高級売春組織って事か…」
そう言った。
「ああ…。あの店にも少なからず、原発からの金が流れているって事だ」
光生は湯船を出た。「大人になると汚れてしまっている部分も見えてしまうんだな…。大人になんてならなきゃよかったな…」
義秋に背を向けたまま言った。
そして、浴槽の縁で立ち止まり振り返った。
「お前にはもっと正確に見えているんじゃないのか…この狂った町の現状が…」
そう言って光生は微笑んだ。
節子は智子の部屋で、ドレッサーの前に座り、髪を
「節子…」
既にベッドに入っている智子が、上半身を起して薄暗い部屋で髪を梳かしてる節子に声を掛けた。
「どげんしたと…」
髪を梳く手を止めて、鏡越しに智子を見た。
智子はベッドから抜け出して、ドレッサーの前に座る節子に後ろから抱き付いた。
「ちょ、ちょっとお…智子…」
「うるさかね…」
智子は節子の頬に頬を寄せた。二人の微笑む顔がドレッサーの鏡に映った。「変わらんね…私ら…」
「皺は増えたばってんね…」
節子は自分の胸の上にある智子の手に手を重ねた。
「そりゃ…その分、良か女になったとやけん。仕方無かよ…」
智子は節子に抱き付いたまま身体を揺すった。二人で一緒に鏡を見ながら揺れる。昔から二人は変わらなかった。
「え…今、何て…」
智子は制服姿の節子に訊き返した。
「だけん、ヨシアと付き合う事になったとよ」
節子は満面の笑みを浮かべて、智子に抱き付いた。
「良かったやん」
智子も自分の事の様に喜んだ。
「うん。ありがとう」
「ちょっとお…。私と付き合うとじゃ無かっちゃけん。押し倒さんといてよ」
節子は智子にそう言われて、はしゃぐのを止め、智子の額に自分の額を付けた。
「あ、キスもせんといてよ」
智子は冗談っぽくそう言うと、微笑んで節子を抱きしめた。「ばってん…良かったね」
節子の耳の横で呟く様に言う。
節子は強く頷いた。
「これも智子のおかげたい」
節子は智子の身体を揺らしながらそう言った。
「私は何もしとらん…。節子の粘り勝ちたいね…」
智子は節子の髪を優しく撫でた。「何年かかったとかいな…」
「小学校の三年生からやけん…」
指を折って数え始める。
そんな節子を智子は強く抱きしめた。
「良か良か…。あんたが数えるとはこれから先の時間たい…。済んだ事はもう良かったい…」
節子はその言葉に頷いた。
「うん…」
あの日の事を二人は鮮明に覚えていた。
「何ば思い出したとね…」
智子は節子の顔を見た。
「多分、智子と同じ事…」
節子はドレッサーにブラシを置いた。
「やらしか事たいね…」
智子はそう言うと節子の胸を触った。
「もう…。やらしかとは智子たい」
二人は女子高生の様にはしゃいでいた。
智子は自分のベッドへ、節子はその下に敷かれた布団に入った。
「こん部屋で良かったとね…」
智子はベッドの下に寝る節子を見て言った。
「何が…」
節子は目を丸くして言う。
「ほら…。ヨシア。隣に泊っとるとに…」
智子がニヤニヤと笑う。
「馬鹿…」
節子は布団を引き上げて、赤くなった顔を隠した。
「久々に女ば感じて来たっちゃろ…」
智子は寝返りを打ち、天井を見上げて言った。
「うん。高校生の時以来…。何年ぶりやろか…」
「ヨシアとの話じゃなか…」
その智子の言葉に、節子はクスクスと笑い出した。
「何ば笑っとるとね…」
智子は再びベッドから身を乗り出した。
「だって…。私、ヨシアしか知らんとよ…」
そう言う節子を目を丸くして智子は見た。
「嘘やろ…」
「ホント」
節子は見慣れた智子の部屋の天井を見たまま言った。
「神谷さんとはホントに一回も…」
「うん…。そげな約束で結婚したとよ…。一緒に住み出した日から寝室も別やったし、一回も同じ部屋で寝た事も無か…」
智子は節子のその話に切なくなり、目頭が熱くなった。そして鼻の奥に涙が流れ込むのが分かった。
「節子…」
節子は微笑んで智子を見た。
「神谷には、市内に結婚前から付き合っとる女もおるとよ。ばってん私は平気。初めからそういう約束で結婚したけんね…」
智子も何度か、そんな話を誠二に聞かされた事があった。そんな事はあり得ないと思い、軽く聞き流していたのだが、その話が事実である事が今、分かった。
「そうか…。じゃあ節子にとっては唯一の男やったったいね…ヨシアは」
智子は涙声になっているのを節子に悟られない様に話した。
「うん」
「今でん、ヨシアが好きね…」
「うん」
節子も涙声で声を震わせた。
智子は勢いよくベッドに起き上がった。
「節子…」
節子も起き上がり涙を拭いた。そして智子と顔を見合わせた。
「行っておいで…」
智子は節子の腕を引いた。「外に出んでも旅館には行けるけん…。ほら、早く…」
節子は微笑んで、
「うん」
頷いた。
義秋は窓際の椅子に座って、ウイスキーを飲みながらパソコンを開いていた。
原発の町の現状をレポートして、何処かの出版社に持ち込む。もちろんある程度の実績のある義秋のレポート。それなりの対応はしてくれるだろうとは考えていた。しかし内容が内容だけに、改ざんされて有らぬ内容になって掲載されてしまう可能性も否めない。それだけ信頼の置ける会社に頼む事が、一番頭を悩ませる所だった。
記事は面白可笑しい方が売れる。
それが現在の風潮だった。そのために記事を改ざんし、面白可笑しく直して掲載される事など当たり前だった。
「誰に頼むかだな…」
義秋はそう呟くと、グラスに口を付けた。音を立ててグラスの中の氷が崩れた。月明かりに照らされるその氷をじっと見つめていると、部屋の入口の戸が開く音がして、廊下の光が差し込んだ。
「ヨシア…」
小さな声でそう言ったのは節子だった。
入口の戸が開き、節子が部屋に飛び込んできた。椅子から立ち上がった義秋の胸に節子は抱き付いた。
「どうしたんだ…」
節子は義秋の胸に顔を埋めて何も答えなかった。
「節子…」
義秋は節子の身体を自分からゆっくり離し、向かいの椅子に座らせた。月の明かりに節子の頬が照らされる。
部屋にある冷蔵庫の上から伏せてあったグラスを取り、氷を入れてウイスキーを注いだ。
「ほら、飲め…」
そう言って節子の前に置いた。
節子はそのグラスに手を伸ばして、ゆっくりと口を付けた。その姿がコマ送りの様に月明かりに照らされている。
義秋はパソコンの電源を落としながら節子を見ていた。
「綺麗な月ね…」
ウイスキーを一口飲むと節子はそう言った。
「ああ…月は昔と何にも変わらないな…」
義秋もグラスを手に取ると脚を組んだ。ちらついていた雪もすっかり止み、綺麗に晴れ渡った夜空だった。その月が海の水面に映っている。
「ヨシア…」
節子もその水面を見つめている様だった。
「何だい」
義秋が浴衣姿の節子を見ると、節子もグラスをテーブルに置いて、しっかりと義秋を見据えた。
「私の事は気にせんで良かけん、真実ば書いて。ヨシアが書いたレポートでお父さんや神谷が追い込まれても、それは仕方の無か事。噂もかなり前から有るとよ。それも私の耳には入らん様に、みんなが気ば掛けてくれとるとやけど、それでん私には分かるとよ…」
節子は決意に満ちた目をしていた。それが義秋にも痛い程に分かった。
「分かったよ…」
義秋はそれだけ言って頷いた。
「ヨシアの
節子はテーブルに置いたグラスを再び手に取った。「ヨシアが関西に行くの迷っとった。私のせいで…。だけん、別れようと思ったと。それでヨシアが、ここに残るって言うっちゃ無かろうかと思って…」
義秋は眉間に皺を寄せながら、節子の言葉を聞いていた。
義秋の胸の中でずっと疑問だった。
涙で別れたくないから、少し早めに別れよう。あの日、節子が突然そう言い出した。問い詰めた義秋に節子は髪を振り乱して、
「どうせ別れな、いかんっちゃけん。今別れても同じやろ。私も早う次の恋愛ばしたかけん、別れて」
そう吐き捨てる様に言われた。それを今でも鮮明に覚えていた。
義秋は俯いて力無く微笑んだ。
「そうだったのか…」
義秋は立ち上がり節子の傍に立った。「お前はいつでも、俺の事を考えてくれているんだな…」
節子の頬を自分の身体に引き寄せた。
「ずっと…」
節子の消えそうな声が身体を伝って響く。
「ずっと、ヨシアの事、好きやったけん…」
「節子…」
節子はヨシアの身体に顔を埋める。
「ずっと、ずっと…。ヨシアの事、好きやけん…」
節子は泣いていた。その涙は義秋の身体に吸い込まれる様だった。そして身体に沁み込んだ節子の涙は義秋の中で、熱く燃え始めた。
「ヨシア、風呂行こうか」
光生は勢いよく義秋の部屋の戸を開けた。そしてその場に立ち尽くした。
「なっ…」
義秋と節子が抱き合って眠っていたのだった。その光景を見て光生は声を失った。
その後ろから智子が入って来て、光生の頭を後ろから思い切り叩き、部屋の外に引っ張り出した。
「どうなってんの…」
光生は驚きを隠せない顔で、智子に聞いた。
「はいはい。野暮な事は訊かんと…。アンタの想像通りたいね」
そう言うと光生の腕を引っ張って智子は歩き出した。「何なら風呂は私が一緒に入っちゃるけん。黙っときや」
「いや…しかし…」
光生は智子と義秋の部屋を交互に見ながら引っ張られて行く。
「アンタもうるさか男たいね。そげんこつやけん、嫁にも逃げられるったい」
智子の毒舌は、朝から旅館の中で炸裂していた。
古谷旅館の朝は早かった。釣りの客が泊る宿で、朝食は朝の七時にはほぼ完了する。義秋たちの様に朝の九時過ぎに朝食を取る客など他にはいなかった。大きな食堂には義秋と光生、節子と智子の四人が座るテーブルと、隅の方のテーブルに数名の従業員が座って食事をしているだけだった。
カチャカチャと食器の触れる音も聞こえる程に静まり返っていた。
その静寂を光生の声が破る。
「ヨ、ヨシア…」
その声は少し裏返っていた。
その光生のふとももを横に座る智子が思い切り
「黙って食べえよ」
智子は光生を睨み付けた。
今朝の事を何も知らない義秋と節子は、きょとんとした顔で二人を見ていた。
「ヨシア…。今日は予定は」
ご飯を口に放り込みながら智子が言う。
「あ、ああ…。何にもないな…」
義秋は茶碗を置いた。
「節子は」
節子はまさか自分に振られると思って無かったのだろう。少し驚いて、
「私も何にも…」
智子も食べ終わった茶碗を置いて、二人に微笑む。
「じゃあさ、私、ちょっと街に用事があるけん、連れてって。私は買い物あるけん、その間にヨシアはホテルを引き払っておいで。節子、あんたもヨシアに付き合って」
智子はお茶を入れながら言った。「ホテル代ももったい無かけんね…。その浮いた分で昼ごはんば食べさせて」
そう言ってお茶をすすった。
そう捲し立てられて義秋は圧倒されていた。返事は「はい」しかない雰囲気だった。
「それから、お客様」
智子は義秋の顔を瞬きもせずに見る。
「当旅館の部屋にも、防犯上鍵が付いておりますので、就寝時にはその鍵を忘れずに掛けてお休み下さいね」
智子は怪しいイントネーションの標準語で言った。
その言葉を聞いた節子が何かに気付いた様に口に手を当てた。そしてゆっくりと光生の顔を見た。光生はわざとらしく目を逸らす。
節子は光生に見られた事に気付き、顔を赤らめて俯いた。
「まだしばらくおるっちゃろ…」
智子はテーブルに肘を付いて身を乗り出して義秋に訊く。
「ああ…。そのつもりだ」
義秋もお茶をすすりながら言った。
「それでしたら、ご宿泊は是非、当旅館をご利用下さいね」
智子は営業スマイルで席を立ち、セルフサービスのコーヒーカウンターへ向かった。
訳の分からない義秋は一人、怪訝な顔で外を見ていた。
義秋は古谷旅館に大浴場にいた。何故かこの大きな風呂が気に入ってしまった。大浴場の隅で身体と頭を思い切り洗うと、昨日の酒が抜ける様に思える。
そうやって身体中を泡だらけにして洗っていると、横に光生が座った。
「お前、今日は休みなんだろ…」
泡が目に入りそうになるのを阻止しながら、義秋は光生に言った。
「ああ、土日、久々に休むよ。この町も久しぶりだ。ゆっくりさせてもらうさ」
光生は自分の身体を洗い始めた。
「人間、ずっと張り詰めていたら、いつか糸が切れてしまう。休むのも仕事の内だ」
義秋は頭からシャワーを浴び始める。
「そうだな…。何度も切れては結び、もう俺は結び目だらけだよ」
光生は身体を流す義秋を見ながら身体を洗った。「お前みたいに女に癒されたいよ…」
そう小さな声で付け足す。
「え…、何か言ったか…」
目を閉じて頭を流す義秋が言う。
「ああ…ちょっと嫌味をな」
「嫌味…。なんでだ…」
身体を流し終えた義秋は、顔を手で拭いながら光生の方を見る。
「お前の愛されキャラが羨ましくてな」
光生は頭を指先で勢いよく洗った。
義秋は光生のその言葉でピンと来た。節子と寝ているのを光生は見たのだろう。それで智子が食事中に言った事も理解出来た。少しばつの悪い表情で、
「見たのか…」
そう言った。
「ん…。ああ…。見た見た。けど忘れた」
光生は目を閉じて頭を洗っている。「今、綺麗さっぱり洗い流している所だ」
そう言うとシャワーを手に取り頭から流し始めた。
義秋は先に湯船に入り、大きな声で、
「それは恩に着るよ…」
と言った。そして湯船の中を窓際まで移動して外の景色を見た。
別に節子とそうなっている事を誰に知られても後ろめたさなど感じなかった。むしろ知って貰いたい気持ちの方が強かったかもしれない。節子はもちろんそうでは無いのかもしれないが、節子が受けた仕打ちから考えると、それも当然の事なのではないかと思えた。
光生がゆっくりと義秋の横にやって来た。
「節子は神谷一馬の嫁だぞ…。それは分かってるよな…」
光生はお湯をすくい、顔を洗った。
「ああ…。もちろんだ」
義秋は外を見たまま答えた。
「大丈夫なのか…」
「さあな…」
分かり切った事を訊いてくる光生に少し焦躁感を覚えた。
「さあなってお前…」
光生がそう言い出したのを、義秋は遮る。
「仕方無いだろ…」
義秋は光生を見た。「相手の立場や都合を頭で考えるより先に、気持ちが求める、身体が動くんだよ。そんなもんじゃないのか…。俺も忘れていたけど、そんなもんじゃないのか…」
いつになく真剣な表情の二人は、沈黙したままお互いを見ていた。
光生が微笑むと、義秋も微笑んだ。
「お前…。変わって無いな」
光生は視線を窓の外に移した。「多分、お前が一番変わって無いよ…」
「ミツオ…」
「こんな町で生きてりゃ、嫌でも擦り切れる。変わりたく無くても、変わってしまうさ。医者の俺に言わせりゃ、本当の意味で命を削りながら生きているみたいなモンだ。目に見えないモノに蝕まれて行くのは、本当に恐怖だと思うよ。ある日突然、あなたは癌です。もう助かりませんって言われるんだぞ。そりゃそう言われる人はたまったモンじゃない。それでもこの町で生きるしかない。そんな人々が大勢いるんだ」
光生は淡々と言う。
義秋は黙って、光生の背中を見つめたまま聞いていた。
「お前…。智子の背中の傷、見たか」
光生は義秋を振り返る。
「いや…」
義秋は目を伏せて首を振った。
「あれは俺が切った。あのセンターに赴任して来て最初の手術だった。同級生の身体、切り刻んでよ…。何とか助けたいって思って、必死でな…。気が付くと町中にそんな人が溢れていた。考えていたよりも、事態は酷かった。そんな現状を知った時は、絶望したよ…。どんなに頑張っても助からない人もいる。この人が生きている場所がこの町じゃ無かったら、そんな病気にはならずに済んだのかもしれない…。そんな事を考えながら、毎日毎日患者を診るんだ…。それが俺の仕事だよ。分かるか…、このやり切れない思い」
光生がこんなに必死に語るなんて、一度も見た事が無かった。その光生が自分とは違う場所に立っている事が良く分かった。
「いいかヨシア。お前はオフェンスだ。お前の力でどんどん攻めてくれ。俺は喜んでそのお前の後ろを守る。力は及ばないかもしれないが、この状況が変わるまで、諦めずに必死にこの町の人を助けるよ」
光生は義秋の濡れた腕を、音を立てて叩くと、その音は広い浴場に響いた。
その予想以上の音に、二人は笑った。
「この田舎の町と、周辺の町の人口を合わせると十三万人程度。そして毎年、原発の助成金が二十億円程支払われている。その莫大な金がこの地域を潤しているという事になる。町にある施設はどれも立派なモノで、その助成金を活用して次々に新しいモノが作られる。街の活性化と称し、再開発も活発に行われているという事になる。町に住む人々は福祉面でも充実しており、静かな田舎町だが、その設備は都会のそれに勝るとも劣らない程だ。
しかしその年間二十億の助成金も、人口で頭割りすると一人当たり年間一万五千円程度になる。この町の住民は年間一万五千円で命を削っているという事になるのだ」
義秋はパソコンに一気に文字を打ち込んだ。
そんな現状はインターネットで調べれば、すぐに分かる事だった。義秋が書かなければいけないのはそんな事では無い。この町に来て自分の耳で聞いた、もっと生々しい事実だった。
公表されている助成金が二十億円。しかしそれ以外に原発関連の工事や施設の管理、そして表に出ない金を合わせるとその金額は膨れ上がる。光生が勤務する先端医療センターも同様だった。何処よりも最先端の医療機器を備え、町に住む人の叫びを抑えている。そんな風に義秋には映った。
「ヨシア、そろそろ行こうって智子が」
義秋の部屋に節子が飛び込んで来た。
「ああ…分かった」
義秋はノートパソコンを閉じた。「すぐ行くよ…」
義秋はパソコンの脇に置いた携帯電話を取り立ち上がる。そして壁に掛けたコートを掴んで部屋を出た。部屋に鍵をかけて廊下を歩き出す。まだ新しいその旅館は、木の香りが心地良い。子供の頃に智子たちとかくれんぼをして遊んだ、あの古い旅館も良かったが、こうして見ると、この町で唯一新しいこの旅館もしっくりと来た。
ふと立ち止まり、ロビーの脇の窪んだ場所に並ぶ自動販売機に金を入れて、缶コーヒーを買った。
「ヨシア」
後ろから節子の声がした。
「ああ、悪い…。お前も何か飲むか」
自動販売機を指差し節子に聞いた。節子は首を横に振った。義秋は取り出し口に落ちて来た缶コーヒーを取りロビーに出た。そこには浴衣姿の光生がいた。
「お前、行かないのか」
義秋は光生に聞く。
「ああ…。今日はここでのんびり過ごすよ。読みたい本もあるしな…」
そう言うと手に持った本を義秋に見せる。義秋は微笑み頷く。
玄関に準備されていた靴を履き、表に出た。節子と光生が後ろから着いてくる。義秋は急いで車に向かう。エンジンをかけると排気量の大きい車、独特の音が響いた。
車を旅館の玄関の前に着ける。
「これ、お前の車だったのか…。こんな町じゃ目立つな…」
光生が運転席の窓から、中を覗き込む様にして言った。「高かっただろ…」
「まあ、俺にとっては家みたいなモンだからな…」
義秋は上着のポケットに入れていた缶コーヒーを出し、ドリンクホルダーに置いた。
「この辺りだったら本当に家が買えるぞ…」
光生は苦笑して言う。
節子が助手席に乗り込むと、旅館の玄関から、いつもより少し着飾った智子が出て来た。髪を振り乱しながら旅館の中を走り回る智子が強く印象付いていたので、少し違和感があった。じっとその智子を見ていると、
「な、何ね…」
と、智子がそれに気付いた。「私もこげな服くらい持っとると…。何着かしか無かばってん…」
そう、たじろいで言った。
「行ってらっしゃいませ。奥さま…」
光生は智子にそう言って、義秋の車の後部座席のドアを開けた。
「何か、気持ち良かね…」
智子はそう呟き、車に乗り込んだ。
その光景を見て、義秋と節子は笑った。
「じゃあ、行ってくるよ」
義秋は光生に挨拶して車を走らせた。
「ああ、気を付けてな…」
寒そうに丹前の前を合わせて光生は義秋たちを見送った。
海岸線から新しく出来た大きな橋の入口まで広い道が出来ていた。義秋の車はその道を軽快に走った。昨日の陽気で、残っていた雪もほとんど溶けて無くなった。
「ヨシア。ちょっとお店に寄ってくれる」
後ろから智子が言う。お店とは橋の入口付近にある土産物屋の事だった。
「ああ、良いよ」
バックミラーで智子を見た。サングラスをかけて少し気取った様子で、後部座席に座っている智子が少し可笑しかった。
「そう言えば、ここのところ店に出て無いけど、良いのか」
「普段はアルバイトがおるとよ。あん日はたまたまアルバイトの人が休みやったけん、私がおったったい」
智子は珍しそうに車内を見廻しながら言った。
「そうだったのか…」
義秋はカーステレオのボリュームを下げた。「本当に偶然だったんだな…」
「そう。あん日は私も旅館に智子、訪ねて行ったら、店に出とるって言うけん、店まで行ったとよ…。そしたらヨシアが偶然おったとたい」
節子がそう言った。
本当に偶然だったのだろう。あの時間にあの場所にいなければ、こうはなって無かった。
義秋の車は、智子の旅館が経営する土産物屋の駐車場に滑り込んだ。
「ちょっと待っとって…」
智子は車を下り、店に入って行った。
義秋はサイドブレーキを踏み、ドリンクホルダーの缶コーヒーを開けた。コーヒーを飲みながら、そこから見える町を見た。冬独特の色を輝かせる海と、人の気配をほとんど感じない町並み。そしてどんよりとした灰色の空が義秋には印象的だった。
いつもこの町の冬は灰色の空だった気がする。夏の、雲ひとつない空とは、間逆のイメージだった。
智子が店から出て来た。運転席の窓を叩く。
「どうした」
義秋はウインドウを開けた。
「飲み物いらんね…」
智子は中に顔を入れる様にして言う。
「俺は持ってるよ」
義秋はそう言うと節子を見た。節子は頷いて、
「大丈夫」
と言った。智子はそれを聞くと自動販売機へ行き、自分の分の飲み物を買って、車に乗った。
「やっぱ山の上は寒かね…」
そう言うと温かい飲み物で冷えた手を温めた。
「じゃあ行くよ…」
義秋は車を駐車場から出した。
少し行くと、昔、学校まで毎日歩いていた狭い道に入る。
「こんな狭い道だったんだな…」
義秋はハンドルを切りながら言った。「ガキの頃はもっと広く感じたよ。学校までも遠かったしな…」
「そうたいね…。雨の日も雪の日も、ここば歩いて学校行ったもんね…。こんな綺麗な道じゃ無かったし…」 智子が窓の外を眺めて言った。「節子と二人で、よう最速何分で帰れるかってやったね」
智子は身を乗り出して節子に言う。
「やったやった。ほとんど走っとったばってんね」
節子は智子の顔を見て言った。
学校まで約四キロの道のりだった。その山道を毎日歩いて通学していた。朝はひたすら登りで、帰りは下り。それほどに暑さや寒さの記憶は無かったが、冬はまだ暗い時間に家を出て、帰宅する頃には既に日が暮れる。そんな記憶が義秋にもあった。
「バスに乗って学校に来とった子らが羨ましかったもんね…」
新しく建て直された小学校の校舎を見ながら智子が言う。
「雨の日なんか、靴の中もびしょびしょだったしな…」
義秋は缶コーヒーを飲んだ。「こんな過酷な学校は、今じゃ考えられないな…」
「だけん、こん町の子供は強かとよ…」
節子は正面を見たまま言った。
「そうだろうな…。何にも無い町だからな…。走り回って遊ぶくらいしか、やる事も無かったな…」
義秋は懐かしそうに微笑んだ。
「私らもいつも日焼けして真っ黒やったもんね…。冬でん白くなる事は無かったたい」
節子と智子は顔を見合わせて笑った。
光生は旅館のロビーでコーヒーを飲みながら、本を捲っていた。脇に置いた携帯電話が振動する。光生はその携帯電話を取り画面の表示を見た。
「根本依子」
そう表示されている。軽く息を吐いて画面にタッチした。
「はい」
「先生…」
依子は呟く様な声だった。
「どうした」
光生は本をテーブルの上に伏せた。
「今、どちらなんですか」
光生は答えなかった。
「私も今日と明日はお休みなんです。よろしければお会いできないかと思いまして」
一方的に話す依子に、光生は溜息を吐いた。
「古い友人と一緒なんだよ。済まんが又にしてくれないか…」
そう言って電話を切ろうとした。
「先生…。私、妊娠しました」
その言葉に光生は手を止めた。
「何だって…」
「赤ちゃん。出来たんです」
光生は眉を寄せた。「もちろん、先生との子供ですよ…」
「…」
光生は無言で電話を耳に当てたまま動かなかった。
「喜んでくれないんですか…」
依子の声が大きな空洞の中で響いている様だった。淡々と語る依子の言葉が自分とは関係の無い事の様に遠く聞こえた。
「先生…」
その依子の声で我に返った。
「そうか…」
そう言って顔を上げると、旅館の玄関から誠二が手を挙げて入って来るのが見えた。「依子…。後で連絡する。少しだけ待っててくれ」
そう言って電話を切った。
誠二は玄関で靴を脱いで、光生の傍にやって来た。
「お前、一人か。ヨシアは何処ね…」
誠二はテーブルの上に携帯電話を置いた。
「あ、ああ…。ホテルから荷物を持ってくるって出て行ったよ。智子と節子も一緒に行って、買い物するらしい」
光生はテーブルの上の紙コップのコーヒーを手に取った。「俺も久々の休みだからな…のんびりさせてもらってるよ」
そう言うと温くなったコーヒーを飲み干した。
「一緒に飯でもどげんかと思って…」
誠二はタバコを咥えて火をつけた。
「いいよ。マサは…」
「マサは海に出とるけん。帰ったら、土日は子供の相手ばせんといかんちゃ無かか。マサも忙しかったい。俺らと違って妻子持ちやけんね、あれでん」
誠二は笑って、腕時計を見ると、「ちょっと早かばってん、飯食おうか…」
誠二は長いタバコをテーブルの上の大きな灰皿で折った。
「ああ…」
光生はテーブルの上の本にしおりを挟んで立ち上がった。「ちょっと部屋に本を置いてくる。先に食堂行っててくれ」
そう言うと自分の部屋に向かった。
この小さな町で、外で飯を食える所はこの旅館くらいしか無かった。島に渡る橋が出来る前は、この町から島にフェリーが出ていて、そのフェリー乗り場に小さな食堂があった。なかなか良い味の飯を食わせる店だったのだが、橋が出来た事でフェリー会社は廃業し、その店も無くなった。
この旅館も、智子の弟の聡史が美味いモノを食わせるという事で有名だった。ただ町の人は、ほとんど外で飯を食う事は無い。釣り客が来て飯を食うか、この町にいながら独り身で飯を作るのが億劫な、誠二の様な客しかいなかった。
光生は鍵を開けて部屋に入った。窓際のテーブルの上に本を置いて、携帯電話を見た。
何度かデートをした若い医師、根本依子に自分の子供が出来たという。確かに覚えはあった。しかし、彼女にそう言われても、一切実感が湧かなかった。
光生は携帯電話の画面に触れて、依子に電話をしようとして止めた。その代わりにSNSの画面を開いて、
「友人と飯を食う事になった。後で必ず連絡するから、待っててくれ」
そう入れて送信した。
三村健三は自宅の書斎で、溜まっていた郵便物に目を通していた。自宅に帰る事も県会議員になってからは珍しく、街にマンションを借りて、妻と二人で住んでいた。 先日、県会議員を辞職して、今は参院選に備えて根回しをしている最中だった。
机の上に置いた携帯電話が、けたたましい音を出して震え始める。その携帯電話を掴み、開くと耳に当てた。
「はい」
静かな部屋で、三村の声だけが壁に吸い込まれる様に消えて行く。
「ああ…。予定通り進んでいるよ」
ゆっくりとハイバックの椅子にもたれた。
「分かっている。先日も言ったように、娘婿の神谷が私の後釜に座る予定だ。そっちも何ら問題は無い。…ああ、うん。大丈夫だ」
机の上の大きな湯呑を取ると、音を立ててすすった。そしてペンとメモを引き寄せる。
「序幕式だったな。ああ、元県会議員で良い。それ以上の肩書きは必要ない。ああ、神谷も出席する。あくまで再稼働反対派の立場だぞ。再稼働に反対しなければ票は集まらんのだ。それは君も分かっているだろう。ああ…。難しい立場なんだよ」
三村は立ち上がって、窓の外を見た。
「再稼働反対派の議員で、本気で反対している奴など数える程だろう。それだけ金の欲しい政治家は多いという事だよ。…ああ、分かっている。もちろんだ。今回も頼んだよ。県議選挙と違って、掛かる金も規模が違うだろう。それは大丈夫なんだろうな…。ああ、そうか…分かった。近いうちによろしく頼んだよ。幾らあっても邪魔にはならんからな…。ああ、ではよろしく頼む…」
三村は電話を切った。
元はしがない町役場の職員だった。市町村合併の際に、辞任する町長の後釜として市議に当選してから、とんとん拍子に県会議員になり、今、国会議員になろうとしている。三村には自分の眼下に広がる町は、既に自分のモノの様に映っていた。そして、この原発の町に流れ込む様に入って来る金も、自分のモノの様に思えた。
机の上に湯呑を置いて、自分の書いたメモを見た。
「クリーンエネルギーセンター建設計画記念碑除幕式」
メモには三村の丁寧な字で、そう書かれていた。
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