第4話 告白

 節子は義秋の脱いだしわになったワイシャツを床から拾い羽織はおった。上半身だけをベッドから起こし、まだ気だるさの残る身体を必死に起こそうとした。

 自分の横には義秋が眠っていた。その義秋の寝顔を見て、優しい顔で微笑む。

 義秋を起さない様にそっとベッドから抜けると、椅子の上にあった下着を取り、身に付けた。

 カーテンを少し開けて、見慣れたはずの街並を見下ろすと、太陽は既にその街を眩しく照らしていた。

 昨夜、節子と義秋は二十数年ぶりに愛し合った。あの頃のただお互いをむさぼる様なセックスとは違い、二人はやがて溶け始め一つになってしまうのではないかと思える様な感覚に陥った。節子はその感覚に少し恐怖に似たモノさえ感じた。そして、そうなってしまいたいと思いながら義秋に必死にしがみついていた。

 ワイシャツのボタンを閉じると、自分の胸から義秋の匂いが漂う。それが実際に香るモノなのか、自分の記憶の中に残るモノなのかは節子には分からなかった。

 義秋がベッドの中で寝返りを打つ。

 本当は義秋とずっと一緒に居たかった。

 節子は義秋の寝顔を見ながら、そう思った。あの日、節子は涙交じりに義秋に別れ話をした。

 本当に離れ離れになる日を、涙で曇らせたくなかった。義秋と離れてしまう最後の瞬間を涙で曇らせて、記憶に焼き付ける事が出来ないのが嫌だったのだ。義秋が町を出る半年以上も前に節子から義秋に別れを切り出したのだった。

 眠っている義秋の髪に自然に手が伸びた。節子は誰にも見せた事の無い優しい笑顔で、ゆっくりと義秋の髪を撫でていた。

 義秋が再び、寝返りを打つ。そしてゆっくりと目を開いた。義秋の視界はぼんやりと開け始め、だんだんと色彩が蘇って来た。そこには優しい笑顔で自分の顔を覗き込む節子が居た。

「節子…」

 節子の顔を見て、昨夜の事が夢でない事を再認識した。

「おはよう。やっと起きた…」

 節子は小さな声でささやく様に言うと義秋にキスをした。

 義秋は節子を引き寄せ、何度も何度もキスをする。

 節子は義秋の胸に手を突いて、少し身体を離した。

「もう…」

 少し呆れた顔で、節子はクスクスと笑った。

 義秋は上半身を起こし、ベッドから片足を床に下ろした。

「今、何時だ…」

 義秋は鏡の前に置いた携帯電話を取った。時間はもう昼前になっていた。「こんな時間か…」

 義秋は立ち上がると、自分が何も着ていない事に気付く。節子は義秋の下着を椅子の上から取って、義秋に渡した。黙って義秋は下着を付けた。

 二人がこうしている事はこの上なく自然体で、二十数年経った今でも、あの頃と同じ様にお互いを感じる事が出来るのだった。

「腹減ったな…」

 義秋がそう言うと、

「うん…」

 と節子は短く返事をした。「ペコペコ」

「何処かで飯…」

 義秋はそう言い掛けて途中で止めた。節子が昨夜着ていた服では、朝帰りしましたと言わんばかりだった。「ルームサービスでも頼もうか…」

 義秋は節子に微笑んだ。

 

「よお、釣れたか」

 誠二は船の上に政典を見つけて声を掛けた。

「おうセージ。何ば油売っとるとか、クビになるぞ」

 政典は誠二に微笑む。

 誠二は船へのたわむ渡し板を器用に渡ると政典の横に立った。そしてポケットから缶コーヒーを取り出して政典に渡した。

「クビにして欲しかとばってん。なかなかしてくれん…」

 政典は受け取った缶コーヒーの礼を言った。

 誠二は政典の船のへりに肘をついて波の無い海を見た。時折、揺れる船の腹を打つ小さな波の音が聞こえて来る。政典も立ち上がって、誠二の横に立った。

「なあ、マサ…」

 誠二が自分の缶コーヒーを開けると、その口からは微かに湯気が立つ。

「何ね…」

 政典はタバコを咥えた。

「ヨシアが、あん時…こん町に残っとったら、何か変わっとったやろうか…」

 誠二は缶コーヒーを飲んだ。

「さあな…。そげん事は想像も出来ん」

 その言葉に誠二は政典を見て微笑む。

「そうたいね…。ヨシアはこん町に納まる様な奴じゃ無かもんね…」

 誠二もポケットからタバコを出した。「いずれは町ば出て行く奴やったっちゃろうけど、あん時じゃ無かったらまた、ごうとったろうね」

 政典は誠二が節子の事を言っているのが分かった。政典も誠二が節子に惚れていた事は知っていた。節子にその想いが伝わっていない事も…。

「セージ。お前…」

 政典は誠二の横顔を見て何かを言おうとして止めた。「いや、良か…何でん無か…」

 そう言うと海に背を向ける様に船の縁に背を付けた。

 誠二も政典が言おうとしている事に気が付く。背を向けた政典をちらっと見て、

「俺も女々めめしかね…。それは自分でも良う分かっとるったい」

 そう言って波紋の広がって行く海を見た。

 政典は両手を船の縁に広げた。その片方が誠二に当たり、誠二は驚いて政典を見る。

「なあ、セージ」

「何ね…」

 政典はゆっくりと首を動かして、誠二を見上げる様に見た。

「お前、出来ればヨシアには、節子に会って欲しく無かったっちゃろ…」

 誠二は慌てて、

「まさか…。ヨシアがどうこう言う前に、節子は神谷の嫁たい…」

「そうばってん…。神谷とヨシアじゃ違うけんね…」

 政典は視線を空に移した。「お前もそげん、思うとったっちゃろ」

 誠二は鼻で笑い俯いた。

「マサには何も隠せんね…」

 政典はその言葉に身体を起した。

「ヨシアにも隠せんぞ…」

 そう言うと誠二の肩を叩いた。

 そして二人で笑った。


 義秋は節子を乗せて車を走らせていた。山道のカーブを義秋はスピードを落として登って行く。それでも昔とは違い、かなりカーブは減り、走りやすくなっていた。

「この道も変わったな…。通学の時に乗ってたバスの運転手には感心するよ…」

 横に座る節子はその言葉に頷いた。

「そうね。こげんせまか道ば運転するちゃもんね」

「そうだよな…」

 先日寄ったコンビニが見えて来た。「ちょっとコンビニ寄って良いか」

「うん。私も何か飲み物欲しいけん…」

 車はコンビニの駐車場に滑り込んだ。義秋は車を停めると節子に、

「何か買ってこようか」

 と訊く。節子は自分も降りると言うのでエンジンを切り、車を降りる。

そこに荒々しい運転で黒いワゴン車が入って来た。

「危ないな…」

 義秋は節子をかばいながら、その車を睨む様に見る。運転席から大柄の黒人が下りて来て、義秋と節子を鋭い目つきで見た。

 こんな田舎で外人を見る事も少なく、しかもかなり大柄の男。少し威圧される感覚だった。

 その黒人がコンビニに入ろうとした時に助手席の窓が開き、女の声がした。

「ビスコ、私はキツメン二個。リョウとアヤカはいつものね」

 女はそのビスコと呼ばれた男に一万円札を指で挟んで渡した。

「はい。分かりました」

 しっかりした日本語でその大柄の黒人は言う。

 何故か日本語が話せるというだけで安心してしまう。その黒人と一緒に義秋と節子はコンビニに入った。飲み物を買ってレジに並ぶと、ビスコは金を払って出て行った。

 義秋も自分と節子の飲み物とタバコを買って金を払い店の外に出た。

「馬鹿じゃ無かとか。私が頼んだんはキツメン。これ違うやろ」

 助手席の窓から、女はその大柄の黒人、ビスコにタバコを投げ付けた。そのタバコが義秋の足元に転がった。義秋はそのタバコを拾い、ビスコに手渡そうと近寄る。

「どうも…。すみません」

 ビスコは義秋に頭を下げた。

「ごめんなさいね。こいつが使えなくて…」

 女は車の中から義秋に言う。そして、「あれ…ヨシア…」

 女はそう言って窓から顔を出した。

「浩美」

 節子がその女をそう呼んだ。

 貴志川浩美きしかわひろみ。同級生だった。昔から美人だったが、しっかりと化粧もして、その気品は更に惹き出されている様だった。

「浩美か…」

 義秋がそう言うと浩美はドアを開けて降りて来た。

「久しぶりね…。何年ぶり…」

「二十年以上だよ」

 浩美は自然に義秋の手を取った。

「あ…節子、連絡くれとったね。ヨシアが帰って来とるけんって」

 浩美は節子の方を見て言う。

 節子は意味有り気に、にっこりと微笑んで頷いた。

「あんたら、何で二人でおると…。もう焼け棒杭ね。いやらしか…」

 浩美はいやらしく微笑む。

「そんなんじゃないよ…」

「違うわよ」

 義秋と節子はほぼ同時に否定した。

「その声の揃う所がまた怪しかね…」

 そこに立ちすくんでいたビスコが、

「あの…」

 と浩美に声をかけた。

「アンタ、早ようタバコば取り替えて来て」

 浩美はビスコの大きな身体をハイヒールで蹴る。ビスコはその場に膝を突いた。

「おいおい。かわいそうだろうが」

 義秋は手を付いて立ち上がろうとするビスコの手を取った。

「良かとよ。ホントに使えん奴やけん」

 そう言う浩美を尻目に、義秋はビスコのジーンズの膝を叩き、砂を落とした。

「あ…うちの運転手。デリヘルのね…。ビスコ。ビスコンティって言うったい。略してビスコね」

 浩美は車の中からタバコを取り、火をつけた。

「デリヘル…」

 義秋は訊き返した。節子はその義秋の肘を引っ張った。

「ああ…知らんかったと。」

 浩美は煙を吐きながら言う。「若い子にね。稼がせてやるために始めたとよ。初めは原発の関係者ばっかりやったとばってん。今は街の若い子の客の方が多いったい。だけん、今も街に行った帰り」

 浩美は何の躊躇ためらいも無く言った。

 義秋は先日、古谷旅館で飲んだ時に少し話に出たのを覚えていた。

 ビスコがタバコを取り替えてコンビニから出て来たのをを見て、

「ごめん、急いどるけん、また」

 浩美は車に乗り込んだ。「あ、そうだ」

 何かを思い出した様に言うと、窓から名刺を義秋の前に差し出した。

「隣町でスナックばやっとるけん。良かったら寄ってよ。こがん田舎にしては女の子も揃っとるけん、面白かばい。」

 浩美は運転席のビスコに車を出すように命令した。「またね」

 大声で言うと手を振りながら去って行った。

 その浩美の姿を見て、義秋は節子と顔を見合わせて笑った。

 車に乗り込むと、

「浩美はタフやけんね…」

 と節子が言う。

 確かに、浩美は昔からタフだった。義秋は昔の出来事を思い出した。

 親がスナックなんて商売をやっているという事で中学の時に同級生に虐められていた。その日も浩美を中心に十数名の女子が囲んで虐めていた。


 義秋が教室に入ると教室の後ろにクラスの女子が集まっていて、その輪の中心には浩美が立っていた。女子独特の世界で、集団で一人を攻撃する。

「アンタ、生意気かね…。ちょっと男子に人気があるけんって」

 その集団のリーダー格の女が言う。

「何、どげんした」

 義秋はその様子を机に座って見ていた政典に訊いた。

「なんか浩美ん事ば気に食わんって虐めとるみたいぞ」

 政典はそう言って微笑む。「ばってん、アイツらじゃ浩美ば負かす事は出来んたい…」

 義秋にもそれは分かっていた。

 大勢の同級生に囲まれながらも気丈な態度で、周囲を睨み付ける浩美。その態度が気に入らないと更に凄む女子たち。その様子を義秋と政典、その他数名の同級生たちが黙って見ていた。

「アンタのお母さん、スナックばやっとらすけん、アンタも男に色目いろめば使うとが上手かっちゃろ」

 一人の女子がそう言った瞬間、場の空気が変わった。そして教室内に浩美の平手打ひらてうちの音が響いた。

 周囲の女子もその浩美の行動に一歩引いた。

「大丈夫」

「かわいそう」

「何で暴力ば振るうとね」

 などと勝手な事を言いながら、ビンタを食らった女子の周囲に集まっている。

「お母さんは関係無か。私に喧嘩ば売っとるとなら私ば攻めんね。お母さんは関係無かけん」

 浩美はそう吐き捨てる様に言うとズカズカと歩いてその囲みを出て行った。

「浩美…やるね…」

 義秋はその様子を見てつぶやく。

「ああ…あれは強か女たい…」

 政典はビンタされて涙を流す女子を見たまま言う。「浩美に喧嘩売るなんて、俺もわあて出来んけんね…」

 政典はそう言うと笑った。

 その日の帰り、珍しく政典が先に帰ってしまい、義秋は一人で帰ろうと校門を出ると、後ろから声がした。

「ヨシア」

 義秋が振り返ると、そこには浩美が立っていた。

「おう…浩美か」

 浩美は走って義秋に追い付く。「今日は、一人か…」

 義秋がそう聞くと浩美は頷いた。

 いつもは数名の女友達と帰っている浩美が珍しく一人だった。

 お互い一人は珍しく、少し義秋は微笑む。

「じゃあ、一緒に帰ろか…」

 そう言って歩き出す。

「アンタさ…」

 浩美が突然、口を開いた。

「何…」

 義秋は浩美の横顔を見た。

 浩美は義秋の顔も見ずに、真っ直ぐに前を見たまま、

「アンタ、何で私が虐められとるとに助けんと…」

 そう言った。その声からやたらと迫力を感じた。

「ああ…さっきのか…」

「そう。さっきの…。アレは流石に助けるっちゃ無かろうか…」

 浩美は義秋を睨む。

 結果、助けが必要だったのは虐めていた奴らだったのだが…。

「あの後、職員室に呼び出されたとよ…。だけん、こげん遅くなったと…」

 浩美が一人で帰っている理由が分かった。

「助けてくれとったら、こげん遅くならんで済んだとに…」

 その言葉に義秋は微笑んだ。浩美は囲まれて怖かった訳じゃない。呼び出されて遅くなった事でそう言っていた。

「そりゃ済まんかったな…」

 義秋は笑いながら浩美に謝った。

「何で笑うと…。真剣に怒っとるとに」

 そんな浩美を義秋はなだめる。

「ばってんさ、浩美は可愛いかし、男にもモテるし、勉強も出来て、やっぱ目立つっちゃん…。ああやって文句言われるってのも人気んある証拠たい」

 義秋がそう言うと、浩美は更に食い付いてくる。

「私の何処が…。誰にモテとると。ヨシアの言うとる事が良う分からん」

 浩美の眼つきの鋭さが義秋には少し怖かった。

「ちょっと寄り道して良かか…」

 義秋は空き地に建ててあった工事現場のプレハブを親指で指した。「何なら先に帰っても良かぞ…」

「遅くなりついでやけん。付き合う」

 浩美も一緒に、そのプレハブのある工事現場に入って来た。

 プレハブの前には、工事の作業員のために設置された自動販売機が置いてあった。

「ジュースおごっちゃろ」

 義秋はポケットから小銭を取り出し、自動販売機に百円玉を入れた。

「ありがとう」

 浩美はメロンソーダのボタンを押した。大きな音を立てて取り出し口に缶が落ちて来た。

 義秋も百円を入れて、サイダーのボタンを押す。そして、プレバブの横に回り、建物の隙間に手を入れる。

「何…何があると…」

 浩美は義秋をじっと見ていた。

「ここに隠しとるったい」

 そう言いながらプレバブの隙間に上手く隠しているタバコを取り出した。「なかなか家でも吸えんけんね…。ここで吸うて帰っとると…」

 セブンスターの包みからタバコを穿ほじり出して咥えた。近くに置いてある木材に座り、タバコと一緒に隠してあった百円ライターで火をつける。

「うわ…ヨシア、不良ね…」

 そう言うと浩美も義秋の横に座った。

「タバコくらい、みんな吸うとるたい。こげな田舎、他に何の楽しみも無かけんね…」

 ちょうどプレハブの陰になり、道からは見えない、制服姿でタバコを吸うには絶好の場所だった。

 二人は缶ジュースを飲みながら夕日の沈むオレンジ色の海を見ていた。

「綺麗かね…。ロマンチックたいね…」

 浩美はそう呟いた。

「一緒におるとが俺で悪かったね…」

 義秋は煙を吐きながら言う。

「そげんこつは無かよ…」

 浩美は義秋に微笑んだ。「私にもタバコくれんね…」

 義秋はその言葉に少し驚いた。

「良かばってんが…。大丈夫か」

 義秋は自分の横に置いたセブンスターの包みを浩美に渡した。

 それを受け取ると浩美は慣れた手つきで咥えて火をつけた。

 義秋はそれをじっと見ていると、

なんよ…」

 浩美は美味そうに煙を吐いた。

「いや…。何でんなか…」

 義秋は浩美からセブンスターの包みを受け取ると、また自分の横に置いた。

「あん子らの言ってた事も満更でも無かとよ。あんなお母さんやけん、私も酒も飲めるし、タバコも吸うとたい。男に色目ば使こうとるかどうかは別として…」

 浩美は笑って言った。

「そっか…。俺は別にそれでん良かと思うばってんな…」

 義秋はサイダーを飲んだ。それを見て浩美もメロンソーダを飲む。

 スカートの裾を気にしながら、足を開いて身体を前に倒す。そして義秋を見上げる様にして訊く。

「私がタバコば吸うって知って、びっくりした」

 義秋は正直驚いていた。

「まあな…」

 目一杯、平然を装って笑った。

「私さ…」

 浩美はタバコを指で挟み、斜めに口にした。義秋にはその姿が妙に格好良く見えた。「ヨシアの事ば好きかもしれん」

「は…」

 義秋は一瞬何の事か分からなかった。「え…何て…」

「アンタ酷いな…。乙女の告白を…」

 浩美は義秋の腕を殴った。

「いや…驚いたけん…」

 義秋は動揺を隠せなかった。

「酷いわ…。ヨシアの馬鹿」

 そう言うと浩美は俯いた。

 浩美が手に持ったタバコの先から細い紫色の煙が上がって行くのだけが見える。

「いや…なんて言うか…」

 浩美が泣いてると思い義秋は焦る。「いや、ホントにびっくりした…。どげんしたら良かとかな…」

 義秋は短くなったタバコを、地面に擦り消した。

「知らん」

 浩美は俯いたままそう言う。

「許してや…」

「知らん」

 義秋は俯いた浩美の顔を覗き込んだ。浩美はその義秋を肘で突いて突き放す。

「どげんしたら許してくれるとや」

 その言葉に浩美は急に顔を上げた。そして手に持ったタバコを咥えると一度吸って地面で消した。

「一発殴らせろ…」

 浩美はそう言った。

 そう言う浩美の顔が少し笑った気がした。それを見て安心した義秋は、

「良かぞ…」

 と言って微笑んだ。

 その言葉に浩美は立ち上がってスカートの尻を叩く。そして義秋の前に立った。

目瞑めつむり…」

 威圧的に義秋に言う。

 義秋はゆっくりと目を閉じた。教室で見た浩美のビンタを思い出す。あの音が出るビンタはかなりの痛みを伴う事を覚悟した。そして同時に、女心を分からない事は罪だという事を、義秋はこの時思い知った。

 次の瞬間、義秋の唇に浩美の唇が触れた。義秋が驚いて目を開けると、すぐ近くに目を閉じて義秋にキスをする浩美の顔があった。

 義秋は、再び目を閉じた。

 長い長いキスだった…様に感じたが、実際には数秒だったのかもしれない。

 浩美の唇が義秋から離れた。義秋もゆっくりと目を開けた。

 すると今度は、義秋に浩美は抱き付いて来た。

「顔ば見るな」

 義秋の耳の横で浩美が呟く様に言う。

「うん…」

 義秋は声にならない返事をした。

「私だって恥ずかしかとよ…」

「うん…」

「私のファーストキスやけんね…」

「うん…」

 こんな時の男の情けなさは自分ではどうしようも無い。義秋はただ頷くだけで、浩美の体温と、沈む夕日の発する暖かさを感じていた。

「俺も初めてやけ…ん」

 義秋に抱き付いた浩美の腕が絞まる。「ちょっと苦しか…」

「うるさかね。黙っとけ」

 義秋は自分の頬に浩美の流す涙が触れるのを感じた。

「浩美…」

「黙っとけ…」

 義秋と浩美は、しばらくそのまま動かなかった。日が暮れて、浩美が泣いた顔が見えなくなるまで…。


「ヨシア…」

 節子に名前を呼ばれて、義秋は我に返った。

「ん…どした…」

 義秋は節子を見た。節子は義秋の顔を覗き込む様にして、

「浩美とキスした時の事ば思い出しちょったっちゃろ…やらしか…」

 図星だった。

「馬鹿か…なんでそげん事ば思い出すとか…」

「え…何…今、何で方言…」

 節子に言われて初めて、義秋も方言を発した事に気付く。

「ホントに思い出しとったんか…」

 節子は運転する義秋を手で突いた。

「まさか…」

 動揺した義秋の声は震えていた。そしてある事に気が付いた。「あれ…」

「何よ…」

 ニヤニヤと笑って節子が義秋を見る。

「お前…何で知ってるの…」

 義秋はチラチラと横に座る節子を見ながら言った。

「ヨシアが浩美とキスした事…。結構有名やったとよ…」

 義秋は初めて知った。

「浩美がさ、学校で言い回っとったけんね」

 確かに言われてみると、黒板に相合傘を書かれたりされた事もあった。しかしキスをした事までは、誰も知らないと思っていた。

「浩美が…」

「うん。ヨシアのファーストキスば奪ったって言うて…。その後、浩美ば怒らせるとヨシアが黙っちょらんって、誰も浩美に喧嘩売る子、おらん様になっとよ」

 そう言う事か…。

 義秋は三十年近く経って初めて知った。確かにある時から、浩美が女子に文句を言われなくなった。それは浩美の怖さを周囲が知ったからだと思っていた。

「もちろん、節子も…」

 義秋はハンドルを切りながら節子に訊く。

「もちろんその当時から知っとった。私だけや無かよ。智子も、マサもセージも知っとるはずたい…」

 何て事だ…。

 義秋は当時の自分が滑稽こっけいになって、顔を引きらせた。

「そん時ね…」

 節子は改まって口を開く。「そん時、私もヨシアが好きで…」

 それは当時、智子からも聞かされていた。

「だけん…正直ショックで。小学校からずっと皆勤賞やったとに、途切れたとよ…。ヨシアのせいで…」

 節子は昔の淡い思い出を、優しい口調で話していた。

「ばってん…浩美の事も嫌いじゃ無かったし、ヨシアの事も嫌いになれんかったし…。ただ、私もヨシアとキスしたいって思ったと」

 義秋は節子の顔を見ずに、正面を見たままハンドルを握っていた。

「高校行く時にさ、浩美は学校違ってたけん、嬉しかったのは事実たい」

 節子は窓の外に視線を向ける。

「それで無くてもヨシアの事ば好きって子、多かったけんね…」

 節子は呟く。

「え…そうなの…」

 義秋はそれも初めて知った。

「それそれ。ヨシアは鈍かけん、バレンタインのチョコ渡したくらいじゃ気が付かんって有名やったとよ」

 節子は声を出して笑っていた。

「失礼な…」

 義秋も一緒に笑った。


 節子を節子の実家の前で降ろした。その後一緒に古谷旅館に行くと節子が言うので、義秋は家の前に車を停めて待っていた。

 以前住んでいた家は町にあったが、今は隣町に引っ越していた。引っ越したのも義秋が町を出て数年してからだと言う。

 その場所に以前、何があったか義秋には思い出せなかった。

 義秋は車から少し離れて通りまで出た。その通りには以前はあった駄菓子屋や肉屋、小さな電気店なども無くなっていた。

 もう二十年経っているからな…。

 義秋は寂しくなり、俯いた。

 自分が居なかった間もここは時間が流れていた事を、変わってしまった風景で思い知った。

 ポケットからタバコを出して、火をつけた。そして空に向かって煙を吐く。その煙は風に乗ってすぐに消えて行った。

 向かいの家の軒下には、まだ雪が残っていた。その家の壁には、錆びて読めなくなったスチール製の看板がしっかりと縫い付けてあった。

 タバコを消して、携帯灰皿に入れると車に戻る。車のドアを開けて乗り込もうとした時に屋敷と言った方が良さそうな、その家から節子が出て来た。

「お待たせ」

 節子はさっきまでと違うラフな格好でそう言った。

「待った待った。二十年くらい待ったよ」

 義秋はそう言って、節子の傍に回り、車のドアを開けた。

「何ば言いよるとよ」

 節子は笑って言う。

 その時、義秋の後ろでクラクションが聞こえた。振り返ると黒塗りの高級車が近づいて来た。節子はその車を、首を伸ばして見ていた。

「お父さん…」

 節子はそう言った。

「え…」

 義秋は節子を一度見て、再びその車に目をやった。家の門が自動で開き、車は半分敷地に入った所で停まった。

 後部座席の窓が開くと、中から三村健三が顔を出した。

 三村健三…。

 義秋はその男をサングラス越しに見た。

「節子…。何処に行くんだ…」

 昔、義秋が聞いた事のある、三村健三の声だった。

 節子は三村の車へ歩み寄る。

「今から古谷旅館まで…」

「誰だ…」

 小さな声で義秋の事を訊いている声が聞こえた。

「あ…。同級生の木瀬君」

 節子は義秋の方を見てそう言ったので、義秋はサングラスを取って頭を下げた。

 しかし三村は義秋に挨拶をする様子も無かった。義秋は直立したまま節子と三村の様子を見ていた。

 小さな声で話している節子と三村…。

 高校生の時にこの三村が義秋に電話をして来た事があった。さっき聞いたその声で…。義秋が記憶から消そうにも消せない声だった。

 節子が三村の車から離れると、屋敷の中に入って行った。

「どげんしたと…怖か顔ばして…」

 節子が義秋の傍に戻って来て言った。

「ん…。ああ…何でもない。行こうか…」

 義秋は車のドアを大きく開き、節子を乗せるとドア閉める。運転席に回り、乗り込もうとして今一度、三村の車が入って行った門を見た。

 三村健三…。

 義秋は車に乗り込んで、ドアを閉めた。

「さあ、行こうか…」

 義秋は車を走らせた。

 節子は少し様子の違う義秋の横顔を見ていた。


 義秋の車は古谷旅館の駐車場に滑り込むと、それとほぼ同時に智子が玄関から出て来た。

「早すぎるって…」

 車から降りると智子はそう言った。

「そうか…」

「うん。今、お風呂もお湯抜いて洗っとるし、晩御飯までもまだ時間あるけん…」

 智子は身振り手振りで説明した。「もう少し、どっか行っといて…」

 義秋と節子は顔を見合わせて、困ったと言わんばかりに眉を寄せた。

「分かったよ。その辺うろついてくるから」

 義秋はそう言って車に乗り込んだ。

「上手く行ったとたいね…」

 智子は節子を肘で突いた。

 節子はニコッと笑い、何も言わずに義秋の車に乗り込んだ。

「二時間後に戻って来たら良かけん」

 智子は走り出す車に手を振りながら言った。

 義秋はゆっくりと海岸沿いの狭い道を走りながら、

「だったら、先に言えよな…。この町の何処で時間潰せって言うんだよ…」

 そうブツブツと文句を言う。

 それを見て節子は笑った。

「だったら、ほら、ヨシアの家のあったとこ行ってみん…」

 義秋が以前住んでいた場所。田舎の安い土地は二束三文で処分され、誰かの畑になっていた。

「そんな所行っても、五分で飽きるぞ…」

「良かやん。行ってみよう」

 節子はシートベルトを締める。

 ノスタルジックな想いに浸るつもりは毛頭無かった。しかし他に行くところも無く、義秋は、昔住んでいた家のあった場所へ車を走らせる。

「こんなに狭い道だったかな…」

 義秋は異常に走りにくい道をゆっくりと走る。

「私はずっとここに住んどるけん、そんな感覚は無かとばってん…。確かに狭かね…。対向車の来たら、この車やったら大変たいね…」

 節子は窓を開けた。

 義秋が住んでいた場所は、古谷旅館からその湾を半周する所にあるが、小さな港なので歩いても十分程度の距離だった。その町の集落の外れにその場所はあった。

 少し広くなった場所に義秋は車を停めた。

「ここで何するんだ…」

 義秋は苦笑しながら周囲を見渡した。

「良かやん…降りてみよう」

 節子は微笑みながら言うと車から降りた。

 義秋も呆れた顔をして車を降りる。節子の背中を追う様に義秋は歩いた。その場所からは海岸に下りる事が出来た。節子は躊躇ちゅうちょなく石の転がる海岸に下りた。

「ヨシアは珍しく無かかもしれんばってん、この町で海岸に下りる事の出来る所ってこの辺から先しか無かとよ」

 節子は振り返って言う。

 湾の大半が港になっていて、船が係留されている。確かに言われてみると、義秋の家のあった辺りから先しか、海岸に下りる事は出来なかった。

「そう言われてみればそうだな」

 義秋は石を拾って海に投げた。その石は音を立てて海面を打ち、その波紋が広がって行く。「俺には何にも珍しく無かったけどな…」

 節子は立ち止って振り返る。

「ヨシアの日常やった場所たいね…」

 節子は微笑んだ。

 その節子を見て義秋も微笑む。

「ここでこうやって、石ば投げとったったいね…」

 節子もぎこちないフォームで石を投げる。

 義秋はその海岸に無数に転がる、石の上に腰を下ろした。

 すると、節子もその義秋の横に座った。

 横に座る節子を一度見て、海の向こうに見える大きな橋に視線を移した。

「あんな橋はもちろん無くて…。この海岸も、もっとゴミだらけで。何にもする事の無い町だった。それでも俺はこの町が好きで、ここで生きて行くんだと思ってた。じいさんや親父がやっていた工場を継いで、ここで生きて行くんだと信じてた」

 そう話す義秋の横顔を、節子は頬を緩めながら聞いている。

「あの時、俺がこの町に残ってたら、今頃どうなっているんだろうか…。そう考えた」

 節子も海の向こうに見える橋を見た。

「どうなっとったん…。ヨシアの想像は」

 今度は義秋が節子の横顔を見た。

「さあな…」

 そう言うと節子と義秋は顔を見合わせ、声を出して笑った。

「ねえ…あっちの神社まで行ってみん」

 節子は更に先にある神社を指差した。

 義秋は小さく何度も頷いた。

「行こう…」

 節子は立ち上がって手を差し出した。義秋はその手を握ると立ち上がった。

 義秋の車の傍を通り過ぎて、低い防波堤の続く狭い道を歩く。波の無い穏やかな海が見える。その海は冬の晴れた日の光を反射してキラキラと輝いていた。

「今日は暖かかね…」

 節子は髪をかき上げながら言う。

 先日の雪の日が嘘の様だった。冬の中休みとでも言うのだろう…。

 先日、政典の船から見た風景が広がっている。神社の傍には誰も住んでいない。そこに広がる海しか見えないその道を、二人は歩いて行く。

 カーブを曲がると、大きな鳥居のある神社が見え始めた。その先に小さな燈台とうだいがある。潮の引いたその日は、釣りをしている人も居なかった。

 神社に近づくにつれて海岸の石は大きくなっていき、やがてそれは岩になる。

「海岸に下りて歩こう」

 節子は義秋の手を引いて、防波堤の途中にある階段を下りた。

 ごつごつした岩の、比較的歩きやすい場所を選んで節子は歩く。

 昔はそんな岩場を、アスファルトで舗装された道を歩く様に歩いていた義秋だったが、今はその岩場に足を取られ、思う様に歩けなかった。

 こんなに変わってしまうんだな…。

 気が付くと義秋は息を切らして、額に汗を浮かべていた。

「大丈夫…」

 少しへばった義秋を節子が覗き込む。

「いや…前を歩く自分が見えるよ…」

 義秋は近くにあった大きな石に座った。身体は昔の感覚を覚えていて前に出ようとするのだが、その感覚に身体が着いていかなかった。

「タバコの吸い過ぎたい…」

 節子は笑って義秋の横に座った。

「かもな…」

 義秋はそう言いながらも、ポケットからタバコを出して咥えた。いつもの様にマッチを擦って火をつける姿を節子は目を細めて見ていた。

「ヨシアはさ…」

 節子は膝を抱えてその膝に頬を乗せた。

「何…」

 義秋はタバコを咥えたまま、節子に微笑んだ。

「ヨシアは…小学校の時、誰が好きやったと」

 節子はニコニコと頬を緩めていた。

 少し間を置いて、

「さあな…忘れたよ」

 そう言った。すると間髪入れずに、

「じゃあ中学の時は…」

 義秋は笑った。そして、

「さあな…」

 そう答えた。

「じゃあ高校生の時は…」

 節子は目を大きく見開き、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「それは…」

 そこまで言って義秋は言葉を止めた。

「酷いな…そこで止めるかな…」

 節子は少し膨れた顔をした。

 義秋は太陽から連なる光の帯が、二人の方を向いてるのを見ていた。水面をキラキラと輝かせているその光景は紛れもない義秋の故郷の風景だった。

「俺も驚いたんだよ…。節子が俺の事好きだって知った時…。俺も好きだったから…」

 義秋は輝く海を見たまま言った。

「それでも浩美とキスしたとやもんね…」

 節子は目を細めて言う。

「あれは…」

「あれは」

 義秋はそう訊かれて指先で頭を掻く。

「まさか浩美に無理矢理されたとか言わんよね…」

 義秋は唇を歪める。それを見て節子は顔を上げた。

「もう忘れたよ…」

 義秋はタバコを携帯灰皿に入れた。

「でも良かった」

「何が…」

 義秋は携帯灰皿をポケットに入れた。

「小学校から高校まで、ヨシアの歴代の好きな人ん中に浩美の名前が無かったけん」

 節子はその大きな石の上に寝そべった。「私ね…浩美には何ばしても勝てんかったとよ…。勉強もスポーツも…その上、ヨシアも…。死のうかと思ったくらいやけんね…」

 義秋は節子と同じ様に寝そべる。腰の筋肉が程良く伸びて心地良かった。

「大袈裟だよ…」

 義秋は笑った。

「大袈裟や無かとよ…。ホントに何にも勝てんかったとやけん…」

 節子は義秋の方を向くと、すぐ傍に義秋の顔があった。節子はそっと義秋の唇に唇を合わせた。義秋も節子の肩に手を回し、身体を引き寄せた。

 二人の唇が離れると、節子は義秋の胸に額を当てた。

「だから今まで浩美が苦手で…。大人になってもその苦手の意識は何も変わらんかった」

 義秋は節子の頭を包む様に抱いた。

「もう良いよ…。その話は…」

 義秋は少し力を入れ、節子の顔を自分の胸に押し当てる様にした。「俺が好きだったのは間違いなく節子だ…」

「うん…」

 節子は首を小さく動かした。「私ん事ば愛してくれたんはヨシアだけたい…」

 義秋はその言葉に息を吐いた。

 誠二の話を思い出した。

「私、お父さんの言うがままに結婚したとよ…。神谷一馬と…。それはお父さんが神谷の家と繋がりを持ちたかったけん…。そのために結婚したと…」

 節子のくぐもった声は、義秋の胸に振動として伝わっていた。

「神谷の家も同じで、三村の家と繋がりたかっただけ。それで両家は絶対安泰って…」

 節子は義秋の胸に手を当てた。

 義秋も腕を緩めて、片手で節子を抱く。

「神谷との間に愛なんて無かとよ…。結婚してもう十数年経つけど、一回も抱かれた事も無か。それどころか私の行動に興味も無かし…」

 節子は自分の顔の前に、握った両手を入れる。涙を堪えている様だった。

「子供が欲しかったけん、一回言うたとよ…。子供欲しいって。そしたら神谷…」

 節子は突然起き上がり、義秋に背を向けた。

 まさに誠二の話、そのモノだった。その先の話は義秋が誠二に聞かされて知っている事と同じだろう。しかし、義秋はそのまま黙って節子の話を聞いた。

「こん町出身の私との間に子供が生まれて、変な子やったらどうするとかって…。俺はお前が欲しくて、お前との子供が欲しくて結婚したとや無か…。三村の家と繋がりさえ出来たらそれで良かっちゃけん、それ以上の事は考えるなって言われて…」

 義秋は口の中に溜まった唾液を呑み込もうとした。しかし、その唾液が喉の入口で詰まる感覚を覚えた。

 節子は義秋に話しながら泣きじゃくっていた。しゃくり上げながら話す、節子の背中に義秋は手を当てた。

 酷い話だった。政略結婚がこんな小さな町にもある。そしてその陰で犠牲になる女が居る。この時代にそんな話が実際にある事を義秋は知った。誠二に聞いた時は、単なる誠二の想像話かと軽く捉えていた。しかしそれは紛れもない事実だったのだ。

 込み上げて来る怒りを何処へ向ければ良いのか、義秋の奥歯はギシギシと音を立てていた。

 節子は振り返り、再び義秋の胸に顔を埋めた。

「もう分からん…。こん先、どうやって生きて行けば良かとやろうか…」

 泣きながら言う節子に、どんな言葉を掛けてやれば良いのか…それさえも分からなかった。

「節子…」

 そう呟く様に名前を呼んで、節子を抱きしめた。今の義秋にはそれしか出来なかった。


 向井を見つけて国見は走って来た。

「向井さん、探しましたよ」

 向井は缶コーヒーを飲みながら振り返った。

「国見か…。何だ、何かあったのか」

 そう言うと国見の持っていた資料を引っ手繰る様に取った。

「貴志川和代の店にロデオ・ビスコンティというジャマイカ人が入ってます」

「ビスコンティ…。何者なんだ」

 向井は空になった缶を、ゴミ箱に放り込んだ。空き缶は渇いた音を立てて、その中に吸い込まれて行く。

「分かりません」

 国見は首を横に振った。

「用心に越した事はない。近い内に行ってみるか…」

 そう言うと資料を国見に返した。

「はい…」

 国見は資料を手に、戻って行った。その姿を見て、向井はポケットから携帯を取り出した。そしてメールを打つ。

「貴志川和代の店にロデオ・ビスコンティというジャマイカ人が雇われた様子。近々、念のために行ってきます」

 手際良く入力すると送信した。その相手は良介だった。

 向井は携帯をポケットに入れると、足早に廊下を歩き出した。


 安西光生は、液晶画面に映るカルテとレントゲンの画像をじっと見ていた。そしてクルっと椅子を回すと、不安そうな顔で座っている患者と向かい合った。

「かなり良くなってますね…」

 光生はニコッと笑い、そう言った。

 その初老の患者も、その光生の笑みで緊張が一気に解れる。

「まだ、放射線治療は続けますが、投薬はもう来週で終わりにしましょう」

「先生ありがとうございます」

 初老の患者は深々と頭を下げた。

「僕の力ではありませんよ。岩本さんの治りたいって思う力の成果です。良く頑張りましたね…」

 光生は患者の肩に手を当てた。

 岩本と呼ばれた患者は、何度も頭を下げて診察室を出て行った。

 その患者が出て行った瞬間に、光生の顔は曇った。そしてカルテを見ながらパソコンを触る。

「週明けにでも、岩本さんの息子さんに連絡して下さい」

 光生は横にいた看護師にそう告げた。看護師も力なく頷く。

 投薬する必要が無くなる程回復した訳ではなく、もう投薬の意味が無くなったという事だった。良くなったと光生は患者に嘘を付いた。初めはこの行為に幾ばくかの罪悪感があった。しかし、慣れとは怖いモノで、今では平気で嘘を付く事が出来た。

 安西光生は先端医療センターで医師をしている。このセンターも原発の補助金で作られた病院だった。数年前にこの病院が出来た時に赴任して、もうすっかりこの病院の顔になった。

 そしてこの先端医療センターに来る患者は、この数年で異常な程に増えていた。

 手術を行うというよりは、重粒子治療などがメインの病院になる。他の病院で癌と診断され、転院してくる患者は毎日、後を絶たなかった。

 光生の中で、この多くの患者の原因が原発である事は揺るがなかった。

 患者の多くが原発の町に集中している。その事実を呑み込み、日々訪れる患者を診察する。そんな毎日を送っていた。

 元を断たなければ、この悲劇はいつまでも続く…。

 光生はパソコンの画面を消した。

「今日はもう終わりですよね…」

「はい。今日はこれで終了です」

 看護師は光生に頭を下げた。「お疲れ様でした…」

「お疲れ様…。この週末は休みますので、何かあったら携帯電話に連絡下さい」

 光生は看護師に言うと、白衣のポケットに手を入れて、診察室を出て行った。

 照明の落とされた暗く長い廊下をヒタヒタと歩く。

 ここは病院じゃない…。死の宣告をするために作られた場所だ…。

 この暗い廊下を歩く度にそう思う。その廊下の先にはもう治る事の無い患者が、ただ死の時を待っている。

 光生にはそう映っていた。

 何ともやり切れない仕事だった。毎日毎日、このセンターで治療すれば治ると信じている患者に、死の宣告をする。気休め程度に重粒子治療を行い、抗癌剤を投与して、

「今日は顔色が良いですね」

 とか、

「かなり良くなってきましたよ。この様子だと、来月にはここを出る事が出来そうですね」

 などと嘘を言う。もっとも、このセンターを出られるには出られるのだが、その時は既に、その患者の意識はないか、生きてはいないかだった。

「安西先生」

 廊下の先に見える、明かりのついた部屋から同僚の医師が顔を出し、光生の元へ走って来た。

「ちょっとこれ、見てもらえませんか…」

 そう言うと手に持った資料を光生に渡した。

 その資料を手に取って見るが、暗くて良く見えないので、光生は明かりのついた部屋に入った。

「これは誰の…」

「諸岡静子さん。五十二歳。この町出身の患者です」

 資料を指差して、その医師は光生に説明した。

「ああ…。あの諸岡さんか…」

 机の上にあったパソコンのキーボードを叩き、MRIの映像を出す。その映像を少しの間見て、

「来週の頭に照射して。ココとココとココ」

 映像を指差して言う。「確か火曜日の午後一番なら使えると思うから、照射予定入れておいて…」

 光生はその医師に的確な指示をした。

「分かりました」

 その医師が頭を下げているのを横目に、光生は部屋を出た。

 その部屋から光生を追いかける様に、今度は女性の医師が声を掛ける。

「先生…」

 光生は足を止め、振り返る。そこには昨年この病院に入った、根本依子ねもとよりこが立っていた。

「何だい…」

 光生は一度依子を見て、再び歩き出した。

「今日はもう終わりですか」

 依子は光生に並んで言った。

「ああ、今日は終わりだ。明日も明後日も休ませてもらうつもりだよ」

 白衣のポケットに手を入れて、光生は足早に暗い廊下を歩いた。

「じゃあ、今晩ご一緒に…」

 そう言う依子の言葉を、光生は遮る。

「今日は古い友人がこっちに帰って来ててね…。二十数年ぶりに会うんだ」

 足を止めて依子に言う。

「あら…。また私は放置されるんですね…。手の施し様のない患者と扱いが一緒だわ…」

 依子は少し膨れて、小さな声で言った。

「依子…」

 光生はそう言い掛けて止めた。そしてまた廊下を歩き出す。

「先生の治療は的確で素晴らしいと思います。けど、女の扱いは酷いモノですね…」

 依子は光生の横を歩きながら言った。

 しかし、それに光生が答える事はない。前を向いたまま速度を落とすこと無く歩いた。

「良い医者と良い男は反比例するんですかね…」

 依子の嫌味は続く。

「また樋口にでも、食事に連れてって貰えよ。あいつの方が君の好きそうな洒落た店も知ってるだろうし…」

 光生は足を止め、にっこりと微笑む。「女の扱いも上手いさ…」

 依子はその言葉に少し焦る様に、

「樋口先生とは別に何にもありませんよ…。ただ一度だけ一緒にイタリアンを食べに行っただけです」

 光生は目の前の更衣室のドアを開けた。

「誰もそんな事は訊いてないよ…。君は君で自由にやればいいさ…」

 そう言うと更衣室の中に入って行った。


 良介は向井から送られて来たメールを見て、机の上のメモに「ロデオ・ビスコンティ」と書いた。

 この男があの「フライ」なのだろうか…。そうだとしたら、狙われているのはやはり三村健三なのか…。少し調べる必要がありそうだ…。

 手に持ったボールペンを、机の上にトントンと落としながらそう考えた。

 しかし、「フライ」ともあろう者がそんなに簡単に姿を現すのだろうか…。

 色々な考えが頭を巡っていた。良介はそれを整理するかの様に目を閉じた。

「おい、井崎」

 編集長の笠井が良介の肩を叩いた。

「はい」

 良介は顔を上げた。

「お前、最近ずっと何ば調べとるとや…。頼んでた原稿出来たとか」

 笠井は良介の横の席の椅子に座る。

「ああ…。今やってる所です」

 その言葉に良介の机の上を笠井は見た。

「何もしとらんや無かか…」

 良介の顔をじっと見て、笠井は言った。

「考えてるんですよ…」

 良介は苦笑した。

「良いか、井崎。お前、何ば考えとるか知らんばってん、離婚してから少しおかしかぞ。もうちょっとちゃんとやってくれんと、春の人事でお前の保証は出来んけんね…」

 笠井はそう言って席を立った。

 笠井の背中を見て、良介は唇を歪めた。

 春までには答えも出るさ…。

 良介は手に持ったボールペンを、机の上のペン立てに放り込んだ。

 少しヨシアとでも話してみるか…。

 良介は席を立って、椅子に掛けたコートを掴んだ。

「井崎」

 席を立って、立ち去ろうとする良介に、笠井は声を掛ける。

「今日は帰ります…」

 良介はそう言って部屋を出て行った。

 北陸とこの町はあまりにも似過にすぎている。絶対に何かが起こる…。

 良介は会社を出て、街へ向かって歩き始めた。


 義秋と節子は古谷旅館に戻り、浴衣に着替えた。

「今日は他のお客さんもおらすけん、控え目に騒いでよ」

 智子はテーブルに料理を並べながら言った。

「控え目に騒げってどういう事だよ」

 義秋は笑った。

「余所に迷惑掛けんとってって事たい」

 智子は義秋を睨んだ。その威圧感に義秋は両手を挙げてホールドアップした。

「はいはい…。しかし、それはマサたちに言ってくれ」

 義秋は席に付く。

「節子はヨシアの世話ばして」

 智子は節子を無理矢理に、義秋の隣に座らせた。

「今日はミツオも来るけんね…」

 智子は部屋を出て行きながら言った。

「ミツオも来るのか…。週末だからな」

 義秋はテーブルの下の灰皿を引き寄せて、タバコを袂から取り出した。

「先端医療センターって言ってたな…」

「ミツオの病院。そうよ」

 節子は、皿をテーブルに並べながら答えた。

「何処にあるんだ…そんな病院」

 義秋はマッチを擦ってタバコに火をつけた。

「私らの高校の近くに出来たとよ。原発の補助金で作られた立派な病院たい」

 節子は義秋の前にも皿を置いた。

 原発が原因で病気になった人を、原発が金を出して作った病院で治療する。まさにマッチポンプだ。

 義秋はそう考えて苦笑した。

「重粒子線治療って言うとかな…。あれば専門にしとる病院たい…」

 節子はそう言った。

「そりゃ最先端だな…」

「だから先端医療センターなんじゃ無かと…」

「そうか…。そうだな…」

 義秋はタバコの灰を灰皿に落とした。

 今は光生と話がしてみたかった。それは一つの決意に近いモノでもあった。

 原発の町のレポートを書く。

 今日、節子の告白を聞いてそう決めた。

 目には見えない原発の被害は、もっともっとここにはある筈だ。

 義秋はそう思った。

 通常の六十倍の白血病患者がいるというこの町の実情を、その現場に居る光生に訊いてみたかったのだ。

 政典、智子、誠二、節子、それぞれに義秋に原発の話をした。そして、みんなが原発の被害者だった。

 その事を義秋は、書かなければいけない様な気がしていた。それを書く事で義秋がこの町を捨てていない証になるのではないかと…。

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