第9話 決着

「浩美んところ行って、ちゃんと帰って来るなんて珍しかね…」

 智子は、朝飯を古谷旅館に食べに来た誠二に言った。誠二はその智子の言葉に咳込んだ。

「い、いつもちゃんと帰っとるたい。何ば言いよっとね…」

 義秋はその誠二を見て笑った。

「ばってん、そのトシカズ兄ちゃんば襲った人は、どげんなったとやろうか…」

 節子はお茶を飲みながら言った。

「どうなったかか…。蛇の道は蛇。ヤクザの世界はヤクザにしか分からんな…」

 義秋は席を立つ。「ご馳走様」

 昨日、浩美の店を出て、市内の自宅へ帰ると言う良介を残して、夜遅くに帰って来た。義秋と光生は古谷旅館の前で降ろされて、誠二と政典は帰って行った。

 義秋はロビーで食後の缶コーヒーを買ってソファに座った。

 そして浴衣の袖からタバコを出して火をつける。久々にタバコを吸った気がした。

 冬の朝の光は尖った光に思えた。目を細めて海を見ると、遠くに見える海面を、その尖った光が輝かせていた。冬の海は夏よりも青い色が濃い。その分、反射する光も目を差す気がした。

「ヨシア…」

 節子が義秋の横に勢いよく座った。「洗濯物、部屋に置いといたけんね」

「ありがとう」

 義秋は節子に礼を言って、灰皿でタバコを消した。

「あんね…ヨシア」

 節子はじっと義秋を見つめた。

「どうした」

 義秋は缶コーヒーを軽く振って開ける。

「私、離婚する事にしたけん」

「え…」

「あ、別にヨシアとは関係無かけんね。意味の無か結婚生活ばしとっても何か…。上手く言えんとばってん、ヨシアば見とったら、無駄な人生ば送りたく無かって思って…」

 節子は優しい顔で微笑んだ。

 義秋も頬を緩めて頷いた。

「節子が幸せなら、俺はそれで良い」

「うん。兄ちゃんがね…」

 節子はニコニコと笑いながら続ける。「言ってくれたんよ。私が幸せになれるなら、神谷のコーヒーなんて一生飲まんでも良かって…」

 節子は義秋の手から缶コーヒーを引っ手繰って飲んだ。

「そうか…」

 義秋は立ち上がって伸びをした。「それを聞いて安心したよ」

 義秋はすべてが吹っ切れた様な笑顔の節子を見た。その笑顔は義秋の記憶の中にある三村節子の笑顔だった。

 義秋は節子の手から缶コーヒーを受け取り、一気に飲み干した。

「後で少し散歩でも行こうか」

 義秋の言葉に節子は強く頷いた。


 良介と向井は市内にある城跡の敷地の中を歩いていた。

 良介は昨日の義秋とビスコの行動が脳裏から消えなかった。二人の行動が、訓練された技の様に見えて仕方無かったのだった。

「で、どうでしたか。ビスコンティは」

 向井はベンチに腰を下ろした。

 良介はベンチの近くにある自動販売機で温かい缶コーヒーを二本買い、向井の横に座った。そしてその一本を向井に手渡す。向井は良介に小さく頭を下げて受け取った。

「なあ、向井…。お前はこの町に原発は必要だと思うか…」

 良介は缶コーヒーを開けて飲んだ。

「どうしたんですか、井崎さん」

 向井もタバコを咥えながらコーヒーを開けた。

 良介は向井の横顔を見て微笑んだ。

「俺はな…。この町に原発は必要だと思うんだ。原発マネーで生きている人が大勢いる町だ。その金が無くなったら、この町は一遍に崩壊する。病んだ土地と海と人々だけが残る。そんな死の町は多分、世間から一瞬で切り捨てられる。そう思ってる」

「井崎さん…」

 白い息を吐きながら、向井は良介を見た。

「だけどな。三村議員たちの様に金になるから原発は必要だと思っていたのも事実だ。三村議員から初めて金を貰った日に、俺は妻に離婚を申し出た。そんな汚れた金を平気で受け取れる様になった自分が嫌でな。そしていつか三村に睨まれる立場になる事も分かっていた。その時、妻にまでその手が及ばない様に離婚した」

 向井は黙って、良介の話を聞いていた。

 海に突き出す様に建っているこの城には、自然が多く残っていた。海鳥の声がその城跡にも聞こえて来る。二人は無言のまま、その海鳥の声を聞いていた。

「ビスコンティはただの腑抜けだ。あんな奴は警戒するに足らん」

 良介は向井に微笑む。

「でしょうね…。愛媛県警の同期から電話がありました。向こうも原発を抱えています。こっちと同じ様に警戒中です。ですが、いくら我々でも顔も性別も、名前も分からない奴を探すなんて無理ですよ」

 向井はタバコを灰皿に入れると立ち上がった。「ビスコンティは本当に見当違いでした。外人ってだけで警戒するってのも日本人の悪い癖です」

 向井はコートのポケットに手を入れて、缶コーヒーを飲みながら歩いて行った。

 ベンチに残された良介は、真冬の青く晴れ渡った空を見上げた。

「こんな青い空が、実は汚れているなんて、誰が思うんだよ…。なあ、ヨシア…」

 良介は缶コーヒーを飲み干してゴミ箱に投げ入れた。そしてコートの裾を翻して歩き出した。


「遅刻じゃなかと」

 智子は旅館の前に車を停めた光生に言った。

「今日は俺は午後からで良いんだよ」

 そしてにっこりと笑って、

「今から墓参り行って、ばあさんに結婚の報告してくるよ」

 智子と節子は光生に微笑む。

 依子は朝早くから病院へ向かった。

「ヨシアはどうしたんだよ」

「さっき声掛けたけん、もう来るとは思うとばってん…」

 節子は心配そうに旅館の中を見ていた。廊下の奥の方から義秋が歩いて来るのが見えた。

「ヨシア。早よう。ミツオ待っとるよ」

「分かったよ。別に今生の別れじゃあるまいし」

 義秋は玄関にあった旅館のスリッパを履いて出て来た。

「いつまで居るんだ」

 光生は車の中から義秋に聞いた。

「飽きるまで居るさ」

 義秋は晴れた空を見渡しながら言う。

「気楽な稼業だな」

 光生は頬を緩めて、同じ様に空を見上げた。

「まあ、帰る時は連絡するから。お前は依子さん、大事にしろよ」

「分かってるよ」

 光生はエンジンを掛けた。「それじゃまたな」

 光生はゆっくりと車を滑らせながら古谷旅館を出て行った。

 小さくなる光生の車を三人はじっと見ていた。この町で育って、この町から出て行った友人は沢山いる。そして生まれた町に帰って来ても、もう育った家さえない者の方が多くなった。そんな町だった。

 義秋は旅館の前の通りを見た。いつもの様にそこは誰も歩いていない。義秋たちの幼い頃はこの通りも人が大勢居て、誰かの声がいつもあった。そんな人々もトシを取り、若い人がどんどん出て行く町では、誰かの声が聞こえる事の方が少なかった。

「あんたら、散歩行くっちゃろ」

 智子はそう言って、カウンターから紙袋を取り、節子の胸に押し付けた。

「お弁当。って言ってもおにぎりばってん」

 智子は目尻を垂らして微笑んだ。

「せっかくやけん、どっかで弁当でも食べて来んね。あんたらおったら昼寝も出来んとよ」

 智子は欠伸をしながら旅館の中に入って行った。義秋と節子はそれを見て笑った。

 義秋は車のトランクからスニーカーを出して履き替え、道で待つ節子の所へ足早に向かう。

「お待たせ」

 二人は無言で係船柱の立ち並ぶ、海岸沿いの道をゆっくりと歩いた。漁師の船も漁に出掛けてほとんど居なかった。

「マサも今頃、釣っとるったいね…」

 節子はキラキラと光る海を見ていた。

「あいつの事だから、今頃海の上で波に揺られて寝てるんじゃないか。昨日かなり盛り上がってたしな」

「ふうん。ヨシアも盛り上がったっちゃろ」

 節子は前に回り、義秋を覗き込む様にして言う。「浩美と…」

 義秋はそんな節子を見て笑った。

「浩美のさ、最大のライバルは節子だったんだってな…」

「え…」

 節子は驚いて脚を止めた。

「その節子に負けたって高校生の時に、泣いてたらしいぞ」

「…」

 節子は無言で義秋の横を歩いた。

「浩美のお母さんが教えてくれたよ」

 節子は目を伏せたまま微笑んだ。

「そっか」

「ああ…」

「けど、私は今も、浩美には勝てとらんとよ」

 義秋は節子の横顔を見た。

「浩美みたいに自分を表に出して生きた事が、私には無か…。浩美みたいになりたいってずっと思っとった。ばってん、ヨシアと別れたあの日以来、私は一回も自分の意見なんて言う事も無かったったい」

 節子は義秋に歯を見せた。「もうこげなトシになってしもうたばってん、これからは自分のしたい様に生きようと思うとる」

 節子は紙袋を後ろ手に提げて、飛び跳ねる様に歩いた。

 一段高くなった防波堤の上に義秋は飛び乗った。

「危なかよ」

 義秋はそこから海を見た。穏やかな港の中の波が、磯の香りと一緒に自分を包み込む様だった。

「ここから一度、政典に突き落とされた事がある」

 節子は身を乗り出して防波堤の下を見た。

「何で…喧嘩でんしたと」

 義秋はじっと海を見つめて頷いた。

「何で喧嘩になったか忘れたけど、あいつは本気で俺をここから突き落とした。おかげで教科書なんか濡れてカピカピになってさ。親にえらく怒られたよ」

 義秋は防波堤から下りた。「懐かしいな…。今見るとこんな低い防波堤だったんだな…。あの頃はこれも高く感じて、落とされた時は死ぬかと思ったよ」

 義秋は笑った。

「子供やけんね…」

「そうだな…」

 ここには誰の家があったとか、ここに酒屋があったとか、そんな話をしながら狭い町を歩く。その何処を切り取っても磯の香りと波の音が存在していた。

 港を半周する様に集落はあった。かつて義秋が住んでいた家の辺りまで来ると、少し波の打ち寄せる回数も増え、海岸に転がる石が見えて来た。

「昔、ここに一頭だけ牛が居たんだよ」

 義秋は何も無いその場所を指差して言った。

「知っとるよ。中学ん時やろ」

「ああ、高校に入る頃にはもう居なかったけど…」

 義秋はそう言い掛けて節子を見た。「何で知ってるんだ」

 節子は義秋の前を歩きながら語り始める。

「中学ん時のバレンタインに、ヨシアにチョコレートば渡そうと思うて、ここまで来たとよ…。ばってん勇気の無くて渡せんで、引き返したと。そん時に、ここに牛がおったとば見たとよ」

 初耳だった。義秋は節子の背中に声を掛けた。

「節子」

 節子は振り返った。

「何…」

 振り返った節子の笑顔は、あの頃のままだった。そんな気がした。

「何でん無か…」

 義秋は目一杯方言で返事をした。


 浩美は普段は掛けないメガネを掛けて、事務所のパソコンを触っていた。

「浩美…」

 奥の部屋のドアが開いて、貴志川和代が顔を出した。「ちょっといらっしゃい」

 そう言うとまた部屋に入って行く。

 少し迷惑そうな顔で浩美は立ち上がり、母の部屋へ入って行った。

「何ね…。今、忙しかとよ」

「良いから座りなさい」

 和代はソファの向かいを差して座れと浩美に言う。

「後じゃいかんとね」

「良かけん、座れ」

 和代は声を荒げ、あまり使わない方言で浩美に命令した。浩美も息を吐くと大人しくソファに座り脚を組んだ。

「何ね…」

 テーブルの上に置いてあった和代のタバコを一本抜くと火をつけた。

「昨日の木瀬君」

「ヨシアがどげんしたと」

 浩美は唇を尖らせて煙を吐いた。

「木瀬君は危険よ」

 和代の真剣な顔を見て、浩美はにやりと笑う。

「お母さん、何ば言うとっと。そりゃヨシアはライターやけん、記事ば書くかもしれんばってん。こん町の記事、原発の記事なんてネット上にも溢れ返っとる。そればイチイチ気にしとったら…」

 浩美の話を和代は遮る。

「影響力の違うったい」

 和代はブランド物のバッグから一冊の雑誌を取り出し、テーブルの上に開いた。そこには義秋の書いた「フクシマ」の記事が載っていた。

 和代は浩美に顔を近付けた。

「浩美、良かか。こん町は原発で成り立っとると。原発が無くなったら、私らもこげな商売は出来んとよ」

 形振なりふり構わず和代は髪を振り乱して浩美に熱弁する。方言で捲し立てる和代を浩美でさえ滅多に見る事は無かった。

「あん男に記事ば書かせん様に誰かくっつけて骨抜きにしておいで」

 和代はタバコを咥えて火をつける。

 その様子を見て浩美は声を上げて笑った。

「ヨシアにそげな手は通用せんとよ」

 浩美のその言葉に和代は再び身を乗り出した。

「だったら、あんたが行って垂らし込んでおいで…」

 和代は目の下を痙攣させながら浩美に言った。ここまで動揺している母を見るのは浩美も初めてだった。

「行っても良かばってん…」

 浩美はテーブルの上の雑誌を取って目をやった。「そげんこつになったら、私もヨシアと一緒にこん町ば出て行くけんね…」

 浩美は雑誌を畳むと、テーブルに叩き付ける様に置いた。そして立ち上がり部屋のドアを開けた。

「ばってん、お母さんがそこまで言うなら、ヨシアに話だけはして来るけん…」

 浩美は背を向けたまま、和代に言った。「トシカズ君。もう助からんらしか…。金とこん町の人と、どっちが大事なんやろかね…」

 浩美は大きな音を立ててドアを閉めた。


 向井は自分の前に滑り込んで来た白のセダンに乗った。

「すみません。わざわざ来て頂いて」

 向井は運転する神谷に言った。

「いや、こっちも選挙前のデリケートな時期だ。この方が良い。少し走るぞ…」

 神谷は市街地の外れの松原の中にある駐車場に車を停める。

 二人はドアを開けて松原の中に入って行く。乾いた松葉を革靴で踏むと、重みで沈む感覚が向井には心地良く感じた。

「話とは何だ…」

 神谷は前を見たまま向井に聞く。向井は神谷に追い付く様に少し小走りに前に出た。

「多分、井崎良介がもうダメです」

「井崎か…あれは三村の父親が使ってた新聞記者だったな…」

 神谷は歩みを止めて向井を見た。

「はい」

 向井が頷くのを見て、神谷は再び歩き出した。「井崎は色々と知り過ぎてます。今動かれるのは危ないんじゃないかと…」

 再び神谷の後を追う様にして言う。

「そうだな…。分かった。こっちで何とかしよう」

 神谷は松の木の幹に手を突いた。そしてその手から封筒を、積もった松葉の上に落とす。

「これは礼だ。片付いたら…、また礼をする」

 そう言うと駐車場の方向に向かって歩き出した。向井はその松の根元に落ちた封筒を拾うとポケットに入れて、神谷の後を追う。

 二人が松葉の上を歩く、乾いた音だけが松林の中に響く。

「週末の式典の警備は問題無いか」

 神谷は後ろを歩く向井に言った。

「はい。下見しましたが、狙撃出来る様な場所はあそこにはありません。怪しいところには人を張り付けますので」

 神谷はにやりと笑った。

「あんな男でも、国会議員になるまでは生きてて貰わないとな…」

 そう言って向井を振り返る。向井は小さく頷いた。


 義秋と節子は古谷旅館に戻った。ロビーに入ると、ソファに浩美が座ってタバコを吸っていた。

「浩美…」

 節子が先に気付いて名前を呼んだ。浩美もそれに気付いて二人に手を挙げた。

「智子に聞いたら、二人仲良くピクニックに行っとるって言うけん待っとったと」

 義秋と節子は顔を見合わせて笑った。

「何ね…。気持ち悪かくらい仲良かね…」

 浩美は苦笑してタバコを消した。

「何か用か…」

 義秋は浩美の向かいに座って訊く。節子も義秋の隣に座った。

「ああ…」

 浩美は脚を組み替えて腕を組んだ。「ヨシアが帰って来て、正直、大騒ぎになっとるったい」

 義秋は眉を寄せた。

「どういう事だ…」

 浩美は身を乗り出した。

「有名なジャーナリストのヨシアが、原発の記事ば書くかもしれんって事で…」

 そこまで言うと、浩美は節子を見た。「節子。あんたには少し、辛か話かもしれんばってん、一緒に聞いて」

 剣幕な浩美に節子は頷いた。

「ヨシアが記事ば書くとや無かかって事で、うちのお母さんも、節子のお父さん、三村健三も、節子のダンナの神谷一馬もあちらこちらに手ば回して、何とか阻止しようとしとるったい」

 浩美は小さな声で言う。

 義秋は口を歪めて歯を見せた。

「おいおい。俺はそんなに影響力のあるライターじゃないぞ。俺がそんな記事書いたところでそんな…」

 浩美は義秋の話に被せて言う。

「あんたの書いた、「フクシマ」の記事読んだとばってん、正直、フクシマの悲惨な状況がよく分かる記事たい。あれだけの内容をこん町で穿り返されたら、色んな事が出て来るったい。みんなそこを恐れとるとよ。記事になる前に、それだけの内容が明るみになる事ば恐れとると…」

 浩美は義秋を睨む様に見て、テーブルの上のタバコを咥えた。そして斜めに構えて火をつけながら続ける。「原発マネーってのは、市民のために使われている以上に、こん町には流れ込んどるとよ…。それは一部の政治家とか、その政治家のために働くモンに渡っとるったい。そうやって金ば貰ろうとる奴らが、みんな慌てとるとたいね…」

 義秋にも分かっている内容だった。しかしそれを実際に受け取って潤っている人間から聞くとは思わなかった。

「浩美…」

 義秋は、浩美が何をしに来たのか分からなくなった。

「今日、お母さんに言われたとよ。私にヨシアの所に行って、色仕掛けで骨抜きにして来いってね…。実の親がそげん事ば言うかね…」

 浩美は苦笑して、まだ長いタバコを灰皿に押し付けた。そして立ち上がった。「とにかく、私は話ばしたけんね。後はヨシア…。あんたの判断たいね…」

 浩美は玄関に向かって歩き出した。

「それで良いのか…」

 義秋は浩美の背中に向かって言う。「お前の話はそれで良いのか」

「もう良かと…。節子と一緒におったら、自分が小そう見えて空しかと…。帰るわ」

 浩美は落ち着かないソワソワした感じで、古谷旅館を出て行った。

 義秋はソファに腰を下ろした。義秋にも節子にも分かった。浩美は義秋に記事を書くなと言いに来たのでは無い。絶対に書けと言いに来たのだと言う事を。


 良介は三村健三に電話して、義秋と一緒に訪ねる日のアポイントを取った。

「水曜日 午後四時 三村邸」

 机の上のメモにはそう書いてあった。続けて義秋の電話を鳴らした。

「はい」

 義秋は数回のコールで電話に出た。

「ヨシアか」

「ああ、どうした」

 良介は机の上のメモの上に、ボールペンをトントンと落としながら受話器を持ち換える。

「三村健三への取材、明後日、水曜日の午後四時に三村の自宅だ。いいな。忘れるなよ。もちろん俺も一緒に行くが…」

 義秋はパソコンに向かって「原発の町」を書きながら、耳に携帯電話を挟む様にして良介と話していた。

「分かったよ」

「ちゃんと取材原稿…、まとめておけよ」

 良介は手に持ったボールペンを机に置いた。「じゃあ、また明後日な」

 良介は机の上の電話に受話器を置いた。

「おい井崎、三村健三に取材か」

 編集長の笠井は、良介の机の上のメモを覗き込んだ。

「ええ。そのつもりです」

 そう言うと椅子に掛けた上着を取って立ち上がった。「答えてくれたらの話ですけどね…」

 良介は笠井にぶっきら棒に言う。そして部屋を出て行こうと笠井の横をすり抜けた。

「井崎…」

 廊下に出た良介に笠井は声を掛けた。立ち止まった良介に笠井は歩み寄って、

「くれぐれも危ないモンば、掘り返さん様にな」

 小さな声で言うと、良介の肩を叩いて部屋に戻って行った。

「危なく無いモン探す方が大変なんだよ…」

 見えなくなった笠井の背中にそう言って歩き出した。

 外に出ると、すっかり日は落ちて街はその形相を変えていた。

「今日は軽く食って帰るか…」

 良介はコートの襟を立て、歩き出した。少し行った所にいつも一人で行く小料理屋があった。

 大通りから脇に逸れ、少し細い道に入った。その道を抜けた所にその小料理屋はあった。

 その時、良介は人影を感じ、顔を上げた。そこには数人の若い男が立っていた。通りすがりという様子では無さそうだった。

「何だ…お前ら…」

 良介は睨む様にその男たちを見る。後ろにも気配を感じ振り返ると、金属バットを持った男が立っていた。「親父狩りって訳じゃ無さそうだな…」

 そう言うと、いきなり後ろに居た男が、金属バットを良介の頭に振り下ろした。良介の視界は大きく揺れて、次第にぼやけて行き、最後にはその色を完全に失った。


 義秋は節子と智子を乗せて、良介が運ばれた病院に向かっていた。病院に着くまでほとんど会話は無く、喉が渇き、ハンドルを握る手には汗が滲んでいた。

 義秋が使っていたホテルから近いその病院の駐車場に義秋の車は滑り込んだ。三人は車を降りると病院の夜間入口から中に入った。 

真っ暗な病院の中で光を放っていたナースステーションに智子は顔を突っ込んで、

「井崎、井崎良介は何処」

 ほとんど叫ぶ様に言った。

 看護師はゆっくりとバインダーを捲り、

「まだ集中治療室ですね…。先生に説明して頂きますので、そこに掛けてお待ちください」

 事務的な口調で三人に言った。それにイラつく智子だったが、それが却って良かったのかもしれない。三人とも冷静さを取り戻した。

 今日は酒を抜こうと言って三人で夕食を食べて、風呂に入ろうとした時、義秋の電話が鳴っている事に節子が気付いた。義秋がその電話に出ると警察からの電話だった。良介が何者かに襲われ怪我をして病院に運ばれたと言う。良介の携帯電話の通話記録に、義秋の番号があったので電話したと警察は言っていた。そのまま三人で車に乗り、市内の病院まで来た。途中で誠二に節子が電話を入れてくれたので、もうすぐ誠二たちもやって来る筈だった。

 ナースステーションのすぐ横の部屋から白衣姿の医者が出て来た。

「えっと…井崎さんのご関係の方ですか」

 ずれるメガネを何度も上げながら、その医者は近づいて来た。「ご家族の方は…」

 智子がその医者に食い付く様に立ち上がった。

「妻です」

 医者は頷いて、

「ではご説明しますので、こちらの部屋へどうぞ…」

 そう言い集中治療室の向かいの部屋のドアを開けた。暗い廊下にその部屋の光が細長く漏れた。その医者は看護師に何かを伝えるとドアを閉めて、折り畳みのパイプ椅子を二脚準備して座る様に促した。

 病院独特の臭いが充満している部屋だった。昼間は診察室として使われているのだろう。

 看護師がレントゲン写真の入った茶封筒を持ってやって来た。その封筒を受け取ると医者はシャウカステンの電源を入れる。シャウカステンの青白い光がそこに挟まれたレントゲン写真を浮かび上がらせた。

「こちらが頭部の写真です」

 医者は胸に挿したペンを取り、レントゲン写真の一部を差した。「恐らくこの辺りを殴られたのだと思うのですが、骨には異常ありません。脳震とうを起して気絶されたモノだと思われます」

 医師はその頭部のレントゲン写真をシャウカステンの横に避けた。

「次に右足の写真なのですが…。」

 もう一枚の写真をシャウカステンに挟み込んだ。義秋は眉に皺を寄せて目を伏せた。義秋が見ても分かる程に、良介の右足の骨は粉々になっていた。智子も節子もその写真をじっと見つめている。こんな時は女の方が強い。

「何度も何度も脚を殴られたのでしょう。右足の骨は粉々になっています。神経も切れてしまっている様です。骨は手術すれば何とかなるのですが、神経の方は恐らくもう…」

 その医者はずれるメガネを何度も上げながら淡々と説明した。

「もう、足は動かんって事ですか…」

 智子は声を震わせて言う。

 医者は小さく頷いた。

 義秋はそれを聞いて、奥歯がギシギシと音を立てる程に顎を震わせた。

「脳の方はMRIを撮らないと分からないのですが、頭の状況から見て大丈夫だと思います。この病院にMRIの装置がありませんので、明朝にでもMRIのある病院へ…多分、先端医療センターになると思いますが…。移って貰う事になります」

 医者が言い終わるのと同時に部屋のドアが開き、誠二と政典、光生が入って来た。

「何ですか…あなた方は…」

 その医者は驚いてそう言った。

 光生はその医者に無言で名刺を出して、シャウカステンに照らされたレントゲン写真を見た。

「センターの先生ですか…」

「そうだ。バイタルは」

 光生はレントゲンから目を離す事無く言う。

「今のところはすべて正常値です。脳波にも乱れはありません」

 机の隅に置いたカルテを光生に渡した。光生はそのカルテを見ながら、机の上の電話の受話器を取った。そして電話を掛ける。

「私だ。安西だ。車を一台回してくれ。そちらへ移送する。大至急だ」

 義秋は一人、その部屋の外へ出た。何も出来ない自分がそこに居ては邪魔になると思ったのだった。そこに制服の警官が二人歩いて来た。

「木瀬さんですか…」

 その警官が義秋に声を掛けた。

「はい」

 義秋は小さく頷いて返事をした。

「先ほど電話させて頂いた渡辺です」

 その警官は明るい場所で義秋に手帳を見せた。

「少しお話をお伺いしたいのですが…」

 警官は誰もいない待合室に、義秋を連れて移動した。そして長椅子で義秋を挟む様に警官は座る。

「目撃者がいまして、井崎さんを襲ったのはどうやら樟葉会のチンピラだという事が分かっています」

 義秋は顔を上げた。

「樟葉会…」

 良介に聞いた竹本利一が居る組だった。

「井崎さんが樟葉会と、もめているという様な話を聞いた事はございませんか」

 義秋は首を横に振った。

「そうですか…。何らかの恨みを買って襲われたとしか思えないのです。相手はヤクザですからね…親父狩りという訳では無さそうですし…」

 良介がヤクザに襲われる理由…。

 警官の話など頭に入らなかった。良介がもし自分が原発に関しての事を調べている事が理由で襲われたのだとすれば…。襲う様に指示したのは三村健三か、神谷一馬だろう。

「失礼ですが、井崎さんとはどのようなご関係でしょうか」

「友人です。高校の同級生で…」

 義秋は焦点の定まらない目をしたまま、そう答えた。その後の事は覚えていなかった。

 先端医療センターの車はすぐに到着して、良介をストレッチャーに乗せたまま連れて行った。その車は光生と智子を乗せて、すぐに走り出した。義秋たちは病院の駐車場の隅に光る自動販売機で缶コーヒーを買って、カラカラに乾いた喉を潤していた。

「警察は何だって」

 誠二はイライラしながら義秋に聞く。

「樟葉会のチンピラの仕業らしい」

 誠二は顔を上げた。

「トシカズ兄ちゃんの組か」

 誠二は頭を抱えた。

「とりあえず俺たちもセンターへ向おう」

 義秋は車に乗った。それを見て誠二と政典も誠二の車に乗り込む。

 節子が助手席でシートベルトをしたのを確認して、義秋は車を走らせた。

 夜の道は空いている。センターまで半時間と掛からないだろう。義秋はアクセルを踏み込んだが、もう誠二の車の姿は何処にも無かった。どこか近道を知っているのかもしれない。義秋は誠二の車を追う様に走った。

 義秋のジャケットのポケットの中で、携帯電話が振動している事に気付く。その画面に表示された番号は義秋の知らない番号だった。

「はい」

 義秋は電話に出て、車を脇に寄せて止めた。

「ヨシアか」

 電話の主が誰なのか分からなかった。「俺たい。トシカズたい」

「トシカズ兄ちゃん」

「ああ、うちの若いのがお前の友達ば襲ったって聞いて、浩美に電話して番号ば聞いたとよ」

 竹本はしゃがれた声で話す。「すまんかった。あいつらに代わって謝る」

「…」

 義秋は何も言わずに歯を食いしばっていた。

「井崎ば襲った奴らは自首させたけん」

「一体誰が…」

 義秋は吐き出す様に言った。

「うちの若いモンで…」

「いや、そうじゃ無くて…誰が…」

 義秋の声が竹本の言葉に被さる。

「お前には助けられたけんね…。言わん訳にはいかんやろうね…」

 竹本は深い息を吐いた。「市会議員の神谷一馬らしか…」

 義秋は険しい表情で目を伏せた。怒りで全身が震えていた。

「ヨシア。変な気ば起こさん様にな…」

 竹本のそんな言葉は義秋には聞こえていない様子だった。

「トシカズ兄ちゃん…。ありがとう」

 電話の向こうで義秋の名前を何度も呼ぶ竹本にそう言って電話を切った。そして凄い勢いで車を走らせた。


 竹本は樟葉会の事務所のドアを荒々しく開けた。部屋に居た組員たちは立ち上がり、竹本に頭を下げた。

「竹濱は何処ね…」

「頭と一緒に奥の部屋に」

 一人の組員がそう答えた。竹本はズカズカと歩いてその部屋のドアを開けた。

「おいおい、竹本。部屋に入る時はノックくらいせんかい…」

 樟葉会の若頭、藤堂がソファに座ったまま言った。しかし、竹本にはその声は聞こえて無かった。竹本の視線はその藤堂の向かいに座る竹濱に向いていた。

「竹濱」

 竹本はそう叫ぶ様に言うと、竹濱の胸座むなぐらを掴んで持ち上げた。

「どうしたんですか。竹本さん…」

 竹濱は苦しそうに言う。「離して下さいよ。例の件なら命令通り自首させましたから」

「おい、竹本…。あんまり無茶するな」

 藤堂は向かいに座ったまま言った。

「何時から神谷ん犬になったとか。神谷ん言う事なら何でん聞くっちゃろうが」

 竹本は竹濱を突き放した。竹濱は床に転がり、苦しそうに首を抑えた。

「おい、竹本。落ち着けって」

 竹本は振り返り、藤堂を見た。

「頭…。神谷ん命令で井崎ば襲ったって、警察行って話してきますけん…」

 竹本は藤堂に頭を下げた。

「待て待て…」

 藤堂は慌てる様子も無く、竹本を宥めた。

 竹本は足を止めた。そしてその場で目を白黒させると、壁に向かって血を吐いた。その壁は竹本が吐いた大量の血で一瞬にして黒く染まった。

「おい、竹本…」

 竹本は膝を床に突いた。そして崩れる様にゆっくりと倒れた。

 痛む首を押さえた竹濱は倒れた竹本に歩み寄り、首の脈を取った。そして静かに首を横に振った。

「死んだか…」

 藤堂は再び、ソファに腰を下ろした。

「あいつらに命令したのは、この竹本って事にしましょう」

 藤堂の向かいに竹濱は座り直して、そう言った。「死人に口無しですよ…。竹本が誰に命令されたかは分からないという事で…。それで神谷に貸しが一つ出来ます」

 竹濱はそう言うと、にやりと笑った。


 良介のすべての検査が終わったのは朝方だった。東の空が明け始めるのを義秋が見ていると光生がやって来た。

「終わったよ」

 光生の顔も流石に疲れを隠せない様子だった。「井崎は相当な石頭だったんだな…」

 光生は義秋の横に並んで言った。

「高校時代はラグビー部だったんだ。あいつに頭突きされて脳震とう起こした奴、何人も知ってるよ」

 義秋は歯を見せて笑った。

 光生は小さく何度も頷いて、周囲を見渡した。

「セージとマサは一旦帰ったよ」

「そうか…」

 光生は親指で病院の外を差した。「ちょっと出ないか」

 二人は通用口から病院の外に出た。駐車場の入口にある自動販売機で缶コーヒーを買うと義秋に投げた。義秋はそれを受け取ると礼を言った。

「タバコくれないか」

 光生は義秋に言う。義秋はポケットからタバコを出して光生に渡した。「本当は敷地内禁煙なんだがな」

 手に持ったタバコを見せて微笑む。義秋もタバコに火をつけた。

「智子と節子は空いてる病室で寝てるよ」

 光生は煙を紫紺の空に吐きながら言う。

「あれだけ騒げば疲れるわな…」

 義秋は二人を思い出して笑った。

「ただ、やっぱり井崎の右足はもう動かん」

 光生はフェンスに肘をついて、明ける東の空を見ながら言った。

「そうか…」

 義秋もレントゲン写真を見た時から覚悟はしていた。「意識は…」

「今は薬が効いてるが、じきに目覚める」

 光生は缶コーヒーを開けた。「なあ、ヨシア…」

 義秋は顔を上げる。

 光生はフェンスに両腕を開いて乗せる。

「悔しいだろ。井崎をこんな目に合わせた奴に、自分の手で復讐したいって思うだろう…」

「…」

 義秋は黙っていた。何も言えなかった。ただ光生に胸の中を見透かされている様で怖かった。

「ここに来る患者の殆どが、アイツにそんな目に合わされているのが分かっている」

 光生は少し先に見える巨大な原子炉を指して言う。「それでもどうしようも無いんだよ。いくら訴えても聞いてもらえない。その間にどんどん患者は増えて行く」

 光生は缶コーヒーをフェンスの上に置いた。

「それと同じだ。加害者が人か原発かの違いだけだ」

 光生はフェンスに立てた缶の中にタバコを入れた。

 義秋はタバコを靴の裏で消した。

「ありがとう…。ミツオ」

 義秋は光生に頭を下げた。

「俺は医者だからな…。医者の出来る事をしたまでだ。お前はジャーナリストだろう。ジャーナリストの出来る事をやれ…」

 光生は明けて行く空に向かって伸びをした。「俺も少し眠るよ…。智子と節子は責任持って連れて帰ってくれよ。あの部屋は午前中に入院患者が入る予定だからな」

 光生は義秋を振り返って微笑んだ。


 その後、智子と節子を起こし、一旦古谷旅館に戻った。午後一番に良介の意識が戻ったという連絡が光生から入った。義秋は智子と節子を連れてセンターへやって来た。

 病室に入ると、顔色の無い良介が力無く微笑んでいた。

「良介」

 智子は涙を流しながら、横たわる良介に駆け寄る。

「痛いよ…智子」

 小さな声だが、はっきりと良介は言った。

 良介にすがり付く様にして泣く智子を見ていると、近寄り難いモノがあった。

「外に出ようか…」

 義秋は節子に声を掛け、病院の外に出た。暖かい午後の日差しが降り注ぐ、その病院の庭を節子と歩く。

「ヨシア…」

 節子は前を歩く義秋に声を掛けた。

「どうした」

 義秋は振り返る。

「良介ば襲わせたとは神谷やろ」

 節子は目を伏せて言った。

 義秋は答えずにただ微笑んだ。

「言うて…。覚悟はしとるけん」

 節子はじっと義秋を見ていた。「何となく分かるとよ…。神谷が樟葉会と繋がっとる事は…」

 義秋は節子に歩み寄り、優しく微笑んだ。そして節子の顔を自分の胸に埋めた。

「何も…心配せんちゃ良かよ…」

 義秋はそう言った。

 節子は声を上げて泣いた。義秋の胸でしゃくり上げる節子をいつまでも抱いていた。


 しばらくして二人は、病院のロビーに戻った。

 そこには誠二と政典が居て、義秋を見つけると近寄って来た。

「ヨシア…」

 誠二は目を伏せていた。

「どうしたんだ」

「トシカズ兄ちゃんが…。死んだらしい」

「えっ…」

 義秋は待合室に掛けられた大きなテレビを見た。ちょうどそのニュースをやっているところだった。

「樟葉会の竹本利一容疑者は新聞記者の井崎良介さんを襲う様に命令して、先に自首してきた四名の組員を使い、全治四カ月の重傷を負わせた疑いで、被疑者死亡のまま送検する予定であると地元警察が発表しております」

「そんな馬鹿な…」

 義秋はテレビに向かって呟いた。「トシカズ兄ちゃんは殺されたのか…」

 義秋は振り返り、誠二に聞いた。誠二は首を横に振る。

「死因は心不全。多分もう…、寿命やったったい」

 四人は良介の病室に戻った。流石に痛むらしく、良介は苦痛を我慢するように顔を歪めていた。その良介を智子は必死に世話していた。

「ヨシア…」

 良介は乾いた口で義秋を呼ぶ。義秋は良介を覗き込む様に近付いた。

「どうした」

「明日の約束、行くな…。危険すぎる」

 良介は聞こえない様な小さな声で義秋に言った。「お前に送った写真…。あれがすべての真相だ…。三村は金のためなら、何でもやる男だ…」

 掠れた良介の声は義秋の胸に強く焼き付く様だった。

 義秋は小さく頷く。

「そうするよ。お前がいなきゃ行っても意味が無い」

 義秋がそう言うと良介は目を閉じて頷いた。


 夕方、智子を病院に残して古谷旅館に帰った。どうしても泊り込むと言って智子は聞かず、そのまま置いて来た。誠二と政典もそのまま家に帰った様子だった。

 食堂で節子と二人で食事をし、自分の部屋に戻った。

 義秋が窓際の椅子に座って、夜の海を眺めていると部屋の戸を叩く音がした。ゆっくりと部屋の戸を開けると節子が立っていた。

「どうした…。眠れないのか」

 義秋が聞くと節子はコクリと頷いた。そして部屋の中に入って来た。

 窓際の椅子に座る節子を見て義秋は微笑んだ。冷蔵庫の上からグラスを取り、氷を入れると二人分のウイスキーを注いだ。

「ほら…」

 義秋は節子にグラスを渡す。「色々あったからな…」

 義秋は節子の向かいに座り窓の外に目をやると、節子も義秋の視線の先を追った。

「なあ、節子…」

「ん…」

 節子は首を傾けて義秋を見た。義秋はグラスに口をつけてウイスキーを飲む。

「お前…。昔、俺がお前の親父に言われて少しずつお前から距離を置いて行った事、知ってただろ」

「うん」

 節子は頷いた。「お父さんがヨシアに電話ばしとるとを聞いたとよ…」

 節子はその日を思い出している様だった。徐々に節子の目には涙が溜まり始め、頬を伝う。

「枇杷ば提げて、ヨシアんとこに行ったやん。もう…辛くて辛くて…」

 節子は俯いて浴衣の上に、光る涙の粒を落とした。「帰りにヨシアが見えん様になった途端に涙が溢れ出して…」

 義秋は節子をじっと見つめた。しばらく二人は沈黙していた。節子はしきりに頬の涙を手の甲で拭っていた。

 義秋はまた窓の外を見た。

「あの日、俺は確かにお前の親父に別れろって言われた。俺はあの日から自分に言い聞かせた。節子の親父に言われて別れるんだって…」

 節子は顔を上げて話を聞いていた。義秋は微笑んで話を続ける。「けど、実は自分の意思で別れようとしていたのかもしれない。あの時の俺には、この町に残る事も、節子を連れてこの町を出る事も出来なかった。だったら初めから無かった事にすれば…。そう考える自分も確かに居たんだ」

 義秋と目が合うと、節子は微笑んで目を伏せた。

「弱い自分に言い訳して、節子を遠ざけて…。俺は一人…、悲劇のヒーローになっていたのかもしれないな」

 節子はグラスをテーブルに置いて義秋の傍に立ち、肩に手を置いた。

「ヨシア…。私も同じたい…」

 節子は義秋の唇に唇を寄せた。「私もお父さんが言うけん…って自分に言い聞かせて、苦しか気持ちば誤魔化したとよ…。別れとう無か、行かんとって、連れて行ってって言えん弱か自分ば、お父さんのせいにして誤魔化しとったと…」

 義秋は立ち上がり節子を抱きしめた。

 義秋と節子はそのまま敷かれた布団の上に崩れて行った。

 お互いが離れていた長い歳月で無くしたモノを探り合う様に求め合った。その二人を月明かりが鮮やかに照らしていた。そしてこれが二人の最後の時であるかの様に…。


 義秋は、節子が智子を迎えに行くのを見送ると、久しぶりにスーツを着た。そして古谷旅館のロビーのソファに座っていた。

「ヨシア…。何処か行くとね」

 政典がそう言いながら入って来た。

「ああ、ちょっと野暮用でな」

 義秋はタバコの灰を落としながら言う。

「スーツば着て野暮用ね…。怪しかね」

 政典はにやりと笑った。

「節子には内緒にしてくれよ」

「高かばい。覚悟しとけよ」

 二人はそう言うと笑った。

「あ、そうだ…。マサ、金曜日、釣りに連れてってくれないか」

 政典は驚いた様な顔をして、

「良かばってん、どげんしたとや急に…」

 そう言う。

「別に理由は無いよ。帰って来て一匹も魚釣って無いんじゃな…」

 政典は頷いた。

「金曜は、朝一に、ちょっと用があるけん、スタート遅かばってん良かか」

「ああ、その方が助かるよ。俺も朝弱いからな」

 すると政典は義秋を指で呼んで顔を近付ける。

「遅うまで節子と抱き合っとるけん…、朝起きれんったい」

 そう言うと立ち上がり逃げる様に出て行った。

「馬鹿…」

 その後ろ姿に義秋はそう言った。


 義秋の車は三村の屋敷の前に停まった。大きな表札を睨む様に見ると、インターホンを押した。

「はい。どちら様でしょうか」

 使用人らしき女性の声がした。

「四時に約束させて頂いてます。木瀬と申します」

 義秋はカメラに向かって頭を下げた。少し間があり、

「お車ごと中にお入り下さい」

 そう声がすると、大きな門が開いた。義秋は車に戻り、その屋敷の中に入った。玄関の脇に広くなった場所があり、そこに車を停めた。車を降りると玄関のドアが開いた。

「木瀬様。どうぞお入り下さい」

 使用人の女性は頭を下げて義秋を迎える。義秋は何も持たずに中に入った。

「旦那様の書斎へご案内します」

 使用人は義秋の前を歩く。義秋はその豪華な洋館の中を見ながら歩いた。二階に上がりその奥に大きな扉の部屋があった。使用人の女性は立ち止まり、そのドアをノックした。

「旦那様、木瀬様がいらっしゃいました」

 そう声を掛けると中から三村健三のしゃがれた声がした。

「どうぞ…」

 その声でドアを開けて貰い、義秋は中に入った。

 部屋の中央に置いてある高そうなソファに三村健三と神谷一馬が座っていた。

「木瀬義秋です…」

 義秋は頭を下げた。

「三村健三です」

 三村は座ったまま言う。

「神谷です」

 神谷も続けて言った。

「どうぞ、お座り下さい」

 三村は向かいの席に義秋を招く。義秋はそのソファに座った。

「失礼します」

「いや…、井崎君は災難だったね」

 三村は座ったばかりの義秋に言った。義秋は目を伏せて頷いた。

「私も目を掛けていた記者だったので驚いたよ」

 そう言って身体を起こした。

「で、私に訊きたい事とは…」

 三村は咳払いをして言う。

「三村先生はお忙しいので、端的に頼む」

 神谷が横から口を挟む。

 義秋はニコニコと微笑みながら二人を見た。

「三村議員」

 義秋は膝に肘を置いて身を乗り出す。

「何だね…」

 三村のしゃがれた声が部屋に響く。

「三村議員にとって原発とは何ですか」

 義秋はそう聞いた。

「えらく抽象的な質問だな…」

 神谷がまた口を挟んだ。それを三村が手で制した。

「私にとって原発とは、この町の人のために生涯を掛けて断固撤廃を訴えるモノだよ」

 三村はそう言うと口元を歪めた。

「なるほど」

 義秋は三村の目をしっかりと見て言った。「では、再稼働に反対される理由は「票」のためですか、「金」のためですか」

 三村は怪訝な顔をして身を乗り出した。そしてじっと義秋の顔を見た。神谷が立ち上がろうとするのを再び三村が制した。

「木瀬君と言ったね…」

「はい」

「思い出したよ。君は木瀬鉄工の子倅か」

 義秋は無言で頷いた。「そうか。あの時のな…。いや、これは愉快だ」

 三村は声を出して笑った。

 そしてぴたりと笑うのを止めた。

「教えてやろう」

 三村はソファから立ち上がった。そして窓際に立ち、外の風景を見た。

「原発は、君たちが考える以上に複雑なモノだ。原発が無くなると、たちまちこの町は枯渇こかつする。そして忘れ去られる事になる。そうなると、この町を再生する事など夢のまた夢だ」

 義秋はじっと三村の背中を見ていた。

「再稼働に反対しているのは、半分は本音だ。そして残りの半分は…」

 三村は振り返り義秋を見た。「君が言う様に「票」のためだよ」

 三村はゆっくりと自分の机に座った。

「しかし、その票はこの町の人々のためだ。物事は完全に否定しても何も生まない。そして完全に肯定しても腐って行くだけだ。そのバランスを取る役割を担う人々の事を政治家と呼ぶのだよ」

 義秋は俯いて失笑した。

詭弁きべんですね。反対する期間が長ければ長い程、あなたが手にする原発マネーは膨らんで行く。そうでしょう」

 その言葉に三村はにやりと笑った。

「仮にそうだとしても、私がそれを認めると思うのかね…」

「いえ…思いません」

 義秋は即答した。

「だったら時間の無駄というモノだ。もう良いかね…」

 三村は椅子から立ち上がろうとした。

「最後に一つ。よろしいですか」

 義秋は強い口調で言う。

 三村はその声に、再び椅子に腰を下ろした。

「良いだろう。何でも訊きたまえ」

 三村は机の上で手を組んだ。

「節子は…」

 義秋のその言葉に三村は顔を上げた。「節子は幸せだと思いますか」

「貴様、何を言ってるんだ」

 神谷が立ち上がった。「さっさと帰れ。貴様、愚弄ぐろうするにも程があるぞ」

 声を荒げて神谷が言う。

「節子は」

 しゃがれた声で三村は言った。「節子は奇特な娘だ。今まで何の文句も言わず、私の言い成りにやってくれた。だが、この先は節子が選んだ道を生きて欲しいと思っている」

 三村は口を一文字に結び、頬を緩めた。

「今までの事は、私の一生を持ってあの子に償うつもりだ」

 三村はゆっくりと立ち上がった。「木瀬君。君にも謝らなければならんな…」

 三村は机に両手を突き、義秋に深々と頭を下げた。

「この通りだ…」

 義秋は立ち上がって三村の前に立った。そして頭を下げた三村の机の上に封筒を置いた。

 その封筒を見て三村は顔を上げた。

「何だね、これは」

 三村は義秋に訊いた。

 義秋は三村に微笑み、

「あの日、俺が節子を売った金です。そのままお返しします」

 そう言った。

 三村はその封筒を手に取って笑った。

「確かに受け取った」

 義秋は三村に頭を下げて振り返った。

「神谷さん。あなたにも一つだけ、質問があります」

 神谷はソファに荒々しく座り、脚を組んだ。

「何だ…」

「樟葉会のチンピラを使い、井崎良介を襲わせたのはあなたですよね」

 その言葉に慌てて神谷は立ち上がろうとした。そしてその動揺を隠す様に再び座る。

「井崎良介の右足はもう動きません。そんな彼が不自由無く生活出来る町作りを…。よろしくお願いしますよ…」

 義秋は微笑んで三村の書斎のドアを開けた。そしてそこで振り返った。

「ご安心下さい。ここで聞いた事は、一切書くつもりはありませんから」

 義秋はそう言って部屋を出て行った。

 その義秋の背中を見て三村は笑った。

「良い男に育ったな…。ヨシア君」

 三村はそう呟いた。

 部屋を出てリビングに下りると、ソファに節子が座っていた。節子は義秋の顔を見て歯を見せて笑っていた。義秋も節子を見て笑った。

「帰るぞ…」

 節子はその言葉に義秋に抱き付いた。


 その翌日、義秋の姿は何処にも無かった。

「おい、ヨシアは」

 誠二が古谷旅館に入って来るなり言う。ロビーに座る節子は首を横に振った。

「あいつ大丈夫かな、まさか樟葉会の連中に…」

 誠二はイライラと旅館に入って来る。

「うるさかね…。俺はあいつと明日、釣りの約束ばしとると。あいつが俺との約束ば破った事は、今まで一回も無かけん。明日までには帰って来るったい」

 ソファから起き上がって政典は言った。

「お前、おったとか…」

 誠二は突然現れた政典に驚いた。

「おったらいかんとか」

 政典は再びソファに横になった。

「井崎も会いたがっとるとに…」

 誠二は節子の向かいに座って膝を揺らした。


 義秋は携帯電話からメールを送った。そのメールには「実行」とだけ文字が入っていた。

 すぐに義秋の携帯電話が鳴る。メールが返信されて来た。

 義秋は海沿いのレストランの駐車場に居た。よく晴れた海を見ながらメールを開いた。そこには電話番号だけが入ったメールが表示されている。

 義秋はそのメールにある電話番号をコールした。

「はい」

 すぐにその相手は電話に出た。

「釣りの道具を受け取りたいんだけど」

 義秋は窓の外を見ながら言う。

「お待ちしておりました。何処にお届けすれば良いですか」

 電話の相手は義秋に訊いた。


 義秋は町の神社の先にある燈台に来た。強い風に目を細め、燈台までの大きな石が転がる海岸を歩く。

「こんなに歩くの大変だったか…」

 少し愚痴を言いながら、何とか燈台に辿り着く。そして燈台に上がる階段に座り、タバコを咥えてマッチを擦った。

 燈台の上で物音がして、義秋は頭の上を見上げる様に見た。

 そこには釣り竿のケースを抱えたビスコが立っていた。ビスコはゆっくりと階段を下りて来る。義秋は立ち上がり、振り返った。

「あなただったんですね」

 ビスコは義秋に微笑んだ。

「やはりお前だったのか…」

 義秋もビスコに微笑む。

「これが道具です」

 ビスコは改まって、義秋に釣り竿ケースを渡した。

「ありがとう。これで明日、釣りに行けるよ」

 ビスコと義秋はハイタッチした。

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