第34話

夏の逃避行。あれから一年と十ヶ月ほどの時間が過ぎ、十八歳の僕は再び沖縄の──渡嘉敷島へと向かう。


 あれ以来、ヨゾラには会っていないし、メッセージのやりとりはおろか、旅行サイトに口コミを書き込むこともしていない。


 僕はひとときの旅行者として、台帳に記録されているだけの存在だ。


 彼女を忘れたわけでも、思い出の中に閉じ込めたわけでもない。単純に、僕には僕のやるべき事があった。その目的を達成するために、がむしゃらに過ごして、やっと一息つく事ができたのが今月に入ってからだ。


 どうしても彼女に会って、直接伝えなければいけないこと──単純に、僕が伝えたいだけのことがある。


「渡嘉敷島まで」


 フェリーターミナルの受付の女性は以前と変わらず同一人物に見えた。それはもちろん、悪い意味ではない。


「はい、どうぞ」

「僕、あの島が好きなんです。また来ることができて、嬉しい」


 浮かれた旅行客として、後ろに列が出来ていない事を確認してからプラスチックの壁越しに自分語りをすると、女性は微笑んだ。


「お帰りなさい。それ、島の人にも言ってあげてくださいね」

「はい」


 出航二十分前のジェット船にはすぐに乗り込む事が出来る。


 しっかりと目を閉じ流れに身を任せる。座席にもたれかかっていると、島での日々を思い出す。


 もう、彼女は居ないかもしれない。民宿をたたみ、島を出ているかもしれないし、結婚しているかもしれない。


 変わらずにあの場所にいたとしても、僕の事を覚えているかどうか、わからない。


 紫外線で黄色く変色してしまったキーホルダーを握りしめる。こいつにキラキラの生活をさせてやれたかどうかは微妙なラインだけれど、ずっと一緒に過ごしてきた僕の頼もしい相棒だ。


 約束なんて何もしていない。宣言すら何もしていない。


 もし、彼女に会うことが出来なかったなら、島の人に思い出話を聞いて貰おう。おじさんが居たならば、彼に伝える。


 彼女がいたら。覚えていなければ、自分から言おう。


 もし、彼女が僕を覚えていたら。


 その時は、僕は──。



「あー、相変わらず、最悪だ。人間の乗り物じゃない」


 二年程度で船の乗り心地が進歩するなんてはずもなく、ジェット船の乗り心地は変わらずに最悪だった。所要時間がわかっていることだけが救いだ。


 いの一番に港に降り立ち、辺りを見渡す。六月のゴールデンウィーク明けの離島は閑散としていて、わずかにフルムーンの旅行者がのんびりと僕の横を通りすぎるばかり。空は薄曇りで、抜けるような青空ではないのはあの日と同じだった。


 迎えのワゴン車を見渡すが、「民宿へんな」の文字はない。ここにきて、かっこつけて運命力なんてものを信じて事前確認を怠った事への後悔が生まれ始めた。


 怖いのだ。


 色々なパターンを考えて、傷つかないように先回りして、希望だけを膨らませてここまでやって来たけれど──僕は物語の主人公ではない。


 何かひとつが上手くいったとしても、とんとん拍子に全てがうまく行くことなんてない。


 帰ろうか。


 一瞬、そんな事を考えてしまう。


 ──ここに来ただけで、すごいよ。


 ヨゾラの言葉が、まるで再生したみたいに鮮明によみがえる。


 ──自分で決めたことだもの、最後までやり遂げる。


 折りたたみの帽子をリュックから出し、かぶる。港からの道は覚えている。


 島の景色は時が止まったかのように寸分違わず同じで、インターネットやガイドブックで新しく調べる必要は何もなさそうだった。


 坂を登り切る。額から流れてきた汗が目に入ってしみた。角を曲がる。


 二年前から時が止まったように、民宿とレンタカーの看板がそこにあった。


 立ち止まり、目をつむり、深呼吸をして、再び目を開く。


 まだ「民宿へんな」はここにあった。


 僕は再び、この場所に辿りついたのだ。今度は流されてじゃなく、自分の足で。


 一歩一歩、海中を漂うナマコのような速度で近づいていく。道路から事務所をのぞき込むと、机に向かっている人影がある。ヨゾラだ。


 彼女は変わらず、ガレージの奥、ガラス張りの事務所で、パソコンとにらめっこをしていた。声をかけようか逡巡する。扉は半分ほど開いていて、一声発せば彼女が振り向く事は明らかだった。


 何と声をかけようか。


 今日、部屋あいてますか? 


 それとも、自転車を借りられますか? 不自然ではない台詞を考えている間に、雲の切れ目から日が差し込んできて僕の首筋を焼いた。


「あっつ……」


 帽子をかぶり直そうとした瞬間に、欠けたアスファルトからこぼれた砂利が足元で盛大にその存在を主張した。


 ヨゾラがこちらを見た。ガラスの向こうで、彼女の目が大きく開く。


 僕はその風景から、目が離せない。時が止まる。汗だけが流れる。唇が震える。


 言いたいことは沢山あるはずなのに、頭の中を回っているのはどうでもいいような、とりとめのない言葉ばかりだった。


 まるで野次馬かのように急に顔を出した太陽が、更に激しく僕の首を灼く。


 ヨゾラはゆっくりと立ち上がり、机の上の目薬をさした。それから壁に掛けられた予約ボードを指さし確認し、次に僕を指さした。


「自分探しの大学生のひと?」

「自分、は……ある」

「そう。良かったじゃん」


 ヨゾラは事務所のドアを大きく開き、ぴょん、と一足飛びに僕の近くへやってきた。以前はあんなに大人に見えたはずの彼女が、随分小さくなったように思えた。


「ようこそ沖縄。ようこそ渡嘉敷。ようこそ民宿へんな」


 初めて出会った日と同じ挨拶。彼女は僕を知っている。僕も、彼女を知っている。


「僕、医学部に進学したんだ」


 おかげさまで──と続けた僕の言葉に、ヨゾラは目を丸くした。


「えー。凄いじゃん。あんなにダメダメ言ってたのに、現役でしょ? おめでとう。あー、ホント……やるじゃん。正直、見くびってたわ─」


 ヨゾラは表情を隠すように前髪をかき上げた。


「お祝いをしなきゃね。と言っても、まだまだ未成年だから……焼肉でもするか」

「カレーが食べたい」

「それじゃ沖縄の意味がないでしょ、せっかくまた旅行に来れたのに。……いつまで沖縄にいるの?って、週末だけか」


 今日は金曜日。彼女はきっと僕が二泊三日の弾丸旅行で沖縄にやって来たと思っている。


 でも、そうじゃない。


 僕は『そうじゃない』のだ。


「……僕は、沖縄にずっと居る。少なくとも、六年は」

「大学は……?」


 まさか五月病を発症してもうドロップアウトしました、なんて言わないよね、とヨゾラが訝しむ。


「僕、沖縄の大学に進学できました。春から那覇で一人暮らしをしてる」


「医学部って話はどこ行ったの?」


 財布から学生証を取り出し、ヨゾラに差し出すと彼女はそれをしげしげと眺めた。全てに得心がいったようだ。


「……東京からわざわざ沖縄に進学したの!? もったいないよ!」

「もったいなくないよ。それに、もう今更だし」

「信じられない! そもそも、なんで先に言わないの? メールとか、電話とか、予約サイトのレビューとか、いくらでもあるでしょ!」


「落ちたら恥ずかしいから……」


 連絡を取るといつでも会いに行けるのだと、甘えた自分が顔を出しそうだった。


 沖縄の大学一本に照準を絞る。そうしてヨゾラに会いに行く。達成できなければ、彼女には会えない。それが僕が決めた、ただ一つの目標、僕が東京でするべき事だった。


「そんなめちゃくちゃな話、ある?」

「たぶん、家からキャッシュカードをパクッて偽名を名乗って家出をキメるよりは論理的だと思う。自分ではかなりポジティブだなと」


「なんかチャラくなったね。大学デビューってやつ?」


 沖縄の空気。海の音。ヨゾラの言葉が僕の心にふたたび馴染んでいく。


「今頑張って大人のふりをしてるんだから、生暖かーい気持ちで見守っててよ」


 僕はこの二年近くの事を、ヨゾラに話す。あの時、延々と、自分の弱さや甘えをさらけ出して、愚かさを海風に晒したように、もう一度。


 帰京後、僕が受験のストレスから突如『発狂』して『エスケープ』を決めた事は、あっと言う間に親戚じゅうに広まっていた。


 ただ、僕にとってはたった一度しかない人生の大事件であったが、ある一定の年齢の人にとっては「はしかのようなもの」と、散々ネタにされただけで終わった。


 母さんは変わらず家族に対して真剣に接してくれたけれど、僕に関してとやかく言うことはなくなった。


 そうなると不思議なもので、家庭内は明るくなり、何故か僕の成績は上がった。


 当初の計画ではとりあえず高校を卒業して、手に職をつけるか、沖縄の大学に行かせてくれないかと頼み込もうとした。なんにせよ、どこでも生きて行ける力を身につけたいと考えていた。


 しかし、相反する二つの道をむりやりたぐり寄せる方法があると、父さんが知人の話をしてくれた。


 大学時代の友人に外資系証券会社に勤めた後、退職して沖縄の法科大学院に入学し、そこで学生時代を過ごしながら司法試験に合格した人がいる──と。


 お前もそれをやってみるのはどうだ。父さんは僕に、そう言った。別に大学は東京に限らないのだから、自分が楽しくやれそうなところを受験すればいいのだと。


 医学部合格を目指す。沖縄にも行く。不純と言えば不純──純と言えば純。


 その可能性を示されたことで、僕はせめてそこまでは頑張ってみようと思えた。もちろん、飛躍的に能力が向上するわけでもなく困難はあったけれども、希望があると言うのは、闇の中を進むよりはずっと生産的だった。


 ただ単に大学受験に成功して、親の金で進学しただけだ。まだ、何者にもなっていない。でも、僕はこうして海を越えた。


 そして、これからも。足がつきそうでつかないような、ギリギリの所を、僕はあっぷあっぷしながら進んでいく。


「綺麗な……思い出にしておけばよかったのに」


「ここで過ごした先に、なりたい自分があるから」


 何が僕にとって素晴らしい人生なのかはまだわからない。でも、彼女がいれば素晴らしいと思う。長い人生を振り返った時、愚かな判断だったと、年老いた僕は笑うかもしれない。でも、そうじゃない方の未来をつかみ取りたかった。


「思い出にはしたくない。人生の続きに──君が──ヨゾラが居てほしいと思う」


「はー。頭がいいのか、悪いのかわかんない。勉強は出来るバカってやつ?」


 ヨゾラはふいと僕のそばを離れ、事務所の椅子に座った。音を立ててアームが軋む。


「……もし、もうここにあたしがいなかったら、どうするつもりだったのよ」


「それは仕方がない。すべては自己責任、だから。……まあ、さっきまでは大分ビビってたけど」


「……綺麗なだけじゃないよ。色々、不便だったり、嫌なところもあるよ。物珍しいだけかもよ。飽きて、後悔して──ここから出られなくなっても知らないよ」


「そのための医学部受験だから。医師免許でもあれば、沖縄だろうが、東京だろうが、日本全国働き放題。まあ、進級と、国家試験に合格するかどうかの問題もあるけれど──頑張るよ」


 簡単な事ではない。しかし、僕はまだ、頑張ればギリギリ食らいついていけるラインに居るのだ。どこまででも、やってやる。


「……はあー。随分、大きな事を言うようになったなー。昔の方が、可愛げがあった。……医師免許より先にさ。自動車の免許は取ったの?」

「まだ。これから通う」

「医学生ってどう考えても忙しいだろうに、どうすんの。生活費は?」

「仕送りと、家庭教師のアルバイトでもしようかと」

「女子はやめなよ。ハルト君、ちょろそうだから」

「夏、住み込みのバイトは募集してない?僕、魚を捌けるようになった」

「してない。でも、今年はするつもり」


 この島から大学に通うことは物理的に不可能だ。結局、沖縄に移住したところで、微妙な距離があるのは変わらない。


 でも、僕はいつでも、ここに戻ってくる事ができる。先の事は分からない。しかし、今はまだ、それだけで十分だ。


 ヨゾラはもう一度大きなため息をついた。しかし僕はめげない。彼女に怒られ、呆れられ、失望され、なだめられ。こういう態度は慣れっこなのだ。


「まあ、来てしまったものはしょうがない。お昼食べる? 六百円」

「いつの間にか値上がりした?」

「前のはこども料金だから。割引していたの」

「なるほど……」


 今更ながら、それもヨゾラの優しさだったのだろう。やはり、まだまだ知らない事ばかりだ。


 麦わら帽子の下から汗が噴き出して、目に入った。同時に、まるで化学反応を起こしたみたいに目の奥が熱くなった。自分が泣いているのだと、数秒のちに理解する。


「何故に、泣く……? 普通に考えて、逆でしょ……」


 ヨゾラは首からぶら下げていた、どこかから貰った粗品らしきタオルを僕の頭に乗せた。その乱雑さと、言動のそっけなさと、そして優しさが変わらず、僕はますます泣いてしまった。


 少しばかりは成長した所を見せたいと思っていたのに、僕はまだまだ感傷的で、かっこ悪いままだった。


「もー。これだから、ハルト君は……本当に、賢いのか、バカなのか……泣きたいのは、こっちだよ……」


「ちょっと、熱が脳に回ったかな。今日、晴れてるし。なんだか、六月と思えないぐらいに暑い……」


「これから夏本番。もっと。もっと、もーーーっと、めちゃくちゃ暑いよ。大丈夫?」


 ヨゾラの手が頬に触れる。正直、今にものぼせそうだ。

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残暑のヨゾラ 辺野 夏子 @henohenonatu

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