第33話
空港はまるで近未来の世界に迷い込んだみたいだと、何度訪れても思うものだ。
天井は高い吹き抜けで、滑走路にはイルミネーションのように誘導灯が輝き、銀と白を基調にした飛行船の様な内装は建設されてから何年も経っているはずなのに古くさいところがまったくない。
人種も性別も年齢も様々な人が行き交っており、まさしく日本の首都、東京の玄関口と言ったところだ。
世の中には色々な人がいて、様々な仕事をしている。そうして初めて、今の自分の生活が成り立っているのだ──当たり前に理解しているようで、八月までの僕は全く分かっていなかったのだと、改めて考える。
今の僕には東京だろうが沖縄だろうが、できる事はなにもない。これから、一体どこを目指して、何になればいいのだろう。どうすれば自分を見失わず、自分の力でもう一度、あの場所に辿り着き、ヨゾラの期待を良い意味で裏切る事ができるのだろう。
東京に戻っても、僕の心にはまだくすぶっている熱がある。
飛行機と船に乗るのは簡単だ。でも、そう言うことじゃないのだ──。
「ハルト」
意味もなく天井を睨みつけていると、背後から声をかけられた。島ならともかく、こんな人混みの中で僕の名前を知っている人は限られる。
──僕を迎えに来たのは、父さんだった。
仕事終わりに空港で僕が帰ってくるのを待っていてくれたのだ。
白いぱりっとしたワイシャツに、紺のスーツを着た父さんは、随分と立派な──もちろん、それは事実なのだけれど──どこからどう見ても都会のエリートサラリーマンそのもので、なんだか『非常に強そう』に見えた。
「お前、何と言うか……健康的だな」
こんがりと日焼けした僕を見て父さんはコメントに困ったのか、頭をぽりぽりと掻いた。
「ごめんなさい」
気が重くなる事はすぐに片付けてしまうに限る。初手で謝罪するのが一番とばかりに、僕は頭を下げた。
父さんの手が僕の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回した。
「俺はいいよ。お前が良ければ。まあ……母さんは大分へこんだみたいだけどな」
「……うん。自分勝手な事をして、心配をかけて、思いやりがなかったと反省してる」
「殊勝な言葉は全部後にとっておけ。……ところで、お土産は?」
いきなり脳天気な事を言われ、どうしたらいいのか分からなくなってくる。家出した後にに実家に帰る時は、仲直りの証としてお土産を買うのが常識なのだろうか?
「空港で買って行ったらバレるかな……」
僕のとんちんかんな言動に対し、父さんはまるでトラブルなんて何もなかったかのように大きな声で笑った。
「怒ってないの?」
「怒ってはいない……が、これからの事を考えるきっかけにはなった。俺が今まで頑張ってきた事が、無駄か、逆効果だったって突きつけられた気分だった」
僕は静かに判決が下るのを待ったが、父さんはまずは移動しよう──と人混みをすり抜けてモノレールの駅へ向かった。
車内から、静かに川とも海ともつかない水面を眺める。この海は沖縄まで続いている。でも、あまりに遠すぎて、東京の夜景が眩しくて、あの闇に包まれた島の夜は、もう感じる事ができないのだった。
浜松町で降り、そのまま京浜東北線で王子まで帰るのかと思いきや、父さんは有楽町で降りると言った。
「どこに行くの?」
「俺の秘密の場所」
どうやらまっすぐ家に向かうわけではないらしかった。
空を見上げる。眩しいほどの街灯に照らされた夜空は、星が見えなかった。悲しくなって思わず立ち止まると父さんが振り向く。
「そんなにビビるなよ。別に、そんなとんでもない所に連れていこうって話じゃないぞ」
僕は父さんのことが好きだ。明るくて、穏やかで、そして大雑把だ。
僕のこれからの──これまでもだが、生活に関わるほとんどは、彼の気分次第で変動してしまう訳だが、父さんの言動からはそんなプレッシャーを感じることが出来ず、ただただ後ろについていく。
オレンジのネクタイをした父さんと、オレンジのサンダルを履いた僕は、まるで海中をうろうろするカクレクマノミの親子みたいだ。
そのまま無言で線路沿いを進んでいくと、最初は飲食店がびっしりと並んでいたものの、どんどん人気が少なくなってくる。やがて、細いビルとビルの隙間を通り抜けた先に、ぼんやりと、灯台の光のように光る赤い提灯が現れた。
「今晩は」
「らっしゃい」
父さんがのれんをくぐって挨拶すると、店主らしき男性が顔を上げ、驚いたように僕を見た。
「へえ。沢田さんの息子?」
「そうなんですよ。まだ未成年ですけど、今日は特別ってことで」
小さな十席ほどの居酒屋は、沖縄料理を出す店らしかった。父さんが仕事終わりにどこに行こうと自由だけれど、沖縄料理の店の常連らしいことに驚いた。
「泡盛蜂蜜ソーダとウーロン茶。料理はおまかせで」
母さんにはまだ帰らないと言ってあるから大丈夫だ、と父さんは言う。やはり僕みたいな連絡を後回しにするようなヤツとは格が違う。
「明日からどうする?」
父さんはいきなり本題を切り出した。
「俊哉が『農学部はどうだ、うちなら部屋も余ってるし』って連絡してきたぞ」
「とりあえず。学校に戻って……色々考えている事はあるけれど、まずは高校を卒業しないと」
「そうしよう」
父さんが神妙な顔で頷くのを見計らったように飲み物が運ばれてくる。
「泡盛蜂蜜ソーダって、美味しいの」
「そりゃそうだろ。……酒はダメだぞ。今時隠れてやるつもりが、気が大きくなって写真をSNSに……なんてのはもってのほかだ。思い出は良いことも悪い事もこっそりしまっておくものだ」
なんだか、父さんではなく友達と話しているような気持ちになる。
「ゴーヤチャンプルひとつ」
「あ、そうだ。ゴーヤの種ならある」
「そうか。母さんにはハルトの代わりにゴーヤでも育てなって提案してみるか」
「確かにそっちの方が伸びしろがありそうだ」
背後の酔っ払いの勢いにまぎれて笑えないブラックジョークをかました僕は父さんの拳で軽く小突かれた。
コツン。痛みは全く感じないが人に頭を叩かれる、と言うのは実は初めての経験だった。
「そんなふざけた事が言えるなら、みいちゃんも追い詰められずにすんだのかもな」
みぃちゃんって誰だ? と数秒の思考の後、それが僕の母の愛称であると認識する。
「……ごめんなさい」
「俺には謝らなくていい」
「お前の母さんはな、俺にとっては雲の上の、それこそお姫様みたいな存在だった。東京に来て、へえ、こんな人が本当にいるんだ。と強烈に思ったのを覚えているよ」
父さんは照れくさそうに、運ばれてきた刺身に箸を付ける。
「秀一さんは頑張り屋で、努力家で……って言われて、俺は舞い上がった。こんないいところの、それこそお嬢様が、田舎から出てきた俺をいいと言ってくれた。この人は俺そのものを見てくれている。うれしかったね。他にいくらでもつり合う男がいたのにさ」
両親の馴れそめを聞くのは気恥ずかしさがあった。僕の両親になる前は、接点も何も無い、別の場所に暮らしていた他人だったのだ。
もし母さんが受験に成功していたら、僕は生まれていない。そう考えると不思議な気分だ。
「母さんの気持ちは理解できる。親は子供に、少しでも有利に人生を進めてほしいんだよ。元々が恵まれているんだから、結果を出して当然──そう言いたくなる気持ちも、お前を見ているとわからなくもない」
──恵まれすぎていると、こんなもんかな。
父さんから見ても、僕はのほほんとして、危機意識のない、恵まれた少年にしか見えなかったらしい。つまりそれは世の中にとっての真実で──重ね重ね、恥ずかしい事ばかりだ。
「しかし。それはそれで、平和ボケしてたっていいじゃないか、どうせ医学部に落ちた所で死にはしないんだし、と考えていた。それが甘かった。ぐちゃぐちゃになったマイホームを見て、俺は真面目に頑張って損した、って思ったね。しかも向こうのお義父さんときたら『無理に探すな!どこまでも行かせろ!』ときたもんだ」
僕が色々考えているように、皆同じものを見ていてもそれぞれその時に考えている事は違うのだった。お通しの酢の物を噛みしめていると、父さんが空になったグラスを見てため息をついた。
「ああ。俺も沖縄、また行きたいなー!」
誰だって沖縄に行きたい。人の好みはそれぞれだが、それが大多数の意見だろう。しかし『また』と言う言葉が引っかかる。
「父さんは沖縄に行った事があったの?」
「話してなかったか? 俺と母さんの新婚旅行は沖縄だった」
「……そ、そうなの?」
僕のセンチメンタルな気分は父さんの衝撃発言により若干薄れていった。
「三泊四日だけだから、忙しなかったけどな。お前がどこに居るのか聞いて驚いた」
「沖縄の……どこへ?」
「それこそ、慶良間諸島。俺たちは座間味で一泊したよ。コテージでな。運良く、その日だけは晴れ
てたな」
父さんの言葉に静かに耳を傾ける。動悸が速くなっていく。
「座間味って、渡嘉敷の奥の島でしょ……そんな所にまで行ったの?」
「そう。お前、一週間以上向こうに居たのに、ずっと渡嘉敷に居たのか?」
驚くべき事に僕の両親は既にあの海の向こうへ──更に奥まで到達していたのだ。
「知らなかった……」
「別に言うこともないからな。今でも覚えてる。その日はずっとカンカンに晴れていた。まあ、俺にとっては栃木の空も沖縄の空も似たようなもんだったが──そこで母さんが──みいちゃんがな、言ったんだ。ものすごく空が綺麗だ、って。俺は海じゃないのか? と思ったけどな」
ここに来て本当に良かった。なんだか、今までずっと下を向いて生きていた気がするの。母さんは、そんな事を言っていたのだそうだ。
「帰りの飛行機の中で、彼女は言ったよ。いつか子供が生まれたら、この気持ちを忘れないように、空とか晴とか、そんな感じの名前をつけるんだって」
僕の「晴人」と言う名前は、沖縄の空に由来するものだった。その事実を、僕は今日初めて知った。おそらく、今回の旅がなければこの話を聞けるのはずっとずっと先だっただろうし、多分聞いても何も感じなかっただろう。
繋がっていないように見えて、色々な所で繋がっている。それこそ、僕の運命も、まだ沖縄に──きっとあの島に続いていると、はっきり確信する事ができた。
「さて。おっさんの長話はもういいだろう。聞かせてくれよ、お前の冒険の結果をさ」
「駄目」
父さんはずるりと脱力し、おかわりの泡盛ソーダを煽った。
「何だそれ……?」
「駄目だったら、駄目」
ヨゾラの秘密は僕だけのものだ。たとえ家族にだって、一夏の特別な自慢話のタネにするつもりはない。
ゴーヤチャンプルの次にカウンターにことりと置かれたのはラフテーだ。東京都民はこれを『豚の角煮』と思うだろう。でも、僕は違いを知っている。料理酒と砂糖ではなく、泡盛と黒糖を使っているのがラフテーなのだ。忘れてなるものか。
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