第17話

「ねえ!」

「なーに!?」

「あとどのくらい!?」

「十分ぐーらーい!」


 バイクに乗っていると自転車とは比べ物にならないレベルの強風が顔に吹き付けるから、エンジン音も相まって僕たちは大声を出さないと会話することができない。


「それより、ちゃんと掴まってるー!?」

「だ、大丈夫」


 とてもヨゾラの腰に手を添える勇気がなく、僕は座席の縁を掴んでバランスをとっている。二人乗りバイクの乗り心地は予想よりずっと安定していて、恐怖感はなかった。カーブに合わせて車体が傾くと僕も傾く。まるで荷物のようだ。


 昨日のスーパーを通りすぎ、街の中心部をさらにまっすぐ進んで行くと田園地帯があり、そこを越えると建物がなくなった。対向車線で一度軽トラを見かけただけで、信号も案内看板も街灯もなく、ただゆるやかなカーブが続く。


「もうすぐ海が見えるよー!」


 バイクが大きく右折したその瞬間飛び込んできた景色に、僕は目を疑った。


 白い砂が弧を描き、入り江を形成している。その先に広がる海は──陳腐な言い方をすると、『まるで入浴剤をぶちまけたみたいな』明るいネオンブルーだった。


「うそだろ……」

「え!? 何が? 何か落とした!?」


 ヨゾラの慌てたような言葉に、いやなんでもない、と返す。バイクはうねうねと細かいカーブを曲がりながら坂を下っていく。どんどんと海が近づいている。


 木々の向こうから見える海はまるで小さなジオラマのようだ。白い砂浜から水色、そして青のグラデーションになり、その向こうにはいくつかの緑の島が見えた。


「嘘でしょ?」


駐車場にバイクを停め、波打ち際まで歩いてから僕はもう一度問いかけた。


「何が?」

「海」


民宿や港で見える海もすばらしかったと思うけれど、島のメインビーチたる海の「ド派手さ」は群を抜いていた。その海を背景にして、ヨゾラがこちらを見ている。


「晴れてるからねぇ」


 いくつかの宿泊施設とキャンプ場や民家があるものの、商店などはない。ビーチの手前には機具の貸し出しをしている小屋とシャワー場があり、ホテルの宿泊客だろう家族連れが何組か波打ち際で遊んでいた。


「ところで、ハルト君ってば泳げるの?」


 借り物の水着に着替えて準備をしていると、背後からヨゾラに声をかけられた。


「一応……海では泳いだ事がないけど」


 そう言いながら振り向くと、彼女もまた僕と同じように短パンにラッシュガードという、おしゃれさよりは実用性を重視した水着に着替えていた。


「……泳ぐの!?」


「見ててもつまんないじゃん」


 普段はあんまり入らないけど──ヨゾラは屈伸をしながらそうつぶやいた。


 女子と海に来る。それは僕にとって、あり得ない異常事態だった。てっきり、他の用事を済ませた後に僕を迎えにきてくれるものだと思っていたのだ。


「まあ、泳げなくても遠浅だしライフジャケットもフィンもあるけどね」


 送迎費用は草むしり代と相殺で、シュノーケリングセットのレンタル費用は彼女の分も負担すべきなのだろうか──と悩んでいたが、なんの事はない、彼女の大きなバッグには二人分のセットが入っていた。やはり、東京と沖縄では家に揃えてあるものが違うのだ。


 ぶかぶかの水着を身につけ、足にフィンを装着し、よちよちと波打ち際にたどり着く。まだ季節は夏と言っても良いけれど、九月の海は一瞬ひやりとしたのは緊張のせいかもしれなかった。


 ひたすらに透明な海水の中を進む。遠浅の海は波が穏やかで、ぼーっと遠くを見つめていると水平線の向こうまで魂が引っ張られてしまいそうな気持ちになる。


「この辺りの海の色は『ケラマブルー』って呼ばれてるの」


 ザブザブと音を立てながらヨゾラが僕を追い抜く。彼女が水面を指さす。目を凝らすと、小さな魚の群れが僕たちの間をすり抜けてゆくのが見えた。


「この辺りから泳ごうか」


 ヨゾラの言葉に、シュノーケリングの機具を装着し、海底をのぞき込む。


 太陽の光が差し込み、水面の影がそのまま映し出されている。ゴボゴボと、自分の息づかいだけが頭の中で反響し、海の浅いところにいるクラゲはこんな気持ちなのかもしれないと、僕はしばらく、その場で黙って浮いていた。


 ヨゾラが僕の肩をつついた。海中では会話できないため、身振り手振りでコミュニケーションを取るしかない。彼女は沖の方角を指さし、そちらの方に泳いでいく。着いてこいと言うことなのだろう。

 遠くから見て黒っぽく見えた部分は岩や珊瑚、海藻が密集している部分で、ウミガメはその辺りで食事をしている事が多いらしい。


 しばらくフィンの推進力に身を任せて進んでいくと、景色が変わる。水深が深くなり、人間に踏まれる事が無くなったせいか、形のはっきりとした珊瑚が確認できる。


 ヨゾラは泳ぐのをやめ、海中で『もうこれ以上奥には行かない』とばかりに腕を広げた。この辺りでウミガメを探そう、と言うのだろう。


 そのまま海中を二人で漂う。併走するように並んで泳いだり、別方向に向かってみたり、着かず離れず、会話もなく、ただ静かにお互いそこにいるだけ。


 シュノーケリングに慣れてくると、岩や珊瑚の影をじっくりと観察できる余裕が生まれてくる。珊瑚の影からガラス細工のようなウミウシが顔を覗かせている。


 うっかりすると、酸素がプラスチックの筒を通して供給されていることを忘れ、そのまま下へ潜水してしまいそうになる。


「結構泳げるじゃん。心配いらないね」


 休憩のために顔を上げるとヨゾラは飽きてしまったのか、海面にぷかぷかと浮かんでいた。


「それにしてもウミガメなんて……いる?」


 海中のそこかしこに、鮮やかな青のスズメダイやオレンジのカクレクマノミ、黄色と黒のチョウチョウウオ──水族館でおなじみの魚がいるけれど、ウミガメの影は見つからない。


「うーん……おかしいな……大体この辺に居るはずなんだけど」


 ウミガメの寝床は沖の方だが、浅瀬に生えている海藻を食べにやってくる。しかし、水中で目を凝らしてみても魚がいるばかりで、目当ては見つかっていない。


「海はもういいや。あたしは、海じゃなくてスカイツリーとか、スノボとかの方がいーい」


ヨゾラはそんな事を言いながら、じゃぶじゃぶと陸地に戻ってしまったので、僕はその後ろを追いかけた。

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