第16話

「あっついな」


 僕はヨゾラとの交渉の結果、庭で草むしりをすることになった。


 ヨゾラの生活は朝食を作り、掃除や洗濯などの家事を行い、買い出しに出て、昼食をつくり、事務所で予約の対応や帳簿付けをしながら夕飯のメニューを考える──それが365日ほとんど毎日。予約が入る限り、民宿は年中無休なのだと言う。


 日々生活を整えるためにやらなければいけないこと──普段僕が当然のような顔で享受している環境作り──のために、彼女は日々追われているのだった。草むしりもそのうちの一つだ。


 彼女は言った。


『ハルト君が代わりに肉体労働をやってくれるなら、あたしがビーチまで連れてってあげる』


 断る理由は何もなかった。むしろ何の見返りがなくても、ヨゾラに頼まれたならば僕は出来はともかく、進んで草むしりでもゴミ拾いでもなんでもするだろう。


 別に不純な予感があるわけではない。ヨゾラが言っているのは初日におじさんが僕にしてくれたような『送迎』に違いないけれどそれでもうきうきとしてしまうのは当たり前の事だ。


 ぶかぶかの長靴、麦わら、古ぼけたTシャツと綿パン。作業着に着替え、食堂から庭へ出る。


 雑草を抜いて所定のコンポストの中に入れ、食べ頃の野菜を収穫し、植物や木に水をやる。


 正直、何が「雑草」で何が「食べられるから栽培している野草」なのか判別がつかないのが本当の所だ。


 しかし父方の実家が栃木の農家だとぽろっと話しただけで『雰囲気でやればできる!』と太鼓判を押されてしまった。男手として最低限期待されているラインまではやるしかないと庭を見渡す。



「あー、結構キツいな、これ」


 グリーンカーテンなのか、それとも勝手に生えているだけなのか。ネットにつるを絡みつけているゴーヤを収穫していく。


 単純作業と言えば単純作業なのだが、平行して細かい事柄を処理し続けなければいけないために意外と考える事が多く、思ったよりさくさくと作業は進まないものだ。


 暑い。顔を上げると麦茶が窓辺に置かれているのが見えた。いつからそこにあったのか──グラスの中の氷はまだ形を保っている。


 とうの昔に食堂にヨゾラの気配はない。彼女は今頃、扇風機のきいた事務所で事務作業をしている頃合いだろう。僕に任せたのは彼女なのだから、勝手にやらせてもらうぞ──と、グラスをぐいっとあおる。


「せいがでるね」


 その代わりと言ってはなんだが、おじさん──ヨゾラの父親が食堂にいた。僕たちは同じ空間に居るにも関わらず、避けているわけではないが顔を合わせる事は少なく、仮に同席したとしてもお互いに空気のような存在だ。彼が無言で僕のために麦茶を用意してくれたのだろうか。


「こんにちは」

「うん。手伝ってくれて、ありがとうね」


 彼は日中はずっと車庫の方にいて、送迎や車両のメンテナンスをしている。ただの客でしかない僕が庭先をうろうろしている事についてはまったく気にも留めていないようだ。


「これから付き合いで釣りにいくけど、タナカさんはどうする?」


 タナカ? と一瞬考えた後、そう言えば僕の名前はタナカハルト、という設定になっていた事を思い出した。


 ヨゾラが辿りついた真実は家主である彼に隠されているのか、それとも知った上でしらばっくれているのか、人の良さそうな風貌からは全く判別できない。


「僕はぶらぶらしてようと思います。お昼も注文しましたし」


 ヨゾラが海まで連れて行ってくれる、とはあまりおおっぴらに言えなかった。僕にはそれが民宿のサービスなのか、気の毒に思って個人的に僕に構ってくれているのか、そのどちらなのかわからないのだ。


「そうか。気になったらいつでも案内するよ。……ヨゾラとはうまくやっているみたいだね」


「え、ああ、はい」


 慣れ慣れしい観光客に対する牽制なのかと思ったけれど、どうやらそうではないみたいだ。


「あの子、ぶっきらぼうだけど悪い子じゃないから」


 僕がこれまでに得た情報をつなぎ合わせて人に彼の事を説明した場合、大抵の人は移住先で奥さんに逃げられた哀れな中年男性のイメージを持つと思う。しかし、正しく少年である僕が言うのもなんだが、彼の瞳はなんだかとってもピュアに思えた。



「ええ、はい……僕もそう思います……」


 僕の返事に満足げに頷き、去ってゆくおじさんの広い背中を見送ったあと、平安名ヨゾラはぶっきらぼうか否かを考える。


 僕にとっては彼女は親しみやすくて面倒見のよい女性であるが、父親から見るとそうでもないらしい。今のはよくある謙遜とはちょっと違う気がした。


 つまりは特別僕によくしてくれているのかもしれない──なんて自分に都合のよい解釈に傾きつつあると、ぎしぎしと床をきしませながらヨゾラがやってきた。



「おおっ、素晴らしい。完璧。ガーデニングの才能があるかも」

「いや……」


 事務作業を終えて戻ってきたヨゾラからお褒めの言葉を頂いた。


 やって当たり前、出来て当然。意に沿う結果でなければ責められる。褒められたのは随分久々の様に思えた。


「よしよし、完璧。もう思い残す事は何も無い。ご飯を食べて出かけよう」


 今から作るとなると、どんどん時間が遅くなってしまうのではないか──汗を拭きながらそんな事を考えていると、トレイが二つテーブルの上に置かれた。


 豚の角煮を入れた炊き込みご飯、きんぴら。何かの魚を焼いたもの。海藻の入った味噌汁。


「あれ、もう出来ているの?」


 ヨゾラはしばらく台所には居なかったはずだ。一体どういう事だろう。


「ちょくちょく戻ってきてたよ?」


 そうなのか──と彼女の手際の良さに感心してしまう。


「あ、もしかして麦茶……」

「すごい集中してたよね。職人かと思ったわ! あたしに気がつかないんだもん」


 ヨゾラはてきぱきとやかんから水筒に麦茶を移し替えている。昨日と同じく、持ち歩き用の飲み物を用意しているのだろう。


「って言っても。おかずは余り物とかパパが釣ってきたやつだから組み合わせは適当。あたし、事務作業って嫌いなんだよねー。お金とか契約が関係することだから、きっちりやらないといけないじゃない。その点、料理は間違いがあってもごまかせるから結構好き」


「いや、でも、すごいよ……僕なんて、草むしりをするだけでヘトヘトだ」


「それが分かったら、家に戻ったらお母さんに感謝することだね」


 ヨゾラの言葉には、棘はなかった。ただ僕を通り抜け、海を越えて、どこか遠くに向かって呟いているように聞こえた。


 彼女の言葉と共に僕の思考は北上し、東京に戻る。駅からほど近い高層マンションの十九階。母は今、そこで何をしているのだろう。


 ──これはお母さんの『仕事』なんだから。


 母さんはいつもそう言っていた。彼女にとっては僕のお世話をして、立派に育て上げることが人生をかけた『仕事』なのだ。彼女はいつも家にいて、何かをしていた。習い事や、個人的な買い物に出かけているところをあまり見たことがなかった。


 褒められず、感謝もされずに反抗され、人生を否定された母さんは今どんな気持ちなのだろう──まだ僕を待っているのだろうか。それとも、もう僕に見切りをつけただろうか。


 押しつけられたと言えば被害者ぶれるけれど、僕もまた加害者だ。


 連絡をしたほうが良いのかもしれないと思う反面、今それに取りかかってしまうと海に行くどころではなくなってしまう。そんな感情がせめぎ合う。


「おーい」


 ヨゾラの声に思考が引き戻される。僕の目の前では、細くて長い指がひらひらと舞っていた。


「何を考えているの?」

「……母さんの事」


 ヨゾラは黙った。マザコンだと思われたか。いいや、間違いなくそうに違いない。


「正確には……」

「親のこと、でしょ。本当に終わってしまう前に、大事なことに気がつけたのは良いことだと思うよ」


 彼女の母は出て行き、そのまま生死不明だと言った。彼女の中では『終わった事』なのだろうか。それとも、まだ帰りを待っているのだろうか?


「さ、修学旅行でもあるまいし、お説教なんてしても仕方がない。行くよ。ハルト君の荷物はリュック一つにおさまるね?」



 だだっ広いガレージにはくすんだ白の小型バイクだけが残されている。ヨゾラは僕に黒いヘルメットを手渡し、自分の荷物を座席の下にしまい込み、馬鹿でかいトートバッグを肩にかけた。


 そうして彼女は、そのバイクにまたがった。


「……」

「え、何してんの?」


 僕が間抜けな顔で立ち尽くしているため、ヨゾラが訝しげに声をかけてくる。


「……車は?」

「パパが乗って行った。他のは貸し出し中。早く」


 ヨゾラのバイクには後部座席がある。つまりは二人乗り用の小型バイクなのだ。彼女は僕に、後ろに乗れと言っているのだ。


「怖いの?」

「いや、そういうわけではない」


 確かに乗ったことはない。しかし、怖いと言うのはまた違う。単純に、二人乗りするためには彼女と密着しなければならない。そんな状況に置かれて、躊躇しない奴がいるだろうか? いるわけがない。


「これ、ちゃんと二人乗りの規格だから大丈夫。免許もあるし……」

「それは見ればわかる」


 じゃあ、早くしてよ──ヨゾラに急かされ、僕はバイクに近づいた。

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