第18話
「いなかったね」
「うーん。やっぱり『持ってない』のかも」
「明日も来る?」
「いや。そもそもウミガメが目的じゃないし、いたらいた、いないならいない。それでいいよ」
自分の運の悪さには少しがっかりしてしまうものの、十分に海水浴は楽しめた。そこまで残念とは思っていない。
ヨゾラは木陰に古ぼけたキャラクターの絵が描かれたビニールシートを敷いている。僕はその間、ホテルの売店にお邪魔し、カップのアイスクリーム──東京でも見かける沖縄ブランドのものだ──を二つ購入する。
「水筒持ってきたから、もったいないよー」
「僕が買いたいんだ、せっかくだから。サトウキビとマンゴーどっちがいい?」
ヨゾラは差し出したアイスの蓋を両方つまみ上げて、せっかくだから半分こしようよ、と言った。
ガチガチに凍ったアイスクリームを木のヘラで掬うのはなかなかに骨が折れる。やっとのことで欠片を口に入れると、濃厚さとは裏腹に、後味はさっぱりとしてすぐに消えていく。成分表を見ると、なるほどアイスクリームの規格ではなくラクトアイスだった。
「アレルギーでもあるの?」
ヨゾラが心配そうに問いかける。ただ成分表を見ていただけだ、と答えるとヨゾラは「そんな所見る?」と言って薄く微笑んだ。その瞳は優しげであるけれど、どこか馴染みのない動物を珍しげに眺める時の人間に見える。
「あー、だるっ。運動嫌い」
ヨゾラは痩せてはいるが、特に運動を趣味としているわけではないようだ。
「ハルトくんは結構泳げるね」
「もう辞めて随分経つけれど、泳ぐのって結構忘れないものなんだな」
「習い事を?」
「うん。東大生が子供の頃にやっていた習い事ランキングでは一番水泳の割合が高いとか、全身運動が脳に良いとかで。幼稚園から小学校の中学年まではやったかな。でも、その頃から塾の時間が増えるから辞めた。有望な選手って訳でもなかったし」
「ふうん。やっぱり、ハルト君も色々大変だ」
「習い事は?」
ヨゾラは静かに首を振った。
「ここに何かあると思う? まあ、塾はあるけど。あとは習字ぐらい。小さいときにピアノをやってみたいと思った事はあるけどもちろん、島にそんなのあるわけもないし、那覇に通ってまで……って感じで」
僕は昨日から何も学んでいなかったらしく、またもやヨゾラの微妙なコンプレックスを刺激してしまったようだった。
地方では何かを望んでも、努力する以前に環境が整わないと言う問題がある。彼女が言いたいのは遠回しではあるが、そういうことなのだろうと肩をすくめる。
いつの間にか観光客はの姿は消えていた。まだ日は高いがすでに時間は夕方にさしかかっている。
会話は途切れ、シュノーケリングをしていた時と同じように、つかず離れずのふわふわした空気が流れているのは、肉体疲労のせいかもしれなかった。
「……船がいる」
「そうだね。漁船かも」
「父さんから聞いた漁師とビジネスマンの話を思い出すなあ」
「それ、どんなの?」
「僕の話なんてつまらないよ」
これ以上失言を繰り返したくないので、会話がなくてもいいのなら、このままだらだらとしていたかった。
「そんな事ないよ。試しに話してみて」
「確か……南の島に、仕事で訪れたビジネスマンがいる。海を見ていると、一人の漁師が魚を獲るために小舟に乗ってやってきた」
「ビジネスマンは漁師に、魚を穫るのにどのくらいの時間がかかるのか尋ねる。そんなに時間はかからないと答えがあって、実際その通りに仕事はすぐに終わった」
父さんから聞いた話を必死に思い出し、言葉を紡いでいく。
「ええと。それで、ビジネスマンは漁師にあなたはもっと働くべきだ、と提案するんだ」
「その日の仕事はもう終わったんでしょ?」
「そう。漁師は毎日、必要な分だけ稼いで、家に帰って昼寝をしたり、友人と遊んだりする。でも、彼の答えに、ビジネスマンは不満だった。もっと漁をすればお金が稼げる。それを元手に設備を整えて、もっともっと魚を獲れるようにする。それを繰り返せばどんどんとお金が儲かって、悠々自適の暮らしができるのに──って」
「悠々自適の暮らしって?」
「自分がやりがいを感じられるぐらいに仕事して、空いた時間は家族とゆっくり過ごすこと」
でも、その漁師は「それは今の自分の生活と変わらない──」と答える。話はそれでおしまいだ。ヨゾラは唇を尖らせる。
「結局……その話って、何? 努力してもしなくても結果は同じって事?」
「いや。自分で望んで選択するってことが、人生においては重要ってことかな。何に重きを置くか、と言う」
「ふーん。なんか、イソップ童話みたいな話だね」
確かに、童話や昔話と言うものは当時の教訓を伝えるための物だと聞いた事がある。今僕がした話も現代風にアレンジされているだけで似たようなものが随分昔から存在するのだろう。
「あ、そうだよ。それだ。この話では漁師はキリギリスのポジションだから、一見こっちの方がよさそうに見えてもビジネスとしては魚が獲れなくなった時のことを考えて、お金を先に貯めておくべきだ、と言う意見もあるんだよ」
「その話を総合すると、あたしが漁師でキリギリスで、ハルト君がアリでビジネスマンなの?」
ヨゾラの素朴な疑問により、僕の頭は混乱する。
「あれ。違うな。それは違うよ。えーと。でも、そうなると僕がキリギリスなのか、ヨゾラは働いてる。あれっ。いや、その話は別なんだ」
ヨゾラの顔が『突っ込まないで聞き流しておけばよかったなー』とでも言いたげで、ますます恥ずかしさがこみあげてくる。
「ハルト君って難しい言葉を使ってて頭がよさそう!って時と、喋り方が小学生みたいな時、両方あるよね」
色んな人の受け売りをまとめて頭に放り込み、それを推敲しないで吐き出している──大して理解してもいないのに、知っているかのような口ぶりで話してしまうがために、そのような印象を持たれてしまうのだろう。
僕が何を言おうかとまごまごしている内に、父親と小学生だろう、親子が海から上がってきたので必然的にそちらに注目する。
「カメいたよー!」と嬉しそうにはしゃぐ子供の声に、お互い顔を見合わせて苦笑する。どうやら、僕たちは海で入れ違ってしまったようだった。
「そろそろ、帰ろっか?」
ヨゾラは立ち上がり、足についた砂を払った。後ろ髪を引かれるような、まだまだここにいたいような、不思議な気持ちだ。でも、一緒に帰る、と言うのは素晴らしい響きだ。
「うん。……ところでさ」
「ん?」
ビニールシートを畳んでいるヨゾラの背中に、声をかける。
「ずっとここでこんな風に海を眺めて暮らしたいと思うのって……」
考えが甘いのかな。僕の言葉を、ヨゾラは指で遮った。彼女の一挙一動が気になってしまい、自分の前世はトンボかなにかだったのだろうかと、妙な妄想にとらわれてしまう。
「あなたは東京の人だから」
その言葉は今までで一番、明確な拒絶の色を持っていた。僕がショックを受けたと思ったのか、ヨゾラはごまかすように鼻歌を歌い始めた。
「でも、居たかったら、ずっと居てもいいよ」
帰路のさなか、ヨゾラはバイクの上で小さく呟いた。僕はそれに、聞こえないふりをした。彼女の優しい部分にどんどん引きずりこまれていく自分がいる事実。彼女は優しいけれど、それに甘えすぎてしまっている事実。
さまざまな感情が僕の中を巡る。
その日の夕食は、おじさんが釣ってきた刺身定食が出た。
おじさんに『あなたの娘さんと海に行ってきました』と言うのはやはり恥ずかしく──人口の少ない島なので、すれ違った人達はそもそもヨゾラの知り合いなのかもしれないけれど──何をしていたのか尋ねられ、はっきりと答える事ができなかった。
食事を終え、僕はヨゾラの手伝いと称して、皿洗いを手伝うことにした。今日は三人分で済むけれど、繁忙期はおじさんと二人で手分けしても、結構な時間を取られるのだとヨゾラは言った。
「……あれ」
食器を棚にしまっていると、プラスチックのコップが目に入った。なんの変哲もないものだが、水色の特撮ヒーローのイラストが描かれたものは、ヨゾラの趣味とは思えなかった。
じっとコップの薄れた文字を見る。何となく知っている気はするが、自分とは世代が違うものの様に思われた。僕よりは三つか四つぐらいは世代が下の作品だろうと当たりをつける。
あまり深く考えることでもないのかもしれなかった。客の忘れ物か、放送期間が終わって投げ売りになったものを買ったのかもしれないのだから。
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