第13話

 僕の母は──美枝子は祖父、曾祖父、そのまた親の代から続く医者一族の出身だ。 


 別に家系図を紐解いても歴史上の人物が出てくる訳でもないし、大病院の院長でもないが、親戚にはそれなりの社会的地位につき、日々の生活に不自由しない人々で構成されている。いわゆる地元の名士、と言うやつだろう。


 そんな家に生まれた母であるが、なんとも不幸なことに彼女は医学部の受験に失敗してしまう。だから僕は彼女の叶わなかった夢のためにこの世に生を受けたとも言える。


 ヨゾラは自分と関わり合いのない、テレビから流れるニュース番組に耳を傾けるように僕の話を聞いていたが、ふと思い出したように声を上げた。


「でも、ほら、ニュースでやってた。女子の点数が不当に抑えられてるって」


 今となっては真偽のほどはわからないけれど、母さんは浪人しなかったらしい。私立の学費も、寄付金も潤沢に払える資金力があるにも関わらず──なのだから、おそらく明確な壁にぶち当たり、諦めざるを得なかったのだろう。


「そうして、息子である僕にリベンジが託されたけれど今現在それは見事に失敗している」

「なるほど……お父さんも医者なの?」


「ところが、それが農家出身なんだな」


 ヨゾラの目が驚きに見開かれるのがはっきりと見えた。


「なんでまた。子供を医者にしたいなら、医者同士で結婚するものじゃないの」

「大学で知り合ったんだってさ」


 母さんは一浪のち、医学部がない大学に入学した。薬学部や看護学部ではなく文学部だ。


「理屈ではないという事ね」


 ヨゾラは腕を組みながら難しい顔でつぶやいた。


「父さんの実家は栃木の田舎で、野性味があって、しぶとくて、殺しても死ななさそうな父さんに白羽の矢が立ったわけ。──これは本人が言ったわけじゃなくて、おばさん──母の姉の言葉だけど。医者と結婚して、相手やその親族に見下されるのが嫌だったんでしょ、って」

「意地悪だね」

「まあね。性格はかなりキツいかな……」

「伯母さんの事はさておき──お父さんはまた、違うタイプの人なわけね」


 ヨゾラはぎっと背もたれにもたれかかり、天井を仰いだ。


「そうだね。でも毎日遅くまで働いていて、凄く立派だと思うよ。あんなにざっくばらんな感じで、証券会社に長く勤めているのは不思議だけれど……」

「証券会社って銀行とは違うの?」


 ヨゾラにとっては地方の信用金庫もメガバンクも保険会社も証券会社もすべてひっくるめて『お金に関係ある職種』と言うカテゴリーに入っているらしかった。まあ、それは僕にとってもそうなのであるが。


「違う事は違うけど。ともかく、母さんは結婚し──僕は期待の長男としてこの世に生まれた。それがまた、苦労の始まりだったわけだ」


 母さんは僕に夢を託した。色々なサプリメントを摂取し、胎教を行い、産まれてからも積極的に育児書を読みあさり、習い事に連れて行き、できる限りの英才教育を施した。


 その結果、幼児の頃の僕は十分に『可能性』を感じさせる存在ではあったらしい。


「でも、小学校の『お受験』に失敗してしまって」


 今でも覚えている。あれは僕が六歳の夏。僕は学習ドリルで勉強をしていた。


 どうしても解けない問題があった。考えても考えても、分からなかった。ドリルをすべて埋めなければ、その日の勉強は終わらない。夕食の時間になるまで僕は空欄を埋める事が出来なかった。


 母さんは僕が不真面目で、ふざけていると怒った。わからない部分を適当に埋める事はやってはいけないと、僕は意固地になって適当な答えを書く事ができなかった。


 叱られながら泣く泣く回答を見て、答えを書き込んだ。答えがなんだったのか、今ではもう覚えていない。ただ、答えを見てもなお、理解出来なかった事実が僕の脳にくっきりと刻まれた。


「その日、僕は自分が凡人であると、はっきりと理解したんだ」

「六歳で?」

「六歳で。やっぱり同世代で抜けてるヤツは、もうその歳の頃で違うよ。勉強にも才能がある。スポーツよりわかりにくいってだけ」

「まあ……甲子園で活躍する選手はリトルリーグの時点で超有名選手、みたいな?」

「そういうこと」


 幼児向けドリルごときで挫折した僕はもちろん小学校受験に失敗し、近所の小学校に通うことになった。


「次の目標は、当然中学受験になるのだけれど……父さんの『まだ子供のうちから遠くに電車通学させるのはかわいそうだ』の言葉が決め手になって、なんとか電車で数駅の中高一貫校に進学することが出来た」

「よかったじゃん」

「でも母さんからすると、そこは妥協に妥協を重ねた学校で、到底満足できる所じゃないときた。しかも僕はそこでもトップじゃない」


 僕が饒舌になり始めたのが『ヤバい』と思ったのか、ヨゾラは一旦立ち上がり、ボットから温かいお茶を注いだ。


「月桃茶。冷ましながら、ゆっくり話しなよ」


 巨大なマグカップには、カメの絵がでかでかと描かれている。そういえば僕のTシャツとおそろいだな。


「近所に小学校からの友達のケンスケってのがいて。クリーニング屋の息子なんだけど」

「やっと共感できそうな登場人物が出てきたよ」


「いい奴だよ。塾もずっと一緒で、同じ学校を受験した。今は別のクラスだけど」


「……わかった」


 ヨゾラはぴっ、と僕を指さした。話の展開が読めたと言うのだ。


「そのケンスケに成績で負けてるんでしょ」

「もしかしなくても僕の話、めちゃくちゃつまらない?」


「いや、そういう訳じゃ無いけど。突然出てきたから多分喧嘩の内容に関係あるんだろうなーって」

「そう。合ってる。単純に言うと、ケンスケにテストの順位が負けているのがばれて、情けないと泣かれた」

「まさか赤点とか言わないよね」

「学年で三十二番」

「超頭いいじゃん! てか、細かっ! 三十番以内、とか盛ればいいのに」


 男子校ではなく地方の公立校で、ヨゾラみたいなクラスメイトがこんな風にとりあえず褒めてくれたなら、僕の性格も少しは今より明るかったかもしれないと思う。


「まあ、そのことが発端で口論になって……」


 今思い返しても、あの時のテンションはお互いにおかしかった。今ならそんな事を言っても仕方がないのに──と思えるのだが。


 事件は八月三十一日、始業式の前日の夜に起きた。


『いったい、あなたにいくらかかっていると思っているのよ、本当に。お母さん、情けないわ……』


 その時僕は母さんと二人で夕食の席についていた。テーブルの上には鯖の味噌煮と一緒に新しい予備校のパンフレットが等間隔で並べられていた。


 僕の成績がぱっとしないのは、授業内容や友人関係が悪影響を及ぼしているからであると美枝子は言う。


 学校はそう簡単に変えられないので予備校を変えようと言う訳だ。


 父さんは変則労働だかアメリカ時間に合わせるだかでまだ会社に居た。それが幸いなのか、不幸なのかは分からない。


『悪い子じゃないけれど。あの子より成績が悪いなんて、真面目にやっているの?』


『だって、あの子の家クリーニング屋さんで、お父さんは高卒だって言うじゃない。お母さんはお店でパートしているし──』


 母さんは自分の分身である僕が、見下している家の子供に負けてそれでも尚僕がヘラヘラしているのが気に食わないのだ。


 普段はあんなにニコニコして、外では善良そうな奥さんとして振る舞っているくせに。


 ──いやな女。


 僕の脳は「お前の母はそんな女だ」と最終的な結論をはじきだした。その解答がはっきりと頭に浮かぶと同時に、僕の口から、自然に、水が崖から落下して滝になるように言葉がこぼれ落ちていった。


『母さんこそ受験の時に真面目にやったの?』


 その時どうしてそんな気持ちになったのか、分からなかった。言ってはいけないことだと、ずっと心にとどめていた事だ。ただ、目の前がぐるぐると回転して、吐きそうだった事は覚えている。


『自分の生まれや夫の仕事を鼻にかけて、自分自信はどうなのさ。何か、そんなにも他人をバカに出来る様な事を、成し遂げたの?』


『出来が悪い出来が悪いってさ、それは母さんのせいだろ!自分だって環境を整えてもらって、それでも失敗したくせに。自分が受かってから言えよ!』


 その瞬間、僕の視界で火花が飛んだ。



 ヨゾラがため息をついた。僕は一旦そこで話を切り上げる。


「あー。それめっちゃクソガキじゃん。そこは言っちゃダメでしょ」

「言うつもりなかったんだよ。悪いとは思っている。本当に。でも蛙の子は蛙って言うだろ」

「それ、あたしが『身長低いのはお父さんのせいー』って思っているのと同じ理屈なのはわかるけどね。で、ひっぱたかれて、家を飛び出してきたと」

「そう。引っ叩かれた。テーブルの向こうから。花瓶がわーって吹っ飛んで、サバ味噌が壁にぶつかって、スプラッタになった」

「やば。お金持ちって食卓に花瓶あるんだ。セレブ」

「これと同じだよ」


 テーブルの上のジャムの瓶に生けられた名も知らぬ草花を指でつつく。


「庭の草とはまた違うんじゃない?」

「まあ、何でもいいよ。とにかく、そのあとは売り言葉に買い言葉の喧嘩になって──最終的に、あんたなんか産まなきゃよかった。そう言われて、もうどうにでもなっちまえと」


 ただそれだけの事だった。


「我慢して我慢して我慢して、ある日突然切れるタイプの。そして謎の行動力とか発揮しちゃうタイプ?」

「そうだったみたい」


 温くなった月桃茶を口に含む。ほんのり甘い香りのするお茶は、リラックス効果があるとヨゾラは教えてくれた。


「今年は色んなことのタイミングが良くなかったんだ。不運が重なったと言うか」

「まーだ何かあるの?」


 ヨゾラはお手上げだよ、と言いたげに両手を上げて万歳のポーズを取った。めくれ上がった肩から、白い肌が──普段はTシャツに隠れているだろう、日焼けしていない部分が見えて、心臓が跳ね上がる。


 ──これはさ、脳が現実逃避をして、バカバカしい事に意識を向けるように仕向けているんだ。


 僕は自分に言い聞かせた。そうに違いなければ、僕はよこしまな感情を抱きながら、深刻な話をして女子の気を引こうとしている小狡い男になってしまう。


 いくらなんでも、人生を悲観して家出した二日目、もっと言うと初日から女子との交流に浮かれているもう一人の自分の存在をおおやけに認める訳にはいかなかった。


「んで、何があったの? 言わなくてもいいんだけどさ、前フリをされると気になる」


 ヨゾラは僕に話の続きをするように促す。彼女は僕の葛藤なんて知りもしない。むしろ知られては困るのだが。


「親戚のさ……まあ、二つ上の従姉妹なんだけど。その子がさ、今年東大に現役合格して」

「ちょっと待って。トーダイって、もしかしなくても東京大学のこと?」

「そう。日本で一番合格するのが難しいと言われている所」

「実在するんだ……」

「そりゃするよ」


 東大生って実在するんだ、とヨゾラはもう一度言った。彼女にとってはファンタジーの世界の出来事のようで、存在するのは知っているけれど見たことはない──そんな立ち位置らしかった。


「あ、わかった。もしかして……もしかしてだけど。その従姉妹の母親って、さっきの言い方がキツい伯母さんだったり?」

「ご明答」


 そんな姉妹が仲が良いはずもなく。従姉妹の合格によって、僕に対するあたりがどんどんキツくなってきたのが今年なのだった。


「つまり、沢田家は終わるべくして終わった、という事」

「……ハルト君も東大を目指していたの?」


 首を振ってその否定をしながら、何故か乾いた笑いがこみ上げてくる。


「それどころじゃないよ──今のままじゃ、私立も無理だよ」

「ヤバいじゃん。こんな所で遊んでる場合じゃないんじゃないの?」

「そりゃ、ヤバいよ。もう望みないんだよ」


「じゃああれだ、裏口入学!」

「入学と、進級と、卒業と国家試験とそのあとの研修は全部別だから」


 一番最初の選別についてこられない奴が、どんどんレベルアップしていく集団についていけるはずもない。僕はすでに英才教育を受けているのだからなおさらだ。


「医学部志望を辞めるのは? 別に良いじゃん、薬剤師、看護師とか、あとは……レントゲンの所に居る人」


 ヨゾラは指折り数えながら医療系の職業を口にしていく。


「もういっそ、介護でもいいじゃん。男性、需要あるよ。沖縄にも、老人ホームいっぱいあるし」

「何になったとしても一生文句を言われると思うと今から憂鬱だよ。……ま、なんでもいいや。とりあえず、家出した理由はこんな所」

「はー、なるほど。壮大なストーリーだったね。皆人生色々あるって事か」


 ヨゾラは立ち上がって伸びをした。


「もうこんな時間かー。とりあえず皿でも洗うか。ハルトくんはその辺で漫画でも漫画でも読んでなよ」


 ヨゾラはそう言ってのれんの向こうに消えていった。すでに働き、家業を継いでいるような状態のヨゾラにとって、僕はただの贅沢な悩みを持つ人にしか見えないだろう。


 ……皿洗いの手伝いをした方がいいかどうか判断がつかなかったので、僕はただひたすらに空を見上げて時間をつぶす事にした。

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