第12話
「民宿へんな」に戻り、洗濯をしようかと服を脱ぐと、やはりと言うべきか、腕にはくっきりと日焼け跡がついていた。東京だって十分に暑いのだからと油断していたが、日差しの質が違うのだ。危機管理意識のなさの現れと言える。
「アロエを塗りなよ」
食堂へ向かうとテーブルの上に緑色の容器に入ったアロエクリームが置かれていた。家にあるはずもないのに、どこか見覚えのあるデザインのクリームを遠慮なく肌にすり込む。日焼けはある意味やけどと一緒だから保湿をするのは理に適っている──多分。
「お昼は沖縄そばだよ」
ヨゾラの言葉。それがおもてなしゆえなのか、それとも沖縄人は本日々沖縄そばを食べて暮らしているのか僕には判別がつかない。
「そりゃ楽しみだ」
「手抜きじゃないよ?」
別に手間暇かけたものを食べたいとは思っていない。簡単なもので、その分違う事を──話をする時間がたくさんあればいいなと思うぐらいだ。
彼女が「そば」だと言い張るものは平たくて白っぽい麺に、鰹の風味のする黄金色のつゆ。細かく刻んだネギに、豚の角煮──いわゆるラフテー、と言われるものだろうか──が乗っている。
もちもちとした麺の食感。冷静に考えるとこれはうどんではないのか? という僕の疑問は『紅ショウガいる?』とのヨゾラの言葉にかき消された。
「いらない」
「おこちゃまだなー」
ヨゾラのからかいも、あけすけな言動もまったく不愉快ではない。多分、それは彼女が本当に大人だからだろうと思う。彼女は車の免許を持っている。はっきりとした年齢は分からないが、間違いなく、僕より二つ三つは年上なのだろう。
「……ところで、いくつなの?」
「さて、何歳でしょう……と言うのはさておき、女性の歳は聞いちゃダメって東京では習わない?」
とらえどころがなく、ヨゾラは年齢を答えなかった。代わりに何なら聞いていいのだろうか? 失敗はしたくなかった。それなら何も言わなければいいだけなのだが、僕はどうにも、どうしても、彼女の話を聞きたいと思ってしまうのだった。薄々感じては居た事だけれど、自分は粘着質な性質なのだ。
「ヨゾラ、って何か意味のある名前なの?」
「ないよ。生まれた時間が夜で、ものすごく星がきれいだったからヨゾラ」
ヨゾラは僕の想像した通り、正しく『夜空』らしかった。興味深げに見えたのだろう、ヨゾラはとっておきとばかりに話を続けた。今度は話の方向性を間違えなかったようだ。
「あたしが生まれたのは、九月の終わり頃。お父さんは常連のダイバーと飲みに行っていた。その日は予定日より大分早かったんだけれど、どうやらお母さんは赤ちゃんが下に落下しちゃう体質だったらしくて。……これってなんとかって言って、流産とか死産の原因になるやつだとかなんとか……。まあ、あたしは普通に生まれたわけだけど」
「この島には診療所が一つしかないから、出産する人は事前に那覇に入院するのね……あちこちに電話をかけている間に、あたしはその辺の床ですぽーんと生まれたの。お母さんはその時、めちゃくちゃ怖かったんだって。まあそーよね。それで、どうしようって唖然としながら外を見た。そしたら星が綺麗だ……って思ったんだって」
僕が生まれた時はまるまる二十四時間以上もかかる難産だったと、母さんは僕の誕生日の度に言う。一人っ子なのは僕の教育に専念するためと言ってはいたものの、母さんも僕の出産にトラウマがあるのかもしれなかった。
痛みも不安も想像でしかないため産みの苦しみというものはどうにもふわふわしているが、そんなにも苦労して産み育てた存在に反抗された日には、そりゃあ一発や二発ぶん殴りたくなるだろう事は明白で、さすがに申し訳ない気持ちがふつふつと湧いてきた。かと言って今すぐ家に帰りたい、とは思わないが。
「それは……大変だったね」
「つまり昼間だったらあたしの名前はソラとかマヒルだったわけよ」
何故海ではなく空にまつわる名前なのか、これでかすかな疑問は解消された。そうなると、自然と次の疑問が浮かび上がる。
「おかみさんは?」
「出て行った。今はどこにいるか、知らない」
間髪入れず返ってきた返事に、僕は盛大に後悔した。てっきり、どこかへ数日間出かけているとか、死別とか、そんな展開を予想していたのだ。死別が良いことだとは言わないが、今どこに居るのか知らない、と言うのは結構な重大事件のように思われた。
「昔は何回か手紙が来てたけど。福岡から東京に行くって書いてあってそれっきりだなあ。離婚はしてないんだよね……つまり死んでたらどこかしらから連絡があるわけで、ないって事は生きてるんだよ。多分」
「あ、そう……」
どこか遠くを見るようなヨゾラになんとコメントすれば良いのか分からず、ただただ鰹だしのきいたつゆを飲み干すことしか出来なかった。
今までに得た情報を推測すると、ここは彼女の母親の実家であり、『平安名』と言うのも母方の名字で、東京から移住してきたと言うおじさんは婿養子と思われた。
「戻ってこないのは、東京がそれだけいいところなんだろうね」
やっぱり、僕には何も言うことが出来なかった。
「きみは?」
ヨゾラは指でトントン、とテーブルを叩いた。その仕草で、彼女はきっと多分『あたしは自分の事を話したのだから、お前も話せ──』と言いたいのだと判断する。
「母親と喧嘩をして、その勢いで家出をして……」
「なんでまた。少なくとも、自分名義の貯金があって、私立の進学校に通ってる──家庭環境はそれぞれだけど、あまり悲観して飛び出すようには思えないよね」
彼女の言葉にはほんの少し、棘がある。全体に丸みを帯びて白く濁ったシーグラスに、ほんの少し鋭い部分──、ガラスの名残があるような。
「それは……その。人生に悩んでいる事があって」
ヨゾラが自分の名前について話すのはお決まりの話題なのかもしれないが、僕にとっては今まで心の奥底にしまい込んで、必死に隠してきたものだ。なかなか言葉にするのはつらいものがある。
「まあ、無理にとは聞かないけど」
「僕、落ちこぼれなの」
やっとの事で絞り出した言葉は当然と言うべきか、ヨゾラの共感は得られなかったようで彼女は唇を尖らせ、鼻にシワを寄せていた。
「でも進学校でしょ? 言っちゃなんだけど、ハルト君、多分マジでやばい学力の人見た事ないでしょ。今通ってる学校にだって、落ちた人も居るわけだし。そんなに悲観するような事じゃないと思っちゃうけど……」
「僕、いわゆる医者一族の出身で」
「へえ……。やっぱり、お坊ちゃまなんだ。なんかそんな感じするもの。育ちがよさそうだなーって」
ヨゾラから見た僕はそう見えるらしい。
「医者の家系、の人って初めて見た。お医者さんになる前の人を見たのも初めてだけど」
彼女は今までの人生で医学部を目指している人を見たことがないと言う。ヨゾラにとって医者と言うものは知らない世界からやってきた自分の人生とは関わり合いがない人種、という立ち位置らしかった。
「小さい頃から、勉強を頑張りなさいと言われて育って……それなりにやってきたつもりではあるけれど、最近は才能の壁に直面してしまって」
「ふーん」
複雑そうな気配の濃いヨゾラの人生に比べたら、僕の感傷なんてどうでもいい悩みにしか聞こえないだろう。しかし、一度勢いづいた自分語りを止めることは、できないのだった。
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