第4章 三日日中頃 第2話 業病

 かつて化野村では、業病ごうびようの患者を受け入れていた。業病は古くから伝染病として人々に恐れられ、一度業病になると治療法がなく、ただ症状が悪化することを待つばかりとなった。簡単には死に至らない業病は、原因が分からないため恐れられ、人々は業病の患者を迫害はくがいした。居場所を失った業病の患者は、家族によって座敷牢ざしきろうに入れられて隠されたり、浮浪者となって乞食こじきとして生きていくようになった。

 そんな中、化野村は業病の患者を積極的に受け入れる方針を取った。これを始めたのは化野村の村人たちではなく、化野村唯一の寺であり、化野村の檀那寺だんなでらである盛獄寺を開いた初代の和尚であった。

 当初は反対していた村人たちも、和尚の説得により協力するようになっていった。業病の患者は治療のために作られたトンネルの中で暮らし、村人たちも和尚に協力して、食事作りや古着を布施ふせすることで間接的に支えていた。

 そして当時の地主や荘園領主、幕府といった権力者たちは、化野村を利用した。全国に散らばり、持て余していた業病の患者を次から次へと、化野村へと送り込むようになった。

 これは業病の患者からも、喜ばれていた。あちこちで恐れられ、迫害を受けていた業病の患者にとって、迫害を受けることもなく、旅立つまでの安住の地として暮らせる場所が確保されたようなものだったからだ。

 そしてこの方針は、初代の和尚から次の和尚へと確実に引き継がれていった。戦乱の世の中も天下泰平てんかたいへいの世の中も、山奥にあった化野村では移り変わる世相とは無縁で、業病の患者の最後の場所として存在し続けた。

 大きな動きがあったのは、明治維新を経て元号が昭和に変わった時であった。

 昭和になり、世の中が少しずつ戦時体制へと移行していく最中さなか、各地に散らばっていた業病の患者を収容するための法律が作られ、それに伴い業病の療養所が各地に建設された。そして化野村にも、国から業病の患者を国立の療養所へ引き渡すように要請が入った。各地で業病の患者は療養所へ入所する手続きが取られ、入所していったため、化野村に多くいた業病の患者も本来は国の療養所へと入所することになっていた。

 しかし、業病の患者を保護してきた盛獄寺の和尚が、それに反対した。

 和尚は業病の患者が療養所への入所を希望していないこと、国の療養所はただ収容するだけで治療がなされないことなどを理由に、政府からの要請を断り続けていた。村人たちもそれに加わり、化野村から療養所への業病の患者の引き渡しは難航した。

 最初はなるべく穏便に問題を解決しようと政府は動いていた。隣接する神山村を通してのルートで化野村の説得を行っていたが、盛獄寺の和尚を始めとした化野村の強硬な姿勢に、ついに実力手段に訴えた。陸軍の防疫給水部隊ぼうえききゆうすいぶたいを化野村に派遣し、闇夜に紛れて化野村を攻撃した。盛獄寺の和尚と村人たちは皆殺しにされ、証拠隠滅のために化野村はダムの底に沈められることになった。

 隣接する神山村には、政府と軍部から箝口令かんこうれいが敷かれ、戦時中の報道規制により、化野村のことは新聞やラジオで報道されることはなかった。新聞やラジオでは、本土決戦に備えて水源地と電力を確保するために、化野村の近くにダムを造ることになったと報道された。

 こうして化野村は、冷たい水の底に消えていくこととなった……。

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