能ある猫さん手を貸して

藤咲 沙久

ニャーとミャーの22時


 インターホンが鳴った。手を滑らせて小麦粉をシンクにぶちまけ、その拍子に転がった卵がひとつ床へ落ち、ハンプティ・ダンプティ!! と叫んだ時だった。

「夜分にごめんねぇ。俺、今帰ってきたんだけど、宮原みやはらさんの部屋の前通ったら焦げ臭くってねぇ。何を燃やしたのぉ?」

「こんばんは新谷にいやさん……意図的に燃やしてたらそれはマズいやつです……ううう」

 小さなアパートの密なご近所付き合いが、ありがたくもあり切なくもあり。いつも様々な服装と時間帯に外出している隣の新谷さんが、スーツ姿で訪ねてきた。相変わらず職業不詳。進学と共に越してきた新参者の私にも親切にしてくれる、ノッポなお兄さん。先日はトンカチを貸してもらった。

 私は色んなものでぐっちょりしているエプロン姿のまま、なんとか気持ちを整えて、事の次第を説明することにした。

「実はですね。時間と小麦粉が足りなくなりそうで、落ちた床で割れて、卵も少なくて、何度も焦がして、クッキーを任されて、みんなでお菓子を作って、明日はお別れ会で、サークルの先輩たちが卒業するんです」

「そっかぁ。明日は先輩の卒業を祝うお別れ会で、手製の菓子を持ち寄る計画でクッキー担当になったけど、数々の失敗で間に合いそうにないんだねぇ」

「だからそう言ってるじゃないですか」

「うんうん。言えてないねぇ」

 手作りのお菓子にどれほどの価値があると言うんだろう。大学生なんだから、どこかお店で食事にすればいいのに。ああでも外食は高くつく。かと言って、今回のために仕入れて無駄にした材料費と体力を思えば何が得だったのかもわからなかった。

 現在手元にあるのは、食べ物と呼べないクッキーが二十枚(くっついたのを割って分けたもの含む)。ギリギリ人数分あるように見えるけど、このままでは一人一枚になってしまう。というか、たぶん食べれたもんじゃない。

「ともかく私はピンチなのです。材料も底をつきそうです」

「ふむ。まあ、卵と小麦粉なら貸してあげようねぇ。でも、問題は成功率と時間かぁ」

 時刻は二十二時を少し回ったところ。次がそろそろラストチャンスだ。藁にも縋る思いで新谷さんの左腕を掴もうとしたら、サッと素早く避けられた。よく見たら手が小麦粉まみれだった。危ない、避けてくれてありがとう。

 それでも聞く体勢でいてくれてるので、実際に縋るのは諦めて、言葉のみで訴えかけることにした。

「新谷さん……今は猫の手も借りたい状況なのです。ボウルがふっ飛んでいかないように押さえるとか、卵のカラを取り除く作業とか、そういうのだけでも手伝ってもらえませんか」

「仕方ないねぇ。でも借りる相手にそれ言うと失礼だから気をつけようねぇ」

「なるほど勉強になります。それで、猫の手貸してください」

 なぜか疲れた笑顔で「学習しようねぇ」と言うと、新谷さんはポケットから家の鍵を取り出した。お花とナイフなんて、変わった組み合わせのストラップがついている。何かのグッズだろうか。ちょっと可愛い。

「このまま廊下で話してるのも周りに迷惑だからねぇ。鞄を置いて材料を持ってくるから、今日だけ特別に部屋へ上がらせておくれ。いいかい、普段は夜に男を入れちゃいけないよぅ?」

「大丈夫です、新谷さんは特別です」

「誤解を生む言い方はよそうねぇ」

 新谷さんは本当に親切だ。無事助っ人要請に成功したので、新谷さんが来るまでにハンプティ・ダンプティを埋葬してやることにした。



 *



 猫の手を、借りた結果が、これである。なんか五七五になった。季語要らないのって俳句と川柳のどっちだったろう。

「猫じゃなかった……もしくは、能ある猫は爪を隠す……? なんと意外な才能でしょう……」

「それは鷹だねぇ。あと若干失礼だねぇ」

 こんがり、さくさく、うまうま。試食した一枚が最高の出来で、私は新谷さんに尊敬の眼差しを向けずにいられなかった。新谷さんは手を出すことなく、すべて口頭で指示をだしてくれた。そしたら、これだ。私が作ったと思えない美味しさ。

 いつも家にいないし、なんか見た目的にも料理とかしないと思ってた。でも実はスーパーのお総菜とか買わないタイプの人なのかもしれない。びっくりすごい。私はアレがないと生きていけないのに。

 新谷さんは捲っていた袖を直しながら、やや疲労感の滲む目で笑ってくれた。あ、いつの間にか洗い物が済んでる。天才。

「じゃあ、これまでの失敗を振り返ろうかぁ。宮原さんは生地を混ぜすぎ・混ぜ方下手すぎ・バター練らなすぎ・冷やさなすぎ・温度デタラメすぎだねぇ」

「そんな畳み掛けるように」

「あと焦げたのは追い焼きのしすぎだろうねぇ。焼き色は案外冷める過程でも変わるから、変に焼き直さず少し待とうねぇ」

 ほうほう、と頷いて頭の中のノートに書き込む。ただ、私の脳内にあるペンは熱摩擦で消える可能性があるので、持続力の保証はなかった。

「本当にありがとうございました。私が先に作ってた、食べ物と呼べないクッキーは後で片しますね」

「食べ物と呼べない時点で、それはクッキーじゃないけどねぇ」

 乗り掛かった船だからと、新谷さんは小袋に詰める作業を手伝ってくれることになった。親切オブ親切だ。二人でお喋りしながら内職するのは楽しい。

 ふと手元を見ると、なんだか新谷さんの袋の方が綺麗に見えた。きっとたまたまだ。それよりお喋りが楽しい。

「新谷さんはお料理をされる方だったのですね」

「今は仕事でちょっと関わるからねぇ」

「厨房にお勤めでしたか」

「まあ、そういう設定だねぇ」

「新谷さんは男性なのにお料理が上手なんですね」

「それは“女性なのに料理が下手なんですね”に匹敵する失礼さだねぇ」

「なるほど勉強になります」

「うんうん。宮原さんが学習してくれないと、目が離せないからねぇ。頼んだよぉ」

 新谷さんのお腹がぐぅと鳴った。そういえば帰ってきたとこだと言ってたな。よかったら食べますかとクッキーもどきを指してみたけど、遠慮なく断られてしまった。気持ちはわかる。

 でも、私としても感謝の意を示したいものだ。あとちょっとだけ見直されたい。宮原さんもやれば出来るんだねぇって言われたいと思う。出来るかな。

「あの、新谷さん。たくさん挑戦して、クッキーを持ってきて、卵と小麦粉お返しして、たぶん焦がすけど、お礼します」

「そっかぁ。材料の返却した上で、下手なりに練習してから、お礼のクッキーを焼いてくれるんだねぇ」

「だからそう言ってるじゃないですか」

「うんうん。宮原さんは一生懸命話すと、とっちらかるんだねぇ」

 小さなアパートの密なご近所付き合いは、驚きもあり楽しさもあり。新谷さんはやっぱり職業不詳だけど、親切なだけでなく、お料理もこなすノッポなお兄さん。不思議だらけな彼の情報がひとつ増えた。借りるなら能ある猫の手というのも、ちゃんと学んだ。新谷さんのお陰だ。

 今度はもっとゆっくり新谷さんのことを聞いてみよう。そしたら、他にも隠し持ってそうな特技つめを教えてもらうんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

能ある猫さん手を貸して 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ