　桃（もも）の甘い香（かお）りが風に乗り漂ってくる。その香りに誘（さそ）われるかのように着（き）飾（かざ）った少女達が桃（とう）果（か）堂（どう）の回（かい）廊（ろう）に集まっていた。桃果堂は桃（とう）仙（せん）の女（め）神（がみ）を祀（まつ）っており、その女神の力が宿るとされる桃の木を守るように朱（しゆ）塗（ぬ）りの回廊が造られている。

　普（ふ）段（だん）は静かな時を刻んでいるのだが今は華（はな）やかで香（かぐわ）しい空気に満ちていた。寅（いん）国（こく）では女（によ）人（にん）のみ十五になる年に桃果堂にて成人の儀（ぎ）式（しき）が行われるからだ。季（き）明（めい）鈴（りん）は十五歳、今まさに成人の儀式に参加していた。

　明鈴は小柄な体格で緩（ゆる）やかに波打つ髪（かみ）は腰（こし）まであるが、儀式のために今日は綺（き）麗（れい）に結（ゆ）い上げていた。牡（ぼ）丹（たん）色を基調とした晴れの衣装は白い肌（はだ）によく似合う。髪や瞳（ひとみ）は胡桃（くるみ）色で、これは卯（う）国（こく）の王族だった祖母の影（えい）響（きよう）を受けている。明鈴は平（へい）凡（ぼん）な見た目だと自分では思っているのだが、周りからすると感情を色（いろ）濃（こ）く映すつぶらな瞳、小動物的な動きも相まって、構いたくなる兎（うさぎ）のような愛らしさを持っていた。

「暇（ひま）ねぇ。どうせ桃仙の乙（おと）女（め）なんていないんだから、みんな一（いつ）斉（せい）に食べればいいのに」

「そうよね。庶（しよ）民（みん）の儀式が終わるのを何で待たなきゃいけないのかしら」

　隣（となり）の貴族の娘（むすめ）二人がつまらなそうに愚（ぐ）痴（ち）を垂れ流していた。

　この儀式は成人を祝うと同時に、五百年に一人現れると言われている『桃仙の乙女』を見つける役割も担っている。桃仙の乙女に選ばれし者が桃果堂に祀られている桃の木の実を食べると力が覚（かく）醒（せい）するらしい。だから一人ずつ吟（ぎん）味（み）するために神官の前で桃を一口食べるのだ。そりゃ時間もかかるだろう。でも、貴族は優先して儀式を行わせてもらっているのだから、少し待つくらい我（が）慢（まん）すればいいのにと心の中だけで言う。絡（から）まれたら怖いので口に出す勇気はないけれど。

　あと残るは小柄な町娘が一人だけ。神官達からもこれで儀式が終わりだと安（あん）堵（ど）するような空気が醸（かも）し出されていた。だが、彼女が桃をかじった途（と）端（たん）に強（きよう）烈（れつ）な光が一帯を照らしだす。そのまばゆさに目がくらんだ。

「桃仙の乙女が現れたぞ！」

　神官の声が響（ひび）いたと同時に、明鈴は雷（かみなり）に打たれたような衝（しよう）撃（げき）に襲（おそ）われた。

　頭の中に見たこともない風景や人物の映像が次々に浮かんでくる。いったいどういうことなのだろうか。明鈴の過ごしてきた中で行ったことも出会ったこともないはずなのに、えもいわれぬ懐（なつ）かしさを感じる。

　これは桃仙の乙女が現れたから起こったことなのだろうかと思い、隣にいる愚痴を言っていた二人を見た。しかし、桃仙の乙女を見つめて唖（あ）然（ぜん）としているだけで、明鈴のように戸（と）惑（まど）っている様子はない。

「あ、あのぉ、何か起こってますか？」

　思い切って声をかけるも、明鈴に近い方にいた娘が眉（み）間（けん）にしわを寄せた。

「見て分からないの？　桃仙の乙女が現れたって言ってるじゃない」

　何故（なぜ）か怒（おこ）られた。解（げ）せぬ。

　けれど、この反（はん）応（のう）のおかげで彼女達には自分のような映像の出現はないのだと分かった。なんで自分だけなのかと焦（あせ）りながら、必死で頭の中を整理しようと大きく息を吐（は）く。

　浮かんできた映像の中で一番多く出てくる人物がいた。髪や目の色は違（ちが）うし服装なんかも全然違う。それなのに漠（ばく）然（ぜん）と自分だという感覚があった。本当に不思議だけれど。

　映像の中で明鈴（仮）は日本という国でここよりも便利で快適な生活をしている。でも会社では鬼（おに）のように仕事を押しつけられ過労のあまり意識混（こん）濁（だく）、めまいを起こし階段を踏み外して……ここから続きがない。どうやらそこで人生を終えてしまったのだろう。

　え、なにこれ。普通に可哀（かわい）想（そう）なんですけど。

「これって私の前世？」

　ぽつりとつぶやきがこぼれた。自分という感覚があっても、今の明鈴の過ごしてきた記（き）憶（おく）とは違いすぎるのだ。荒（こう）唐（とう）無（む）稽（けい）とはいえ前世の記憶だと考えればしっくりくる。

　驚（おどろ）きすぎて手は震えるし、手（て）汗（あせ）がとまらなくなってきた。今日は屋（や）敷（しき）に帰ったら成人祝いのごちそうが待っていて、それを家族と食べて楽しく過ごすだけのはずが、なんで余計な珍（ちん）現象が起こってしまったのだ。なかったことにならないかなと願うも、頭の中からこの記憶が消える気配はない。むしろ時間が経（た）つにつれて鮮（せん）明（めい）になっていくような気がする。

　泣きそうな気分でまわりを見る。ひとり混乱する明鈴をよそに、桃果堂に集まった人々は先ほどと変わらず桃仙の乙女に釘（くぎ）付（づ）けだった。ふと明鈴は引っかかりを覚える。

　桃仙の乙女って、まさかあの『桃仙の乙女』だろうか？

　首を傾（かし）げながら考える。蘇（よみがえ）った記憶の中に『中（ちゆう）華（か）神（しん）獣（じゆう）絵（え）巻（まき）～桃仙の乙女は愛で世界を救う～』という乙女ゲームがあるのだ。仕事のつらさを忘れて心の潤（うるお）いを求めるため、このゲームをやりこんでいたから間違えようが無い。

　桃仙の乙女が出現するこの世界は明らかに乙女ゲームと酷（こく）似（じ）している。ということは、もしや乙女ゲームの世界に転生してしまったということなのか。にわかには信じられず頭を抱（かか）えた。

『中華神獣絵巻～桃仙の乙女は愛で世界を救う～』は十二支がモチーフになっており、それぞれの動物を祀る十二の国が舞台だ。そして各国の皇子ルートと隠（かく）し攻（こう）略（りやく）キャラルートが存在する中華風乙女ゲームである。

「あれ、ちょっと待って。うそ、ここ寅国じゃない？」

　ざあっと血の気が引いていく。

　まだ決まったわけではないし信じたくもないが、もしも転生していたとしたら、なんで寅国なんだろう。正直なところ別の国に転生したかった。卯国とか戌（じゆつ）国（こく）とか！

　何故なら寅国の攻略キャラである皇子の大（たい）牙（が）がどうしても好きになれなかったのだ。闇（やみ）抱（かか）えすぎだしすぐに処（しよ）刑（けい）しようとするし愛の形が監（かん）禁（きん）だしもう怖すぎる。むしろ大牙へのヒロインの気持ちも極限状態による生きるための思い込みじゃないだろうかと疑っていたくらいだ。他（ほか）のルートはそれぞれ魅（み）力（りよく）的な恋（こい）模様で大満足だっただけに、大牙ルートは消化不良で「こんなの恋じゃない！」とエンディングの瞬（しゆん）間（かん）に叫（さけ）んでしまった。

　しかし、すでに寅国に生を受けている。嫌（いや）だけれど生まれは変えられないから、そこは断腸の思いで我慢するとしよう。となれば、仮にゲームの世界に転生しているとして自分の立ち位置はどこだろうか。ヒロインは桃仙の乙女だからもちろん自分ではない。明鈴自身は平々凡々で特に目立った特（とく）徴（ちよう）はないし、あえて言えば兄の季佑（ゆう）順（じゆん）が優（ゆう）秀（しゆう）で世（よ）渡（わた）りもうまく皇子の側近になっている……って、あれ？

「兄（にい）様（さま）って隠しルートの攻略キャラと名前も肩（かた）書（が）きも同じ。ということは私って……！」

　明鈴は手汗だけでなくもう全身から冷や汗があふれ出てくるのがわかった。自分の立たされているポジションに思い至ったからだ。

　太（たい）師（し）の家（いえ）柄（がら）よりは劣（おと）るがそこそこ位の高い家に生まれており、父は尚（しよう）書（しよ）省（しよう）に属する六（りく）部（ぶ）の長官である工（こう）部（ぶ）尚書だ。また兄は優秀さが認められて皇子の学友に抜（ばつ）擢（てき）された。そのまま側近としてつかえているが肩書きとしては殿（でん）中（ちゆう）省（しよう）の次官であり、乙女ゲームの設定と同じだ。明鈴の設定も同じだとすれば、ゆくゆく正（せい）妃（ひ）の侍（じ）女（じよ）に抜擢されるはずである。

「確か、この正妃様が問題なのよ」

　正妃はいわゆる悪役ポジションでヒロインをいじめる。それがもとで皇子の逆（げき）鱗（りん）に触（ふ）れて処刑されてしまうのだが、侍女だった明鈴も連座して処刑されるのだ。そう処刑されてしまうのだ、なんて酷（ひど）い運命！

　前世もろくなもんじゃなかったけれど、もしここが乙女ゲームの世界ならば転生してもろくなもんじゃないという現実に呆（ぼう）然（ぜん）とする。ヒロインでも悪役の正妃でもなくモブの立ち位置なんだから、モブならモブらしく平凡なモブライフを送らせてくれ。

　いや、まだ受け入れるな。諦（あきら）めたら終わりだ。ここが処刑エンドを迎（むか）える乙女ゲームの世界だなんて簡単に認めてたまるか、と叫びたかった。

「いや、何あれ！」

　けれど、叫び声をあげたのは明鈴ではなかった。桃果堂に集まった少女達がある一点を指し示しながら騒（さわ）ぎ始めたのだ。

「何か黒い動物がいるわ！」

「あの大きさ、耳と長い尻尾（しつぽ）もあるし猫（ねこ）じゃない？」

「嘘（うそ）。なんて不（ふ）吉（きつ）なの！」

　神官達が桃仙の乙（おと）女（め）を守るように囲み、少女達も怯（おび）えながら神官達の方へ集まっていく。

『猫』という言葉に明鈴は目を見開いた。猫、それはもふもふとした愛（いと）しい生き物。撫（な）でるも良し、引っかかれたら感謝を捧（ささ）げ、たまに訪（おとず）れる構って行動に癒（いや）しをもらう至高の存在だ。だが、明鈴がこの世界で生きてきた中で猫と出会ったことはない。

　実は嫌（きら）われているせいでほとんど存在していないのだ。猫は十二支の仲間に入れなかった上に鼠（ねずみ）を恨（うら）んで攻撃したので悪い動物だとされ、見つかると排（はい）除（じよ）されてきた歴史を持つ。だから猫が飼われることはないし、野（の）良（ら）も見たことはなかった。

　今までの明鈴にとって猫はただの概（がい）念（ねん）だった。けれど記憶が蘇った今は違う。記憶の中で愛らしさをふりまく猫達が、これでもかと誘（ゆう）惑（わく）してくるのだ。

「ねこ……本当に？」

　吸い寄せられるように人（ひと）垣（がき）をかき分けて前に進む。

　どんな猫だろうか。でも色が黒いようだから心配だ。黒は『黒（こく）獣（じゆう）』と呼ばれる凶（きよう）暴（ぼう）な存在を彷（ほう）彿（ふつ）させるから。猫であるうえに黒いなど最高に忌（い）み嫌われる存在といえるので、今騒いでいる人達に酷いことをされなければ良（い）いけれど。

　明鈴がやっと人垣の間から黒っぽい塊（かたまり）を視界に入れたときだった。

「やだ、じっとこっち見てる！」

　猫らしき動物に近い位置にいた少女が、恐（きよう）怖（ふ）のあまり石を投げた。すると、まわりの少女達も釣（つ）られるように次々と石を投げ始めてしまう。

　なんてことをするのだ！　至高の存在だぞ、罰（ばち）当（あ）たりめ！

　そもそも己（おのれ）よりも小さな存在を傷つけるなど、人として言語道断な所業である。明鈴は石を投げた子達を睨（にら）み付けた。だが逆に「何か文句でも？」とばかりに睨み返されてすごすごと目をそらす。小心者な自分が情けない。

　結局、猫らしき動物は桃果堂の奥に広がる竹林へと走り去っていった。

　あの子は大（だい）丈（じよう）夫（ぶ）だろうかと心配になる。この世界で猫が嫌われていようが、前世では大の猫好きだった。家には三匹（びき）の猫がいたし、毎日もふもふしていたし、猫吸いしていた。感（かん）触（しよく）を思い出した途（と）端（たん）、禁断症（しよう）状（じよう）に襲（おそ）われる。

「もふもふしたい、すーはーしたい」

　明鈴の口から欲（よく）望（ぼう）が駄（だ）々（だ）漏（も）れる。

　でも、欲望を満たすよりもあの子の安否を確（かく）認（にん）する方が重要だ。石を投げられていたのだし怪（け）我（が）をしているかもしれない。明鈴は騒ぐ集団を尻（しり）目（め）に、竹林へ捜（さが）しに行くのだった。

　中（ちゆう）腰（ごし）で目線を低くしあの子を捜す。

「猫ちゃーん、出ておいで。怖（こわ）くないよ」

　猫らしき動物と呼びかけるのもおかしいので、もう猫と呼ぶことにした。

　桃果堂での騒ぎ声が小さく聞こえるくらい進んでくると、大きな石の陰（かげ）にうずくまっている黒い毛玉を見つけた。明鈴の姿を見つけるとうなり声を出し、全身の毛を逆立てて威（い）嚇（かく）してくる。

「怖い思いをさせてごめんね。もう大丈夫だから。ほら、おいで」

　膝（ひざ）を地面につき低い姿勢になる。怖がらせないために目線を同じ高さにしたのだ。

　すると毛は逆立っているがうなり声は消えた。もう少しだ。

　猫は先ほどまで走っていたとはいえ、この場所でしばらくじっとしていたはずなのに呼吸が荒（あら）い気がする。もしかしたら脱（だつ）水（すい）症状かもしれない。だけどあいにく水はないし、明鈴が持っているものと言ったら成人の儀（ぎ）式（しき）でかじった桃だけ。そういえば……と記（き）憶（おく）を掘（ほ）り起こす。桃はほぼ水分なので、果肉だけなら猫に食べさせても大丈夫だったはずだ。

「ね、喉（のど）渇（かわ）いてない？」

　猫がかじりやすいように桃の皮をむく。果（か）汁（じゆう）で手がベトベトになるが、気にせずにそのままゆっくりと猫に向けて差し出す。

「この桃、美味（おい）しかったから食べてみてよ」

　猫の逆立っていた毛がふっと落ち着いた。威嚇をといてくれたのだ。でもまだ動かない。辛（しん）抱（ぼう）強く明鈴は待つ。片手を前に差し出しているので体重を支えるのはもう片方の腕（うで）一本、あまり体力がないのでかなりきつい。

　腹筋や腕の筋肉が震（ふる）え出してきた頃（ころ）、やっと猫が近寄ってきてくれた。ゆっくりと、でも確実に。そして恐（おそ）る恐るといった様子で差し出した桃をかじった。

「はぅわ……」

　明鈴から一瞬言語が消えさり、なんとも形容しがたい擬（ぎ）音（おん）がこぼれる。

　桃の果汁をなめ取るように、猫が明鈴の手をぺろっとなめた。その柔（やわ）らかくてちょっとざりっとする久しぶりの感触に頬（ほお）が自然と緩（ゆる）む。

　存在してくれてありがとうと感謝を捧げたい。誰（だれ）に捧げて良（い）いのか分からないから、とりあえずこの世界を創ったといわれる女（め）神（がみ）に捧げておけばいいだろうか。本当にありがとう、この子に出会わせてくれて。

　歓（かん）喜（き）に悶（もだ）えながら猫をじっくり観察してみると、前世の記憶にある猫より少し丸っこいし脚（あし）もがっしりしている。だがこの世界の猫を見たことがないので、ここでの猫はこういう姿なのかもしれないなと思う。

　全体的に灰色で、ところどころに黒い斑（まだら）がある模様だ。真っ黒ではないのだが、これでは確かに遠目だと全身真っ黒な動物と思われても仕方がない。この世界の人々にとっては恐ろしい姿だろう。だけど明鈴にとっては猫である時点ですべてが可愛（かわい）い。細身の綺（き）麗（れい）な猫は美人さんだなと思うし、不細工と形容されるような猫でも愛（あい）嬌（きよう）があってこれまた可愛いのだ。だからこの猫も黒っぽくて丸かろうが全力で愛（め）でるべき対象である。

　そんな風に猫を見ていると、後ろ脚に傷があるのを発見した。黒っぽい毛のせいで、血が滲（にじ）んでいるのがすぐに見つけられなかった。

「こっちへおいで」

　衣装が汚（よご）れるのも気にせず膝をずりずりと擦（す）るように前進し、猫との距（きよ）離（り）を少しだけつめる。すると、じいっと明鈴を見ていた猫もゆっくりとこちらに歩み寄ってきたのだ。嬉（うれ）しくて小（こ）躍（おど）りしたくなるけれど、下手に動くと怯えてしまうかもしれない。動くに動けないもどかしい時間。きっとハイハイをする赤ん坊（ぼう）を待ち構える親ってこんなじれったい気持ちなんだろう。

　そして、猫は明鈴の膝にポテッと前脚を置いた。

「うぅ……かわゅ」

　心を許してくれたのかと思うと感激で泣きそうだった。でも泣いている場合ではない。怪我の手当をしなければと涙（なみだ）を必死に飲み込む。

「手当してあげるね」

　明鈴がそっと猫を撫でると、返事をするかのように「なーぅ」と鳴いたのだった。胸のあたりから温かさが体中にほわっと広がる。

　懐（ふところ）から手（しゆ）巾（きん）を取り出すが、猫の脚に巻くには大きすぎた。前世を思い出した明鈴にとってはこの手巾がとても高価なものだと分かっているのだが、問答無用で簪（かんざし）の先（せん）端（たん）を突（つ）き刺（さ）し勢いよく切り裂（さ）く。猫（ねこ）の命より大切なものはないのだ。

　猫をそっと抱え上げて膝の上に招く。嫌（いや）がることもなくじっとしてくれている間に、手巾の切れ端（はし）で傷が隠（かく）れるように巻き、止血の意味合いも込めてきゅっと強めに縛（しば）った。

「さぁできたわ」

　大人しくされるがままの猫の背中を毛並みに沿って撫でる。明鈴が撫でるとほんの少しだが灰色と黒の斑模様が薄（うす）くなった。外を走り回っているから汚れもあるのだろう。竹林を駆（か）け回ったせいで落ちた竹の葉なども毛に引っ付いていたので、取り除きながら毛並みを味わう。耳の後ろや顎（あご）の下を優（やさ）しく掻（か）いてやると、気持ちよさそうに『ぐるる』と喉（のど）を鳴らし始めた。