第五章 追憶

第二十三話 エリシャ

「――――」


 まず音がした。それは名前だ。今はもう、思いだすことは出来ない。

 真っ白な世界だ。そこに風の音が混じる。鼓膜を震わせ、ごうごうと強い風が吹いている。次に緑の草原。足下を埋める青臭い匂いのする絨毯が一面に広がって、小高い丘を作っていた。一歩を踏み出す度に、気まぐれな草葉が裸足の足をくすぐる。

 丘の上には人影があった。白い肌に黒の。強い風が彼の服と髪をなぶって、吹き飛ばしてしまいそうだった。太陽の光を吸いこんだ一面の入道雲が、彼の背後にそびえ、彼の形を象っている。彼がこちらを振り返るとその唇がもう一度、その名を口にした。


「――――って、綺麗な名前だよな」


 どうしても、俺はその名を解する事が出来ない。俺が失ったもの。俺を表す形だったもの。俺のもので、彼が一番、好きだったもの。


「俺、お前の名前好きだよ」


 なんて残酷な言葉だろう。そこに一欠けらの温情だって含めてはくれないのに。そうだろう? 

 マーリンとは長い付き合いになる。あいつの悪癖についてはよく知っていた。奴はたまにこうやって弟子達に悪夢を見せる。悪夢という名の記憶を。見せつけて、思いださせ、そして焦燥を駆りたてるために。俺達が目的を見失い、逃げださないように。哀しみと後悔で、また突き動かされるようにだ。

 夢の中では、まだ彼がエリシャだった。彼が俺の名を呼ぶ。


「――――、本当に里を出ていくのか?」

「……あぁ」


そう応えると、彼は顔を伏せて考えこんでしまう。伏せられた彼の長い睫毛を、俺はじっと見つめていた。


「エリシャ、お前も知っているだろう? 先日、俺の家に火を付けられた。今回は軽いボヤ騒ぎで済んだが、次はそうとも限らない。里の連中にとって俺は厄介者でしかないんだ」

「……耳と尾がないからって、それがなんだって言うんだ!? お前が何をしたって言うんだよ!」


 彼は頭と背中の毛を逆立て、怒りをあらわにしている。当時の俺は、エリシャの優しさに甘えていたのだ。そうする事で、彼が俺と同じように里の奴らから白い目で見られる事も、爪弾きにされる事も分かっていながらだ。彼のその優しさに、深い意味があると思いこもうとした。

 そんなふうに俺が心の中でほくそ笑んでいる事など知らない彼は、神妙な顔をして話を聞いてくれている。


「俺は里を出て仕事を探す。何か、魔法使いが入用になるような仕事さえ見つかれば、俺みたいなダブルでも雇ってくれる所はあるだろう」


 ダブル。半端者。なりそこない。耳も鼻も効かない、牙を持たない犬。どれだけ里の者達にそんなふうに蔑まれようと、俺は気にしなかった。だが、エリシャと同じ美しいたてがみを持てなかった事だけは未練がある。人狼ワーウルフの特徴であるそのたてがみを持つ代わりに俺に与えられたのは、白蛇のようになよなよとした銀の毛束だけだ。

 隣に座る彼のふくふくとした毛並みの尾っぽが、俺の手の甲を掠める。無意識にその毛を撫でていると、気づいた彼がすいとそれを俺の手から取り上げてしまった。


「変な触り方はやめてくれ」


 くすぐったい、そう言って笑う彼の襟元を引っ掴んでやりたい。その後は見つめ合って、耳元で愛を囁いて、そのまま押し倒してしまえたらいいのに。俺が今どんな想像をしているか、全部ぶちまけてしまえればいいのに。お前を組み敷いた後、俺がどんな酷い事をお前にしたいと思っているか、想像もした事はないだろう。若く、純粋で、人の欲望の汚さなんて知る由もないお前には、俺がお前を見つめている理由なんて分かりようもなかった。


「いつ、出発するんだ?」

「明朝、朝早く。里の奴らにばれないうちに」

「……そしたらもう、戻ってこないのか?」

「そのつもりだ。里の者達も許しはしないだろう」


 少しの沈黙。この時、俺は考えていた。口にするかどうか。

 愚かな望みだ。人生で一番、愚かだった。


「……お前も一緒に、来るか?」


 俺はエリシャの優しさに甘えていた。俺に関わる事で、里から仲間はずれにされると分かっていた。俺が出ていってしまえば、彼が独りになる事も。分かっていたから、彼に話した。

 エリシャの瞳を見つめる。柔和な顔つきには不釣り合いに、瞳孔は小さく鋭い。狼の目。この世で最も美しいもの。

 彼はゆっくり、首を縦に振った。

 景色が揺れて、全てが水に沈んだインクのように滲んで消える。黒いインクは世界を蝕み、やがてそれが夜になった。虫の鳴き声がする。黒の濃淡が出来て、それが木立の影を形作った。闇の中に、星と月が浮かびあがってくる。

 暗い森の中。エリシャの鼻を頼りに道なき道を掻き分け、隠れて進んだ。里との境界線にある高い崖の間にできた割れ目には隠し通路があり、そこを通り抜けた頃にようやく、一息をついた。エリシャにとってはこんな獣道や岩場もなんて事はなかっただろうが、俺の足には随分と堪える道のりだった。息も上がっていないのに、こちらの体調を見て、休憩しようと彼が提案してきた。彼は疲れたふりをしてふーと息を吐き出すと、近くの岩に腰かける。


「街に着いたらどうするんだ?」


 俺は乱れた呼吸をなんとか落ち着かせた。


「まずは、安宿を探す。住み込みでやらせてくれる仕事が、見つかればいいが……。それが軌道に乗ったら、店を持つのもいいな」

「へぇ、いいじゃないか! 何の店にするんだ?」

「そこまでは、まだ何も。もっと魔法の勉強をして魔具を作ったり、……それともスープ屋とか?」

「スープ屋だって?」


 そう言うと、エリシャはおかしそうに笑った。お前との未来を思い描けたあの瞬間が、俺にとってどれほど幸福だった事か。

 あぁ、エリシャ。どうかこのまま、今この瞬間に時間が止まってくれればいいのに。

 ……お願いだ、もう、やめてくれ。


「見つけたぞ」


 頭上から声がして、俺とエリシャは頭上を振り仰ぐ。崖の上には里の奴らが立っていた。瞳孔鋭い狼の目が二十ばかり、こちらを、俺を睨んで見下ろしている。

 エリシャが勢いよく岩から立ち上がり、彼らに向かって吠えた。


「――――は里を出ていくんだ! あんたらに何も迷惑なんかかけてないだろ!? もう放っておいてくれ!」

「エリシャ、そいつが里の外に出て何をするって? そいつの出自がどこかばれてみろ。ノミみてぇに街中を這いまわるダブルを増やしたって、俺達里の商人達が言われるんだ! そしたら里の物が売れなくなる。石を投げられた奴だっているって話だ! ……そいつはうちで始末する。里の外には出さない」

「本気で言ってるのか……!?」


 集団の先頭にいた一人が、一歩を踏みだしてきた。灰色の毛並みを持った初老の男、里長だ。奴はエリシャを冷たい目で見下ろした。


「エリシャ、お前もそいつと関わるのはもうよせ。お前はそいつの汚らわしさに気づいていないのだ」

「たかが少しの血の違いだけじゃないか! 何をそんな――!」

「それだけじゃない」


 遮られた言葉に、エリシャがたじろぐ。眉根を寄せ、疑問の色がその顔に浮かんだ。


「そいつから離れろ。そいつは、」

「エリシャ」


 俺は強引に彼の腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。それ以上先の言葉を聞かれたら、彼が自分から離れていくような気がしてならなかった。

 何も聞くな。何も知らないまま、俺の傍にいてくれ。そんな幼稚な想いで、でもそれでも構わないから、少しでも長く彼を繋ぎ止めておきたかった。

 集団から背を向けると、俺は彼の手を引いて歩きだす。


「もういい、構うな。このまま俺と――」


 その時だ。


「――――!!」


 彼の最後の言葉が、俺には思いだせない。

 強く体を突き飛ばされて、俺はとっさに掴んでいた腕に力を籠めた。彼を手放したくなかった。

 でも、強い力で引き剥がされた。間近に起こった衝撃に耐えられなくて、気づいた時には地面に横たわっていた。振り返った先に、エリシャの姿はなかった。

 ただ、巨大な岩が、地面にめり込んでいた。

 それが里の者達の悪意の塊である事が、俺にはすぐに理解できた。俺を殺そうとして、でも、俺は生きてて、だから、その岩の下にいるのは。

 掴んでいた彼の腕だけが、そこから見えた。


「なんという事を……――!」

「お前のせいだ! お前が殺したのだ!」


 崖の上からウジ虫どもが罵声を投げてきたが、俺はそんな言葉、聞いちゃいなかった。


「……エリシャ? ……エリシャ、――エリシャ!!」


 岩の下から覗いている彼の腕を伝って、必死に土を掘り返す。でもどれだけ掘っても、彼の原型は出てこなかった。赤く染みた土だけが、いつまでも、いつまでも……。

 俺は涙を流しながら、天を仰いだ。エリシャを下敷きにした岩と月の間には、キャンキャンと喚いてうるさい老犬がいる。


「逃がさんぞ、大事な里の子を――!」


 俺はその男を睨んだ。

 こちらこそ。

 途端にそいつは動きを止めて、異変を察した集団が慌てふためきだす。だが、そんな事知ったこっちゃない。

 絶対、逃がさない。

 俺は持っていた荷物の中からナイフを取り出すと、ゆっくりと立ち上がった。

 この間の記憶は判然としない。ただ次にエリシャの下に戻ってきたのは、日が昇り始める頃だった。全身を返り血に染め、死人のような顔で戻ってくると、岩の傍に見知らぬ赤毛の女が座りこんでいた。


「誰だ、お前」


 それがマーリンだった。自暴自棄になっていた俺は、この女を殺してやろうと思って睨んだが、どうしてか俺の魔法はそれ以上の強い力でねじ伏せられて弾かれてしまった。きっと、どこかの魔法使いから奪った力の中に、そういったものがあったのだろう。


「エリシャに触るな!」


 マーリンがエリシャの腕に触ろうとするのを見て、俺は駆け出して彼の腕に覆い被さった。

 これは俺のだ! 誰にも触らせない! これ以上、誰にも傷つけさせない……!

 冷たくなった彼の手を抱いて泣いている俺を見下ろし、赤毛の魔女はにっこりと口角を上げた。


「彼を取り戻したい?」


 耳を疑った。こんな状態で、どうやってエリシャを救いだせばいいのか、俺には分からなかった。


「あなたの目、面白い力ね。私の弟子になるなら、不死の魔法について教えてあげるわよ」


 だから、俺はこの魔女の甘言に縋るしかなかった。どんな事でもする。どれだけ穢れても、悪に染まろうとも構わない。それでエリシャが取り戻せるのなら。

 何でもすると縋る俺を見下ろし、魔女は笑う。


「その代わり、あなたの一番大切なものを私に頂戴」


 俺に差しだせるものなんてない。一番大切なものは、もう失ってしまった。そう言うと、魔女は俺の心を覗いて、残っている中で一番大切なものを奪っていった。

 俺はその時、魔女に魂を売り渡したのだ。彼が一番、俺の中で愛してくれていたものを、奴に渡した。エリシャが呼んでくれた、俺という形は、もうない。

 顔を上げると、もうそこに赤毛の女はいなかった。代わりに、金髪の少女が冷めた目でこちらを見下ろしている。今回は随分と若い奴を選んだものだ。趣味が悪くて吐き気がする。


「あなたの悪趣味よりマシだわ」


 こんな事は無意味だ。こんな事をしなくたって、俺の目的は揺らいだりしない。お前の魔法を手にするのは、俺だ。

 マーリンが目を細める。


、もたもたしないで頂戴」


 そうして目が覚め、起きあがると俺はまた研究に没頭する。

 もうじき薬が完成する。まだ持続時間が短いが、細かい調整を加えれば目標達成まではそう遠くないはずだ。薬を使った後、ぜんまい鍵で部屋の置き時計を動かすと、棚に飾った彼の骨の手に肉が戻っていく。節くれだった、細く美しい手。その手に指を絡ませ、根元から指先までをなぞっていく。あぁ、この手だ。目を閉じて頬ずりし、俺はそっとその手に口付けた。

 でも、手だけじゃ足りない。


「エリシャ、必ず君を取り戻してみせる」


 マーリンの不死の魔法の謎を解き明かし、彼の魂を呼び戻す事さえ出来れば、きっと。そしたらお前の骨を全部掘り起こして、繋ぎ合わせさえすればいい。そしたら、きっと、もう一度お前を。……いいや。

 今度こそ、お前のすべてを、俺のものに。

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