第二十二話 あなたを見ている

 その日の彼は帰りが遅く、家に迎えに来た時にはローズは眠ってしまっていた。すぐに礼を言って娘を引き取ろうとする彼を引きとめ、水を一杯飲んでいくかとリビングへ誘う。なにせ相当急いで帰ってきたようで、髪の毛はぼさぼさ、スーツは着崩れ、もう冬も近いというのに額に汗を滲ませている姿を見れば、誰だってそう声をかけてやりたくもなるだろう。僕の提案は快く受け入れられ、彼を何の変哲もないリビングへと通した。


「ありがとう、おかげで一息つけたよ」


 出してやったコップの水を一気に飲み干すと、気の抜けた顔で彼が言った。僕は肩を竦める。


「そんな焦って帰ってこなくたって、ちゃんと面倒は見るよ? ローズを預かるようになって結構経つのに、まだ信用されてないんだなぁ」

「いやいや、イーサン達の事は信用してるよ! 最近は英語の勉強もやってくれてるみたいで、本当に感謝してるんだ。俺はただ、あまり遅くなったんじゃ君らの迷惑になるんじゃないかとさ」

「気にしすぎだよ。あの子が厄介だと思っていたら、初めからこんな提案はしてない」

「そうか、なら良かった……」


 今までずっと、頼りにできる大人が周りにいなかったのだろう。一人で小さな娘を育ててきた苦労を思い、純粋な彼への感嘆の想いが心を埋めた。

 彼の全てはローズで出来ている。ローズの事を話に出せば、すぐにでも笑みがその顔に浮かぶのだ。


「そういえば、この間ローズがさ」


 ほら、その顔だ。その名前を口にしただけで、彼の両目は煌々と光を灯してすぐさまこちらに向けられる。自分の見ていなかった娘の姿を知れるのが嬉しいのか、あるいは他者が娘に興味を持ってくれているのが嬉しいのか。そんな自分の事みたいに、嬉しそうに。そんな姿がおかしくて、堪らず笑ってしまった。


「なんだ?」

「いや、ローズの話をすると君が分かりやすく態度に出すものだから」

「そんなに顔に出てたか?」

「出てるよ、ばっちり」


 嘘だろ、やばいな、と言った彼が自分の顔をこねくり回し始める。百面相をしている彼の姿に、また目元が緩んだ。


「……意外だな、そんな顔もするのか」


 こちらを見ながら、驚いた表情で彼が言った。そんなに変な顔をしていただろうか?


「イーサンが女性にモテる理由が分かる気がするな」


 ふいにそう言われ、今度はこちらが驚かされた。じっとこちらを見つめている彼の顔が、疑問の色から、徐々に気まずげな表情に変わっていく。


「あ、いや……そういう気はないんだけどさ」


 そんな事を言いだすものだから、つい吹き出してしまった。


「大丈夫、僕にもその気はないよ」


 肩でも笑って、目頭の涙を拭う。今度はほっとしたような顔をしている彼を見て、ころころと表情が変わるのは親子でそっくりだな、と思った。


「でも悪い気はしなかった。ありがとう」


 素直にそんな言葉が出たのは自分でも意外だ。仲良くなる為や信用させる為の技として使うことはあっても、こんな気持ちで口にするのは珍しかった。

 ふいに、自然と、彼には言える。ただ笑って受け止めてくれる人だと知っている。その茶色い目の中に、彼の父親としての度量がある気がした。いや、期待している、の方が正しいかもしれない。

 ふいに、彼の視線が僕の背後へと向けられた。


「やぁ、こんばんは」


 彼の声で振り返ると、階段横にマーリンが立っていた。白いワンピースを着た魔女は、にこりと笑って挨拶を返している。マーリンは少しの間こちらを見ていたかと思うと、しかしそれ以上は何も言わず、廊下を突っ切って書斎へと向かっていった。


「本当に可愛らしい子だよなぁ。将来はべっぴんさんになるだろうね」

「……どうかな。君は新しいお嫁さんはもらわないの?」

「ローズがいるからな」

「あれ、それって何か関係ある?」


 彼は困ったように笑った。ちょこちょこふってみている話題だが、いつもこうやってはぐらかす。でも今日は少しばかり、意地悪をしてみようか。


「いい感じの人や、興味のある人はいないの?」

「そんな余裕ないなぁ。家と仕事の往復だから」

「たまには寄り道してくればいいじゃないか。少しくらい迎えが遅くなっても構わないよ?」

「もうそんな感覚も忘れちゃったよ。どんなふうに始めてたか、とかさ」

「よかったら、君に合いそうな女性を何人か紹介しよ……うぐぅっ!?」


 いきなりの事で、思わず変な声が出た。尻を押さえて足下を見ると、いつの間に起きてきたのか、両手を合わせて指を立てた変なポーズでローズがこちらを見上げている。


「……ローズ、レディがそういう事をするものじゃないよ」

「イーサンがパパにへんなこと言うからだもん!」


 頬をぱんぱんにして、ローズがぷりぷり怒っている。君は自分の父親の幸せをもうちょっと考えてやったらどうなんだ? そんな事はこの歳の子には難しいのだろうが。

 ウィルも不憫なものだな、と目を向けると、予想外に彼はどこか嬉しそうな顔をして笑っていた。腕組みをして、胸をそり返してみせる姿も親子そっくりだ。得意げな顔をして、彼は言う。


「な? 無理だろ」

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