第八話 わたしを無視しないで!

 イーサンはローズから逃げるように一人、自室に引っこんだ。一人掛けソファに腰かけ、読書の続きをしようと本を開く。ローズがまたキーキー声を上げるかもしれないと警戒していたが、どうやら当てが外れたらしく廊下は静かなものだった。やれやれ、ようやく大人しくなったか。

 一時間ほど経った頃、イーサンは目を休めようとソファから立ち上がって伸びをする。読みかけの本をデスクに置き、部屋を出た。

 廊下に出ると、深紅の廊下の一角が白くなっているのに気づいた。近付いて見てみると、そこに何か白い粉が撒かれている。それが筋になって廊下の左奥の扉に続いていた。そこはトイレだ。イーサンはノックをするが、中からは何の返事もなかった。しばらく待っても何の反応もないので、イーサンはゆっくりとノブを回す。鍵はかかっていなかった。

 中には、便座の蓋を閉じた状態でローズが座っていた。赤いワンピースを真っ白に汚し、上目遣いにイーサンを見上げている。どうだ、まいったか。そんな強気な眼差しの向こうに、ぶたれるのを怖がる幼い子どもの顔が潜んでいた。

 イーサンは無言でトイレの扉を閉めると、まっすぐリビングへと向かう。階段下の廊下やリビングも、ローズが通ったと思われる道が白く続いていて、壁の所々には小さな手形が付いていた。その道を辿ってキッチンに入ると、そこは滅茶苦茶になっていた。小麦粉がキッチンの壁と床一面に撒かれ、真っ白になっている。イーサンは呆れかえった。


「……暴君だな」


 イーサンは自分の影に命じて、壁と床を綺麗にしていった。影のイーサンは嫌そうにしょっちゅう服を叩く仕草をしていたが、十人に増やしてやればあっという間だった。さらに人数を増やしてリビングとその先の廊下も綺麗にする。最後に小麦粉の入っていた袋をゴミ箱に投げ入れると、イーサンは踵を返してリビングを出た。

 トイレから出てきたのか、階段下の廊下にローズが立っていた。イーサンは黙って子どもを見下ろすと、低い声で言った。


「なかなかいい度胸をしてるじゃないか」


 ローズは黙ったまま、イーサンを見上げている。


「君はいつもこうやって周りの大人を困らせてるのか? 誰かに自分の存在を認めてほしくて」


 ローズは黙っている。イーサンは一つ溜息をついた。


「先達として言わせてもらうけど、残念だがそのやり方はあまり効果的じゃあない」


 イーサンは膝をつくと、ローズの顔を覗きこんだ。ヘーゼルの瞳の中の太陽は煌々と輝いていたが、そこに怒りの色は浮かんでいない。


「ローズ、一つ僕と交渉をしないか」

「あなたはうそつきじゃない」

「嘘をつく事と約束を破ることは同じじゃないよ。魔法使いは約束を守るものだ。僕としても、毎度君を預かる度に家のどこかを荒らしまわられるのは避けたい」

「……」

「何が望みだ? 君ら親子を解放する以外の望みなら、できるだけ叶えよう」

「……じゃあ、わたしをほったらかしにしないで」


 ローズは強い調子でそう言って、イーサンは少しの間、ローズの事を見つめていた。


「分かった。約束しよう」


 そう言われると、ローズはふんと鼻を鳴らす。分かればいいのよ、と。イーサンは立ち上がり、リビングの扉を開けるとローズを中へと招き入れた。


 ローズはイーサンと並んでリビングの椅子に腰掛け、お絵描きの続きをした。でもすぐに飽きてしまって、ちらと隣を盗み見る。イーサンは何やら分厚い本を読んでいた。


「なに読んでるの?」

「魔法使いの本」


 イーサンは視線もくれずに言った。


「読んでみて」


 そうお願いすると、ちらとヘーゼルの瞳で見下ろしてきて、そしてまた本へと戻る。一拍後に、イーサンが本を朗読し始めた。ローズは口を半開きにする。


「なんて言ったの?」


 それはローズが聞いた事もない言葉だった。発音も独特で、所々どうやって発声しているかさえ分からない。


「どこの言葉?」

「魔法使いの言葉」


 イーサンは短く返すばかりで、ローズが知りたい事までは辿り着かない。もだもだした気持ちになり、ローズは彼へのお願いをくり返す。


「やくして?」

「……少女は狂ったうさぎのように飛び回り、宙に舞った埃渡りを蹴飛ばして、バンシーのように金切り声を上げ、意地汚くも皿にのったケーキを食い荒らし、でっぷりと太った子ブタのように醜い姿になり果てて、」

「うそ!」


 イーサンが胸を張って朗々と語りだすので、ローズはすぐさまそれを遮った。その言い草が、どうにもローズの事を言い表しているようだと気付いたからだ。さっきのキッチンでの事を、まだ根に持っているらしい。ローズがぷんすかと怒ってみせると、彼は本の影に隠れて笑った。

 そうして怒りがおさまった頃に、ホコリワタリってなに?と聞いてみる。


「家に住みつく悪い妖精だよ。部屋の隅に溜まった埃をそのままにしておくと、だんだんと寄り集まって大きくなって、埃渡りになる。そうして家主が寝静まる夜中に動き出し、寝ている人の足の指に噛みつく」

「やだ!」


 すぐさま叫んだローズの必死な様子に、イーサンはまたふっと笑みを零した。


「嫌なら部屋はいつも清潔にしておかないとね」


 片付けが嫌いなローズは、複雑そうに顔を歪めるのだった。


 夕方になると、ウィリアムがローズを迎えにきた。朝はローズの方が父親と離れるのを嫌がっていたのに、今はウィリアムの方が待ち焦がれていたように娘の体を抱きしめている。そしてイーサンは昼間の顔など嘘のように、人の好さそうな顔をして二人を見守っているのだった。


「助かったよ。ローズは良い子にしてたかな?」

「あぁ、とっても良い子だったよ。君の日々の躾の賜物だな」


 ウィリアムは得意げな様子で笑っていた。そのままイーサンが玄関で話しこんでいると、ちょうど帰宅してきたギルバートと玄関先で出くわした。彼はウィリアムの姿を見つけた途端、笑顔を浮かべ、やぁと気安い調子で声をかけてきた。


「おかえり、ギルバート」

「そっちも。ローズを迎えに?」

「あぁ、世話になったね」

「いやいや。……なんか機嫌が良さそうだね? 何か良い事でもあった?」

「え、そうかな?」


 その時、ローズは見た。楽しげに談笑する二人を、怖い顔で睨んでいるイーサンを。


「今日の子守は僕だろう?」

「えぇ? いや、うん、分かった分かった」


 そう言って、ギルバートはごゆっくりと笑うとそそくさと家の中へと消えていった。首を傾げるウィリアムに、イーサンはまたにっこりと笑顔を向ける。


「ローズは本当に父親想いの良い子だよね。仲が良いのには、何か秘訣があるのかな?」

「どうだろう? うちは母親がいないし、親戚とも疎遠でね。他にいないからってのもあるかもしれないな」

「親戚と疎遠?」

「恥ずかしながら、妻とは駆け落ちみたいな感じだったんだ。家柄の良いお嬢さんで、俺なんかじゃ結婚を許してもらえなくてね」

「へぇ、熱愛だね」


 イーサンは途端、やり手の男の顔をして笑った。ウィリアムはそれを賛辞と取ったようだった。


「でも結局見つかって、彼女は家に連れ戻されたよ。……何か良い匂いがしないか?」

「あぁ、ギルの焚いてる香かな?」


 ローズはイーサンの右手がポケットの中で動くのを見た。またあの樹脂が入った小瓶だろうか。ウィリアムは恍惚とした表情で続ける。


「その後ローズを身ごもってるのが分かって、彼女は家を追い出されて、そして僕も両親から勘当された。でもあの時の僕は、幸せの絶頂だったんだ」

「素敵な人だった?」


 その質問に、ウィリアムはうっとりと瞳を潤ませる。目の前に意中の相手がいるように、愛おしげに虚空を見つめていた。


「……花が咲くように笑う人なんだ。茶の髪が太陽に透けて、彼女の緑の瞳を見つめていると、深い森に入りこんでしまったみたいに出口が分からなくなる……」


 喋っている間にも、ウィリアムはどんどんと夢見がちな表情になっていく。


「彼女を愛してる?」

「……愛してる」

「今でも会いたい?」

「……」


 終いにはぼんやりとして、イーサンの声さえも聞こえていないようだった。イーサンはポケットから何かを取り出すと、ウィリアムの頭の横に腕をスライドさせ、カチリとボタンを押した。ウィリアムの頭から光る何かが出て、イーサンの手の中へと吸いこまれていく。その音に、ウィリアムははっと我に返った。イーサンの右手が素早くポケットへと突っこまれる。


「悪い、何か言ったか?」

「いいや? 引き留めて悪かった。君も疲れてるのにね」

「いやいや、明日もよろしく頼むよ」

「あぁ、喜んで」


 イーサンはローズの方へと目を向けた。


「また明日ね、ローズ」


 親しげに手を振る彼のうっすら開いたヘーゼルの瞳が、怪しく光っている。ローズは眉間に皺を寄せ、バイバイと手を振り返した。

 自宅での夕食時、ウィリアムは豚ロースを食べる手を止め、ローズに質問した。


「今日はイーサンと何をしてたんだい? 何か習った?」


 魔法の言葉、と言おうとするが口が開かない。仕方なく、英語よ、とローズは答える。


「へえ、そうか。英語のどんな文を?」


 埃渡りの事を話そうとするが、しかしまた口が開かない。なので仕方なく、つづりをならったわ、と答えた。


「それは偉いね。また頑張りなさい」


 ローズはぶすっとした顔で、ウィリアムに頭を撫でられていた。

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