第九話 魔法使いの先生

「あなたのせいで、わたしまでどんどんうそつきになっていくわ!」

「君が余計な事をウィルに話そうとするからだよ」

「まわりの大人たちにはいつもショージキ者でスナオな子って言われてたのに!」

「君の普段の素行を見るに、それは必ずしも褒め言葉として言われてないんじゃないか?」


 イーサンは悪びれもせずそう言うと、リビングの椅子で読んでいた本をぱたりと閉じ、ローズの事を見下ろす。


「ウィルに聞いたが、君は問題児で幼稚園に通えなかったそうじゃないか。目立ちたがりで、他の子ども達にちょっかいをかけて泣かせた事もあるって?」

「……それは、ちょっと、やりすぎた事もあるかもしれないけど……」


 ローズは視線を宙へと彷徨わせる。そうしてくるりと目玉を一周させて、またイーサンを見た。


「あなたはどうだったの? まわりの子となかよくできてた?」

「さぁ? 僕はそういった所に行ったことがないから。学校も行ってない」

「本当? じゃあ学校に行ってないなら、そのあいだ、なにをしてたの?」

「もちろん、勉強してたよ」


 ローズはがっかりした。もしかして学校にも行かなければ、勉強はしなくていいかもしれないと思っていたのだ。


「なーんだ、あそんでたわけじゃないのね……」

「そんな事、僕の先生は許しちゃくれなかったよ」

「先生がいたの?」

「いるよ。僕が悪さをすると酷く痛めつけるんだ。でも躾というよりむしろ、僕を支配するためにやっていたんだろうね」


 イーサンはぐいと身を乗り出すと、低い声で囁いた。


「でもね、僕は先生に屈服したりなんかしないよ。どれだけ痛めつけられても、その場では良い子になったふりをした。口答えせず、言う事を聞いて、いつかあの人の裏をかいてやるんだ。僕から奪ったものを取り返して、そうして今度は、僕があの人のものを奪ってやる」


 イーサンの目は危険な色を孕んでいた。緑と茶の入り混じった彼の瞳の中の太陽が、じりじりと熱を放って彼の心を燃やしている。ローズはごくりと唾を飲みこみ、慎重に言葉を続けた。


「……なにをうばわれたの?」

「僕の一番大切だったもの」

「一番たいせつだったものって?」


 イーサンはそれには答えなかった。彼は姿勢を元へと戻すと、リビングをぐるりと見渡す。


「この家に住んでるのだって先生のせいなんだ。本当はこんな狭苦しい生活からは早く抜け出してしまいたい」

「せまくるしいって、わたしの家よりずっと広いわ」

「僕の気持ち的に、狭いし苦しいんだ。十分に独り立ちできる年齢なのに、大の大人四人で一つの家に住むなんて息が詰まる」

「ギルやエリシャは家族でしょ?」

「家族だって?」


 イーサンは鼻で笑った。そのまま頭を垂れてくつくつと数回肩を震わせると、前髪を掻き上げ、もう一度ローズを見やる。


「僕らの間にそんな絆なんか存在しない。誰が傷付いたって知らんぷりだし、お互いの事には干渉しあわない」

「じゃあ、なんでいっしょに住んでるの?」

「その方が都合がいいからさ。ギルも、エリシャも、先生に大切なものを握られていたり返して貰えないから、一緒にいるだけだ」


 イーサンは笑っていたが、ローズにはイーサンが怒っているように感じられた。怒っている大人は苦手だ。ローズが弱い事を知っている。知っているからこそ、安心して相手は怒りをぶつけてくる。ローズは息を殺し、嵐が過ぎ去るのを黙って待つしかない。

 イーサンが静かに深呼吸すると、それで彼の怒りの炎は鎮火していった。ローズはほっとして、また質問を投げる。


「あなた達の先生は、あなた達になにをさせてるの?」


 イーサンは、今度はいつもの余裕のある笑みを浮かべた。席を立ち、リビングを出ていく。体の半分だけを扉の向こうにやりながら、ローズの方を振り返った。


「君との約束を果たそうか。おいで、面白いものを見せてあげよう」


 イーサンはリビングを出ると、右手の階段を上がっていった。階段は数段上るとすぐにまた右に折れ、くるりと方向転換して上へと続いている。上った先には部屋があって、左手と突きあたりに二つ扉が並んでいた。イーサンはまっすぐ、突きあたりの部屋へと向かっていく。

 扉を開いた先にあったのは、光の洪水だった。色とりどりの光の玉がローズの瞳の中で閃いて、チカチカと飛沫が弾ける。二、三度と瞬きして、それが部屋中を埋め尽くすランプの光なのだとようやく理解した。

 床に、机上に、棚の中から天井に至るまで、大小も形状も様々なランプが置かれ吊るされ、ゆらゆらと揺れる光の球を内に抱えこんでいる。ある物は白熱電球のように眩しく、ある物は残り火のように微かな光を放って……。ローズは手近なランプの一つに手を触れてみるが、熱くはなく、振動しているのか微かにブーンと音がした。ランプに鼻を引っ詰め、中を凝視してみる。厚いガラスの向こうは見通しづらかったが、光る球がくるりくるりと動く様が見えた。


「僕らはこれを集めてる」

「もしかして、パパの頭からとったのもこれ?」

「そうだよ、人の想い。これが想い玉だ」

「パパのもここにある?」

「君のパパのはこれだ」


 イーサンは胸ポケットから小さな小瓶を取り出し、空のランプの中へと瓶の中身を移した。淡いピンクの燐光を放った想い玉がとろりと中に流れていき、くるりと回って丸い球になる。


「それをどうするの?」

「先生に渡す。先生の望んだものを差し出すのが、僕ら弟子に課された課題だ」

「先生はどんな心をほしがってるの?」

「それを教えてくれないんだよねぇ……」


 イーサンは指先でコンとランプを叩いた。


「だから色んな人から色んな想いを集めてるんだ。先生のお眼鏡に叶うだろうものをね。出来るだけ色んな感情を手に入れたい」


 イーサンはローズを見下ろす。色とりどりのランプの光が男の顔を照らしだし、その魅惑的な顔の輪郭を浮かび上がらせた。それは完璧な形の笑顔だった。


「君と、君のパパの協力に感謝するよ」


 ローズは口をきゅっと引き結ぶ。誰も了承などしていない。いやしたが、騙されていると分かっていたら誰が協力などしたものか。そんな事を口にしたところで、イーサンの笑顔は一ミリたりとも崩れはしないのだと、もう賢いローズには分かっていた。


「コーヒーを入れようか。また想い玉を入れた特別な奴にしてあげよう。そっちに並んでるのならもういらないから、好きなのを選んでいいよ。ただし慎重に選んで。甘い想いばかりじゃないからね」


 言われ、ローズはたっぷり三十分悩んで、一つのランプを手に取った。ある日イーサンが酒の席で一緒になった男のもので、男は店の隅で一人で飲んでいたという。男はその日出会った美女との甘いアバンチュールを楽しんだ後だったというイーサンの話を聞き、ローズはこれに決めたのだった。実際の味がどうだったかについては、想像にお任せする。


 イーサンはリビングに戻ると、また読みかけの本を読み始めた。彼は家にいて暇な時間ができると、常に何かしらの本を読んでいる。ローズはイーサンに、魔法使いの言葉を教えてほしいと頼みこんだ。


「このあいだの、発音がとてもキレイだったわ。あの言葉をわたしも話せるようになってみたいの」

「覚えてどうするんだ? 誰も君の言ってる言葉は分からないだろう」

「イーサン達ならつうじるじゃない」


 その提案に、イーサンはうーんと眉を寄せる。断られる雰囲気に、ローズはすかさず男の膝に絡みついた。


「イーサン達以外には話せないんだし、いいでしょう? わたし、いっしょうけんめい勉強するわ……おねがーい」


 目をキラキラさせながら懇願する。イーサンは深く息を吐き出した後、やれやれと言って頷いた。


「いいよ。じゃあ今度、教材用に本を用意するから、簡単なものからやってみようか」

「やったー! ありがとう、イーサン!」


 ローズはにっこり笑って、ぎゅっとイーサンの足を抱きしめる。誰も知らない秘密の言葉、呪文に暗号。そういうものがローズは大好きなのだ。


「キョーカショがくるまでにも勉強しておきたいわ! イーサン、また本を読みきかせてくれる?」

「僕の読む本は君には難しすぎて理解できないよ」

「いいの! 音だけきいてるから!」


 イーサンはやれやれ、と頭を振る。でも彼の表情は、決して嫌々というわけではなさそうだった。

 イーサンの音読は素晴らしかった。どこもつっかえたりしないし、うるさすぎず、はきはきとして、静かな部屋で低い声が風のように耳を撫でていく。それが心地良くて、気づけばローズはだんだんと船を漕ぎ始めていた。半分夢の中に浸りながらうとうしていたその時だ。バーン!と勢いよく玄関扉の開く音がしたのは。

 思わずローズは跳ね起きた。


「帰ったわよ」


 扉越しに、高い声でそう聞こえた。寝ぼけ眼の視界が、まだぐわんぐわんと揺れている。イーサンも朗読をやめ、本から顔を上げた。ずんずんと廊下を進んでくる足音が聞こえ、もう一度扉の開く音。

 しかしその足音はリビングには入ってこず、階段を上がっていってしまった。


「……先生?」


 イーサンが眉をしかめながら席を立つ。リビングの扉から階段の方を覗きこみ、そして上階へと上がっていく。ようやくローズの頭もしゃっきりして、彼の後を追いかけていった。


「先生なのか?」


 呼びかけるイーサンの声に、返事はない。階段を上がりきると、彼は左手にある扉をノックした。


「入るよ?」


 少し待って、扉を開く。

 部屋はまだ引っ越しの準備が済んでいないようで、ダンボール箱や服なんかがそこらにほっぽり出されていた。部屋には灯り取りの窓が一つだけあって、その前に引き出しのたくさん付いたアンティークのデスクが置かれている。その机を撫でていた部屋の主が、訪問者達の方へと振り返った。

 波を描いたような金髪がふわりと揺れる。ローズよりは年上だが、年端もいかない少女だった。


「マーリン」


 イーサンの呼びかけに、青い瞳の少女はにっこりと笑う。対してイーサンの顔は、引き攣っていた。


「その姿は……」

「なかなかいいでしょう?」

「……若すぎやしないか?」


 ローズはぱちくりとして、その少女を見つめた。なんて綺麗な子だろう。ひざ丈の水色ワンピースを着た、ローズより三、四歳ほど歳上に見える少女。光の差しこんだ部屋はきらきらと塵が煌いていて、どこか大人びた顔で笑っている少女を照らしている。ティアラも何もないが、その佇まいはまるで本の中に出てくるお姫様のようだった。

 マーリンと呼ばれた少女はデスクをくるくると撫で回しながら、イーサンに鈴の鳴るような声で言う。


「お迎えは貴方だけ? イーサン」

「ギルとエリシャは外出中だ」

「師の出迎えくらい、弟子ならすべきじゃなぁい?」

「一週間、何の連絡もなしに帰ってこない方が悪い」

「荷物も出しっぱなし」

「勝手に触ったら怒るくせに。埃は溜めてないんだから、感謝してくれ」


最後に尾を引くように机を撫であげると、マーリンはローズの方へとまっすぐ向かってくる。自分よりいくらか背の高い少女を見上げ、ローズはきゅっとスカートを握った。マーリンは可愛く小首を傾げ、ローズの顔を覗きこんでくる。


「あら、良い目ね。貴方、魔女の素質があるわよ」


 ローズの瞳は母親譲りの緑色だ。綺麗な女の子に褒められ、ローズは照れ笑いを浮かべた。するとふいに少女のすべやかな指に絡めとられ、顎を持ち上げられる。マーリンの真っ青な瞳と目が合った。


「……こっちにすれば良かったかしら」

「マーリン、この子は魔女じゃない。うちで預かってるだけだ。客人だよ」

「あら、そう」


 イーサンが固い声で制止して、マーリンはローズの顎から手を放した。なんだか気恥ずかしくもあるが、可愛い子に褒められるのは悪い気分じゃない。顔を俯かせて喜んでいるローズを、イーサンが黙って見下ろしていた。


「イーサン、片付けを手伝って」

「……分かったよ」


 イーサンは渋々といった様子だった。そうして返事をしたかと思うと、彼はすっとローズの背中を押し、廊下の方へと連れていった。


「物を動かす。危ないから、君は下で遊んでて」


 ローズが何か言うのも待たず、扉の向こうに押し出される。隙間から部屋の中を覗くと、マーリンが自分のワンピースをたくし上げてデスクの上に脱ぎ捨てるのが見えた。陽の光の下にパンツ一枚の彼女の姿が露わになり、何かいけないものを見ている気分になる。と思っていたのも束の間、扉の隙間はイーサンの黒い姿で埋まって、何も見えなくなった。イーサンは黒々とした影を落とし、ローズを見下ろしている。


「先生にあまり気に入られるものじゃないよ。……特に、女の子ならね」


 彼はそう忠告すると、さっさと扉を閉めてしまった。ローズは少しだけむくれて、一人、階下へと降りていった。

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