第二章 魔法使いの家

第七話 こんな家、追い出されてやるわ!

「いいか、ローズ。イーサンの言う事を聞いて、良い子にしてるんだぞ?」

「パパ! パパ!! わたしをここにおいていかないで!」


 ローズは父親の足にすがりついた。そんな様子を扉の向こうから、人が好さそうで腹の黒そうな笑顔を浮かべたイーサンが黙って見守っている。

 こんな悪魔の住む家になんていられるもんですか! しかし無慈悲にも、ウィリアムはそんな娘の体を引き剥がしにかかった。


「ローズ、やめなさい! パパはこれから仕事なの! ワガママ言うんじゃない!」

「いやよ! パパといっしょにカイシャ行く!」

「ローズはこの家でイーサンと一緒にお留守番するんだ! 昨日も遊んでもらったろう? 何恥ずかしがってるんだ?」

「はずかしがってなんかいないわ!」


 ウィリアムは何を誤解しているのか、ローズが羞恥で顔を赤らめているとでも思っているのか。決死の覚悟でしがみついたローズの腕を、半笑いで解いていく。


「パパ! この人がわたしに何するかわかってるんでしょうね!?」

「何されるって言うんだ?」


 ローズは思いつく限りの残虐非道な事を言い連ねた。煮立った鍋に浮かんだ白い骨、カエルの足が入ったスープ、小さな子どもを拘束するためのトゲトゲの付いた椅子。しかし、どれもこれもウィリアムは一笑して終わらせた。


「夕方になったら迎えにくるから。それまでイーサンに色々教えてもらいなさい。イーサンはとっても賢い学者さんなんだぞ? なんでも知ってるさ」


 そう言って、ウィリアムは悪い魔法使いに娘を引き渡した。背中から回った腕に抱きかかえられ、細長く、しかし屈強な黒い腕は、夜の森に忍び寄る木の幹のようにローズを捕らえて離さなかった。


「パパアァァァァァァ!!!」


 ぎゃんぎゃんと泣きわめくローズを置いて、無慈悲に扉が閉められる。扉は閉まった途端に壁に吸いこまれて小さくなり、そして消えてしまった。

 ローズは深紅の廊下に下ろされると、すぐにぴたりと泣き止んだ。ずびずびと鼻水をすする。イーサンは黒い影のように背後に佇んで、ローズを見下ろしていた。


「君、やっぱりなかなか賢いね。すぐに泣き止んだのは賢明な判断だ」


 それだけ言うと、くるりと踵を返して廊下を進み、リビングの方へと行ってしまった。

 ローズは廊下に置いてけぼりにされたまま、しばらくの間べそをかいていた。がりがりと扉があった辺りを引っ掻いてみるが、外に出る手段はなさそうだ。そうしてひとしきり涙を出し切ると、深紅の廊下に座りこんで考えを巡らせた。

 この家から自力で抜け出す事が出来ないなら、こちらから追い出されてやればいいのだ。見てなさい……!

 ローズの緑の瞳がきらりと輝きを取り戻し、すっくと立ち上がる。小さな足をずんずん進めて、ローズはその家の奥へと踏み入っていった。


 イーサンはリビングで一人、本を読んでいた。小さな子を廊下に放置したまま、優雅に読書を楽しんでいたわけだ。なんてしようのない大人なんだろう! ローズは男を睨み上げる。しかし小さなローズは机の影に隠れて見えないのだろう。イーサンの視線は本を持った手元から離れない。

 ローズは鋏を手に、音もなく相手に忍び寄った。今日のイーサンは黒のカッターシャツを着ており、いつもに比べてラフな格好だ。イーサンの黒い崖のような背中を見つめ、そろりそろりと手を伸ばしていく。崖の稜線に沿って流れる黒髪に鋏を向けた、その時だった。


「僕ならばれないよう、もっと細心の注意をはらうけどね?」


 くるりと体を捻り、鋏の刃の中から黒髪がさらりと逃げてしまう。ジャキン、と空振りする音だけが鳴った。しまった、と恐る恐るローズが顔を上げると、イーサンのヘーゼルの瞳がきらりと光を放っている。


「僕に嫌われてこの家から追い出されてしまおうって魂胆かい? でも僕の髪を切りたいなら、背後から忍び寄るだけじゃ足りないよ」


 イーサンが壁を指さしたのでそちらを見ると、そこに映った影の男がひらひらと手を振っていた。


「……もう一人のわるい魔法使いも気をつけなくちゃいけないのね」

「なんなら、もっと増やそうか?」


 言う間に、机や観葉植物の影から、さらに新たなイーサンの影が出現してくる。その内の一人がローズの影に近づき、持っていた鋏を奪い取ってしまった。鋏の本体は宙をさまよい、本物のイーサンの手の中へとおさまる。


「無駄な抵抗はしない事だ。賢い君なら、分かるだろう?」


 ローズは顔を歪めた。イーサンは淡々とした調子で続ける。


「なに、僕らに協力してくれさえすれば危害は加えないし、君にかけたまじないだってちゃんと解いてあげるよ」

「……いつまで協力するの?」

「僕がもういいって言うまでだよ」


 ローズはまた、嫌そうに顔を歪めた。


「君の仕事は、ウィルをこの家まで連れてくる事だ」

「……もし協力しないって言ったら?」

「だったら君の口に付けたまじないは取ってあげられないな。僕にとっては好都合だ。君のパパがカピカピに干からびるまで、想い玉をむしり取ってしまおう」

「そんなのダメよ! パパにひどいことしないって言ったじゃない!?」

「ウィルがそれを暴力だと思わなければいいわけだ。色んな薬剤やまじないを試して、ウィルがみずから望んで自分の脳みそを手のひらに乗っけて、さぁどうぞって言わせればいいんだろう?」


 ローズは愕然とし、口を開けたまま固まってしまう。なんて悪党に捕まってしまったのだろう。イーサンはくすくす笑いをし、嫌なら僕との約束を守ってくれと言った。


「なに、約束を守ってくれれば一生じゃあないさ。君のパパの事を十分に理解できて、必要なだけの想い玉が採取できたら解放してあげるよ」


 ローズは頷くことが出来ないまま、渋い顔をするしかなかった。

 イーサンはローズにスケッチブックとペンを手渡すと、これで遊んでいるよう言った。魔法使いの持ち物なので何か不思議な事が起こるのではと少しばかりわくわくしていたのだが、昨夜食べたサーモンのムニエルを描いてみても何も起こらなかったところを見るに、ただの紙とペンのようだ。リビングの床に丸まりながら、自分の絵を見てむくれていると、深紅の廊下に通じる扉が開いてギルバートとエリシャが入ってきた。


「お、やってるやってる」


 どちらも小洒落たスーツを着込んでいる。外行きの格好をしている二人を見て、用事があるのかとイーサンは尋ねた。


「人と会ってくる。ランチは外で食べるよ」

「俺もだ。今日は帰らない」


 二人は各々自分のカップをキッチンから持ってくると、コーヒーポットからコーヒーを注いだ。イーサンは本のページを繰っていた手を止める。


「ローズの世話もあるし、今後は外出する予定が被らないようお互いの予定を調整しようか」


 ギルバートがわざとらしく溜息を漏らした。


「悲しいねぇ。なんでデートするのに君たち男共の予定を優先させなきゃならないのか」

「僕らの、じゃなくてローズの予定だ。彼女もれっきとしたレディだ。スケジュールも彼女に合わせるべきだろう?」


 分かった分かった、とギルバートが手を振った。自分だって廊下に置き去りにしていたくせに、とローズはイーサンを睨んだ。

 エリシャが自分のカップに口を付ける。


「あの、なかなか興味深かったぞ。他のもぜひ採取したい」


 ギルバートがこそこそとローズに近寄って、そっと耳打ちをした。


「気をつけろよ、ローズ。エリシャは気に入った相手は骨抜きにして、自分抜きじゃ生きられないようにしてしまってから、ぽいと捨てちまうような奴だからな」

「ギル、子どもに余計なことを吹きこむな」


 ギルバートは笑いながらローズの傍から離れていき、自分のカップへと口を付けた。ローズは骨を抜かれ、へろへろぺらぺらになった父親を想像して、顔を青くさせた。


「そういえば、先生は帰ってきた?」


 イーサンがふいに尋ねるが、この部屋にいる全員が首を傾げるだけだった。


「さぁ? 引っ越し初日に出ていったまま、まだ戻ってないと思うけど」

「数日空けるなんていつもの事だ。子どもじゃないんだ、気が済めば帰ってくる」


 それもそうだね、とイーサンも頷いて話が終わる。ローズだけがまだ首を傾げたままだった。もう一人、この家に住んでいる者がいるのだろうか?


「先生ってだぁれ?」


 三者の視線がローズに注がれる。しかし誰もその質問には答えず、ギルバートとエリシャは今日のランチはどこで食べる予定かを話し始め、イーサンは読書を再開した。

 ローズは眉を寄せる。


「ねーえ!」


 しかし誰もローズを見やしない。誰も彼も小さな子どもを面倒くさがって、見なかったこと、聞かなかったことにしようというのだ。それがどうにも、ローズには耐えられなかった。

 ローズは家中に響くような大声を上げる。


「つーまーんーなーいー!!」


 また、三人が振り返った。しかしそれは一瞬の事で、ギルバートとエリシャはコーヒーを飲み干すとわざとらしく、さて、と手を打った。


「さ、そろそろ出かけるか。あとは頼んだぞ、イーサン」

「なんだ、二人とも逃げるのか?」

「お前が預かると言い出したんだろう? 魔法使いの掟だ。約束した事は守れ」


 そしてさっさとリビングを出ていってしまう。イーサンは渋々といった様子で、ローズの方を振り返った。


「先生ってだーれー!?」


 キーキーと金切り声を上げて叫ぶローズを、イーサンは眉をしかめたまま見つめる。


「僕の子どもの頃はもっと大人しく、静かで、そして良い子だったよ」


 そんな嫌味に、ローズはつんとそっぽを向くのだった。

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