第2話

 夜の森は驚くほど静かだ。梟が喉を震わせる声、夜風が木の葉を揺らす音。そして私の足が土を踏み締める音しか聞こえない。

 魔法で作った灯りが浮遊し、私の行く道を照らしている。一際目立つ大木の側までやってきて、足を止めた。

 ここには先代から引き継いだ、精霊の世界へと繋がる扉がある。


 精霊界と人間界、それぞれの世界の境界を守ること。

 それが“魔女”の、最も重要な役割だ。

 




 師匠と出会ったのは、もう五十年以上も昔のことになる。

 元々私は孤児だった。赤ん坊の頃、木の下で泣いているところを、先代の魔女である師匠に拾われた。後で知ったことだが、彼女はもう随分と長い時間を生きていたらしい。


 私はただ彼女を母のように思い、共に森を駆け回って遊んだ。

 魔法も私にとっては身近なモノ。自分もいつか母のようになって、自由に魔法を操るのだと。

 そう信じていた私に、師匠はよく語っていた。


 魔女の役目とその運命について。


『魔女とは、人ならざる者“精霊”と契約し、力を得たひとのことよ。その代わりに魔女は、私たちの世界と精霊たちのいる別世界、その境界を守らなければならないの』


 別世界の住人が、間違ってこちらへ紛れ込まないように。反対に私たち人間が、別世界に迷い込まないように。

 そしてお互いがお互いに危害を加えないように。

 魔女は二つの世界とそこに生きる者たちを、守らなければいけないのだ。


 その為に“魔法”という力と、普通の人間よりも永い時を生きる権利を得たのだから。


『私はもうすぐ役目を終える。色々なことがあったわ。でもどんなに辛いことがあっても、魔女である以上、決して涙を流してはいけない。それは、とても苦しいことよ』

 今になって思えば、師匠は私を魔女にしたくなかったのだろう。静かな眼差しでそれを語る彼女の顔は、造り物のように美しく恐ろしかった。


 でも話の最後に、必ずこう言うのだ。私を魔女にしたくなかったくせに。


『でも後悔はしてないわ。だって――私はこの世界も、そこに住む人間も愛しているもの』

 勿論、貴女のこともね、シルヴィア。

 人形のような瞳にありったけの愛情を滲ませて、言ったのだ。


 その言葉で私は、魔女になることを決めてしまった。

 私も母と同じように、この世界もそこに住む人も大好きだったから。


 やがて師匠を必死で説き伏せて、私は精霊と契約を結んだ。

 師匠が亡くなったのは、それからすぐのこと。

 私は涙を流す代わりに、墓前に花を供えた。





 私はそっと大木に手を翳す。呪文を唱えると、私を中心に光が地面に複雑な模様を描いていく。それが最後に円となって繋がった時、私の目の前に“扉”が現れた。

 精霊達の世界と私達の世界。二つの世界を繋ぐ扉だ。


 いつも通りその扉の確認をする。何かが出入りした気配はないか、何処かに異常はないか。

 うん、今日も大丈夫。

 私は再度呪文を唱え、その扉を別の空間へと隠す。


 ふと、今日の出来事が頭に浮かぶ。

 彼は、笑顔が素敵な女性がタイプ、なのよね。

 私は慌てて首を横に振り、その記憶を打ち消した。


 早く帰ろう。

 私の帰りを待つ人は、もう誰もいないけれど。

 




「おかえりなさい」

 家には既に灯りが点っていた。

 驚いて中に入ると、ディランが澄ました顔で立っていたので余計に驚く。


「え、ディラン。もう今日は教室が終わったら帰っても良いわよって……」

 彼は毎日、自宅のある街からここまで通ってくれている。だから今日は街で別れたはずなのに。


師匠せんせいは放っておくとご飯も食べずに寝てしまいますから。明日も教室でしょう? きちんと食事をとって、ゆっくり休んで下さい。寝坊はナシですよ」

 少しだけ柔らかい口調でそう言うと、ディランは片手でテーブルの上を示す。


 そこには完璧にセッティングされた夕食が二人分。白い湯気が立ち上り、見ているだけで暖かさが伝わってくる。


 ダメだ。

 俯いて、軽く息を止めた。頬に触れて自分の表情を確かめる。


「――師匠せんせい?」

「ごめんなさい、私、今はダメなの」

 絞り出すようにして、その言葉だけをなんとか紡ぐ。


 寂しい時に優しくしてくれて、泣きたいくらい嬉しいのに。彼が私の為にしてくれたことを、純粋に喜びたいのに。

 それができない。

 酷い、私だ。

 もう感情はぐちゃぐちゃだ。


「何かあったなら、おっしゃって下さい」

 ディランが少しだけ私との距離を詰め、静かな声でそう言った。


「そうでないと、俺は貴女の気持ちが分からない」


 胸の中で抑えていた感情が爆ぜる。一気に喉を駆け上がり喉を痛めつけながら、それは言葉となって吐き出された。

「――そうよね。分からないわよね」

 私は顔を上げた。



「こんな、の気持ちなんて、誰にも」



 母同然の師匠が亡くなった時、胸が張り裂けるくらいに悲しかったけど。私は泣いてはいけなかった。

 “魔女”になったから。

 魔女の力を失えば、守れなくなる。師匠が愛した存在、私が愛する存在を。


 だから我慢して、感情を抑えて抑えて。そうしている間に、いつからか。


 私の顔に、笑顔の仮面が張り付いた。



「『微笑みの魔女』だなんて、なんて皮肉かしら。私はこの顔しかできないのに……! 私だってもっと、もっと、本当は……。心のまま笑ったり、怒ったり――泣いたりしたいのに」


 ディランの瞳が揺らぐ。困惑、そして、苦しそうにも見えた。

 ああ。そんな顔を、させてしまった。


 ねぇ、ディラン。もし、私が魔女じゃなかったら。


 貴方の理想の、笑顔が素敵な女性ひとになれてたかしら。



 パチンと泡が弾けたように、私は我に返る。


「ごめんなさい今日はもう帰って。食事もごめんなさい。私どうかしてるのよ。これ以上何か言う前に、お願い」

 目を伏せて、早口で捲し立てるように告げた。彼の返事も待たず、私はディランの横をすり抜け自室へと向かう。


 彼の顔を見る勇気はなかった。

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