第50話

 それから、約三ヶ月が経った。


 特別面白くはない授業、あまり馴染めていない教室、退屈なものは退屈なままだったけれど、夏休みが明けて以降、僕は学校に来ていた。

 口元に手を当てて、欠伸を噛み殺す。もうなんの事象の引き金にもならない涙が目尻に浮かんだ。

 窓の外から見える遠くの山は、頂点から少しずつ赤みを帯びていて、あと一週間もすれば絵にするのにちょうどよさそうだった。

 歴史の授業を受けながら、手はずっと斜め前の席のクラスメイトを元にしたクロッキーを仕上げるために動かしている。紙をなぞる音が目立たないよう、教科書の端を捲ったり戻したりしてカモフラージュしながら。

 横から微かに、くすくすと笑う声が聞こえる。犯人は分かりきっていた。反応をしても面白がられるだけなので、視線もやらずに、僕は授業が終わるまで手を動かし続けていた。


「また描いてたね、遥くんは不良だなあ」


 帰り支度をしていた僕の席に近づいてきた佐紀は、咎めるつもりなんて一つもないくせに、口先だけで僕の素行を憂いた。

 夏休み明けから、僕たちは教室でも言葉を交わすことが増えていた。


「僕が不良なら世界はとっくに終わってるよ」

「極端なんだから」


 佐紀は呆れるように言ってから、僕に訊ねた。


「そういえばアレ、明日だったよね?」


 分かってて聞いてるんじゃないかとも思ったが、僕は素直に頷いた。それを受けて、佐紀は満足そうに口角をゆるめる。


「楽しみにしてる」


 普段からそんなふうに笑ってみたらいいと、僕はいつも思っている。本人に言ってみても、「遥くんは普段からもっと思ったことを素直に喋ればいいと思うよ」と返ってくるだけだったが。

 呪いが綺麗さっぱりなくなっても、僕という人間はそうそう変わるものじゃないらしい。この教室において、自信を持って友人と言えるような人間は、相変わらず佐紀だけだった。

 それでも、先月から加入した美術部の人間とは、必要最低限のコミュニケーションを取れている、つもりだ。

 佐紀とは玄関口で別れ、僕は美術室に、彼女は校庭へ写真を撮りに行った。

 最近、佐紀はカメラを持ち歩いて写真を撮ることが趣味になったようだった。一応うちの学校には新聞部や写真部などが統合された部活があったが、彼女はそれに属さず、独学で写真を勉強しているらしい。

 写真部の連中が撮った写真を軽々と退けて賞をもらっている佐紀の姿は、正直なところ、愉快でしょうがなかった。彼女に悪意なんて一欠片もないというところが、余計に凄まじい。

 僕が彼女の写真のファンというのは、もちろん秘密にしてある。知られても、どうせろくなことにならない。


 部活の時間は、基本的に各々が出品する賞に向けての作業時間にあてていいことになっている。定期的に作品を仕上げれば特に何も強いられることはなく、自宅の方が集中できるという人間には備品の貸し出しも行なっていた。僕も下描きまでは家で終わらせて、仕上げの段階に入ってからは美術室に通いつめている。

 多少床なんかを汚しても気にしないでいいところとか、石膏や絵画以外に目立つものが何も置いていないところとか、雑念の入る余地が少ない感じがしていて、僕はこの空間がそれなりに好きだ。


「お疲れ様」


 突然声をかけられたので内心驚きながらも、僕は声の主へ視線を向けた。


「そろそろ美術室閉めようと思うんだけど、キリ悪い?」


 声をかけてきたのは美術部の部長だった。

 絵に意識を沈めていると、知らないうちに部活の時間は終わっていて、ときには部屋を閉めなければいけないような時間になっていたりする。大体他の部員は残ったりせず、部活の終了時刻とともにそそくさと帰っていくので、必然的に、鍵を持っている部長と僕の二人だけになることが多い。

 他の文化部の部室にはどこにも電気なんてついてなかった。


「……すみません、また遅くなっちゃって」


 鍵を職員室に返しに行っていた部長に、僕はそう謝る。

 描いていると周りが見えなくなるのは悪い癖だ。僕が部長の立場なら、週に一度はこういう下手をやらかす一年部員なんて迷惑極まりないと思うだろう。


「いいよいいよ。私も〆切ヤバいし、どっちみち残るつもりだったから」


 彼女は典型的ないい人だ。部長という役割云々の前に、元の性格として他人と衝突するような言動を決してしない。

 僕が素直に話しやすいと感じる、数少ない人間でもある。

 この時間まで残ったときは、部長と駅まで一緒に歩くことが多い。別に僕と彼女の間で特別な感情が芽生えているわけではなく、あえて別々に帰る理由もないのでそうしているだけだ。

 それに申し訳ないのだけれど、僕は彼女の苗字すら覚えていない。無関心なわけじゃないけれど、部活のときはほとんどの部員が彼女のことを『部長』としか呼ばないので、純粋に耳にする機会が少ないのだ。一度や二度聞いただけの名前を覚えられるほど、僕の脳は優秀じゃない。


「それにしても未鳴くん、すごい集中力だよね。そもそも上手い上に描くペースも速いし、エースって感じだ」

「そんな大それたものじゃないですよ」

「いや、未鳴くんみたいに描ける人、中々いないって。高校まで部活とかしてなかったんでしょ? 先生とかっていたの?」


 部長は純粋に興味があるのだろう。声は次第に大きく、興奮気味になっていた。

 母はそれなりに腕のある画家だった。けれど、僕が母に教わったことなんて一つもない。多分母にとって、僕に絵を教えることは、僕の人生に一種の縛りを課してしまう、という懸念があったのかもしれない。

 結局のところ、僕は絵を描いているし、これから先も描いていくのだろうけど。それが亡き母の願いによるものじゃないというのは、ある意味での優しさだと思う。


「特に先生って人はいませんでした」

「……尚更すごいよ」

「でも、」

「でも?」


 部長は言葉の続きを待つように復唱する。


「一緒に絵を描いてくれる人はいました」


 僕がそう答えると、部長は何度か納得したように深く頷いた。

 気づくと、僕たちはもう駅のすぐ側まで来ていた。彼女のかけている丸眼鏡が駅の照明を反射して白く光る。


「きっと素敵な人だったんだね」

「はい」


 と僕は答える。


「そういえば明日の展示、行くんでしょ」

「まあ、はい」

「私も行くよ。会ったら挨拶くらいしてね」

「挨拶って、毎日会ってるじゃないですか」

「全然違うよ。明日は部活じゃないし。ほら、私って未鳴くんの絵のファンだから、ファンサービスだと思って」


 部長は割と本気でこういうことを言う人だから怖い。


「……気が向いたら」


 絶対だからね、と言って部長は先に電車に乗り込んだ。

 それがあまりにも幼く見えて、少しだけ、声を出して笑ってしまった。


 前回とは違い、僕は佐紀との約束の五分前には駅に着いていた。唯一、計算外だったのは、佐紀がその更に五分前には駅に着いていた、ということだ。


「おはよ、今日は遅刻しなかったね」

「……まあね」


 そして僕たちが向かったのは、前に佐紀に誘われて足を運んだ、あの美術館だった。

 こうして佐紀とまたあの場所に向かうという状況を、数奇的とも言えなくはないが、この近辺にある美術館は限られているので、実はそこまで不思議なことじゃない。


「なんか緊張してるね」


 受付を済ませて中に入ろうというタイミングで、佐紀は僕の顔を覗き込んでそう言った。


「前とは違う意味だけど、そう」


 『展示会場』と書かれた案内に従って順路を進むと、まだ開場してから三十分ほどしか経っていないにも関わらず、場内にはそれなりの人数がいた。


「すごいね」


 珍しく、佐紀は本当に感心したような声を出した。


「僕みたいに、純粋な観者じゃない人も多いだろうけど、確かにすごい」


 ところどころで立ち止まる人間の隙間を縫って前に進んでいると、見覚えのある顔が見えた。


「あ、未鳴くん!」


 部長だった。彼女は一人で来ているらしく、二人で歩いている僕たちより幾分か身軽そうだった。


「……と、どなた?」


 僕の後ろにいる佐紀の姿を見つけた部長は、きょとんとした顔で訊ねる。そんなに僕が人をつれて歩いているのが変なのだろうか。


「相沢佐紀です。遥くんとは同じクラスです」


 明らかに訝しむような表情を浮かべながら、佐紀は淡々と言った。


「へえ、なるほどねえ」


 多分ろくでもないことを考えられている、ということだけはっきりと分かった。


「……絵、どうでした」

「あ、そうそう! 今、未鳴くんの絵観てきたばっかりなんだよ」


 僕が絵の話を振ると、部長は一転目を輝かせた。どうやら本当に、彼女は僕の絵をずいぶんと気に入ってくれているらしい。


「……やっぱすごいや、未鳴くんは。私、感動しちゃった。それに、さすが優秀賞だね。人だかりもできてたよ」


 少々大袈裟とも思うが、ここまで褒められると悪い気はしない。

 不意に、服の袖を引っ張られた。


「早く行こ」


 佐紀は今にもへそを曲げてしまいそうな顔をしていた。危機感を覚え、僕は軽く部長に会釈をして歩みを再開する。


「誰ですか、あれ」


 わざとらしく他人行儀な口調で佐紀が詰める。


「美術部の部長です」


 それ以上は言わなかった。特に付け足すこともなかったからだ。


「仲良さそうだね」

「たまに絵の話をするくらいだよ」


 まだ佐紀は何か追及したそうにしていたが、それよりも先に目的の場所に辿り着くことができた。

 助かった、と内心思いながらも、さっき部長も言っていた、絵を取り囲む人間の多さに驚く。あの中心に自分の絵があると想像しただけで、背中に汗が伝った。


「すみません」


 佐紀はそうなふうに断りを入れながら人混みを掻き分ける。僕の腕を掴んだ状態で進み続けるものだから、ついていくのが大変だった。


 『優秀賞』と書かれたプレートがまず目につく。そしてすぐに、額縁に入れて飾られている僕の絵が、視界の中心に飛び込んできた。

 朝焼けの海に腰まで浸かった、白いワンピースを着た後ろ姿。波は彼女を誘うようにゆったりと流れ、彼女は全てを水に溶かしてしまおうと一歩ずつ着実に海の中へと沈んでいく。

 あの日、僕が見た光景。

 あの夏の、全ての始まりを僕は描いた。

 何時間この絵と向き合ったのか分からない。一枚の絵を最後まで仕上げたのは初めてだった。

 とっくに見慣れているはずなのに、この場所に飾られて、沢山の人の目に晒されている目の前の絵は、僕の知っているものとは全く違って見えた。


「綺麗な人、だったんだね」


 隣で瞬きもせずに絵を眺めながら、佐紀が言った。もう彼女の手は、僕の腕から離れていた。


「うん」


 と僕は答える。


「……素敵な絵。写真じゃ絶対に、こんなふうにはできない」


 前に佐紀は、写真を撮ることと絵を描くことは似てると思うと言っていた。確かに、僕もそう思う。瞬間を切り抜くという意味で、写真と絵画の在り方は似ている。

 でも、自分の見た風景を、正確性だとかを全部とっぱらって、そのとき自分の目に見えていた色で伝えられるのは、やはり絵画の特権だと思う。


「なんで、この題名にしたの」


 佐紀は僕の方を少しだけ見て、訊ねた。

 疑問に思うのも無理はない。確かに、絵画のタイトルにしては長いし、後ろ向きだ。絵の解釈だって狭めてしまうだろう。

 それでも、この絵の題名はこれしかないと思った。


「この人は、とびきり往生際が悪いんだよ。自分がいなくなる日に世界も同時になくなればいいって、本気で思ってる人なんだ」


 世界が終わればいいと思う日が、不幸だとは限らないと、彼女は僕に教えてくれた。この瞬間がなくなるくらいなら全部雨にでも沈んでしまえばいいと思うくらい、大切な時間だった。

 だからこそ、彼女のずるさを隠したくなかった。そういうところが、僕の好きになった彼女らしさだった。

 それに、

 きっと彼方さんがこの題名を聞いたら、思いっきり笑ってくれるだろうから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

このまま世界が沈めばいいのに 日々曖昧 @hibi_aimai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ