第49話


 その日も、僕はいつもと変わらず面会に行っていた。

 彼方さんは、どうだろう。いつも通りだったような、少しくらい、ぎこちなさがあったような。彼女の顔をよく見れてない時点で、僕が通常運転でなかったことは確かなのだけれど。

 他愛もない話をした。あんなことがあった後だったから、余計に二人ともくだらない話をしたがった。

 もし、もう一回外出許可が出ることがあれば、あの海岸に行きたいと彼方さんは言った。彼方さんが入水自殺を図って、僕がそれを引き止めた、あの海岸だ。


「行けますよ」


 と僕は言った。慰めのつもりなんかじゃなく、彼方さんならもう一回と言わず、また何度も外に出られるんじゃないかと本気で思っていた。


「そうだね」


 彼方さんは僕の思い描くものを肯定するように頷いた。

 面会の終わる時間がきて、名残惜しさを隠しながら席を立った。また明日も会えるから、と自分に信じ込ませていた。


「じゃあ、またね」


 病室の扉の前に立つ僕に、彼方さんはそう言って手を振った。「また」と僕も手を振った。

 踵を返して、そのまま病室を後にしようとしていた。けれど、急に思い立ってもう一度、僕は彼方さんの方を振り返る。


「ずっと描いてる絵が、そろそろできそうなんです。一番初めに、彼方さんに見せますから」


 彼方さんは少し驚いた顔をして、それからくすぐったそうに笑った。


「うん、待ってる」


 それが、僕が最後に見た彼女の顔だった。


 千加さんは僕に彼方さんの死を伝えた後、葬儀に出るかどうかだけを訊ねて、それ以外は何も言わないでおいてくれた。

 不思議と、涙はすぐに収まった。雨が降る様子もないままだった。

 通夜にも、葬式にも行かなかった。

 彼方さんは遺言を残していたらしく、それに従って、千加さんが諸々の手続きをしたらしい。

 丸二日部屋に引きこもって、寝ているのか起きているのか分からない時間を過ごした。アルバイト先からなんの連絡もなかったのは、きっと千加さんの根回しのおかげだろう。

 そして彼方さんがいなくなってから三日目の朝、僕はあの海岸に向かう電車に乗っていた。傍らに、昨日の夜に投函されていたという大きな茶封筒を抱えて。差出人の欄には、『井辺彼方』の名前が書かれていた。


 電子音声の合図で、電車のドアが開く。プシュー、という音は、相変わらずため息のようだったけれど、電車とホームの間に横たわる暗闇は、前ほど引力を秘めているようには感じなかった。

 一段飛ばしで石階段を下り、海を目の前に僕は立ち尽くす。あの日のように、入水自殺をしようとする背中なんて見当たらない。ただそこには海しかない。

 雨宿りをした屋根付きのベンチに座って、封筒の中を確認する。そこには、おおよそ僕の予想通りのものが入っていた。

 絵本のかたちになった彼方さんの最後の作品、おそろくその最初の一冊だった。まだ製品版ではないのだろうが、厚い表紙のついたそれは、幼いときに手にしていた絵本と全く同じ手触りで、本当に彼方さんは絵本をつくってたんだな、と変に納得する自分がいた。

 日焼けしないよう、本だけは屋根の影の中に入れながら、一度彼方さんに読んでもらった、あの時間を追体験するようにページを捲った。

 僕は、全部を覚えていた。少しも夢なんかじゃなかった。絵本の中の蛙がどうなるかも、何が蛙を助けたのかも、彼方さんの声も、匂いも、仕草も、笑顔も、全部覚えていた。

 それと、


『好きだよ』


 裏表紙の内側に小さく書かれた文字を見つけて、僕は耳元で囁かれた言葉の正体を知った。

 ずるい人だ、と僕は思う。

 彼女は初めから最後まで、綺麗にいなくなるつもりなんてこれっぽっちもなかったのだ。

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