第48話

 散々に涙を流したせいなのか、はたまた、僕のまだ知らない呪いの影響なのか、いつの間にか、視界はブラックアウトしていた。

 そして目が覚めたとき、僕は車の後部座席で横になっていた。


「あ、馬鹿がまた一人目を覚ました」


 千加さんの声だ。なんとか体を起こそうとするが、全く力が入らない。


「遥、大丈夫?」


 助手席からこちらを振り向く彼方さんの顔を見て、僕は場違いにもさっきの出来事を思い出してしまった。自分の顔が赤くなっていくのが分かる。


「あ、え、はい」

「顔真っ赤だよ、熱あるのかも」

「そりゃあ、あんだけ濡れれば熱も出るでしょ。てか彼方、顔赤いのはあんたもだからね」


 二人のやり取りを見ていると、またどんどんと瞼が重たくなってきた。彼方さんが僕をここまで運んでくれたのだろうか。考えようとするけれど、頭が錆び付いたように上手く回らない。


「……あっ」


 視界を再び暗闇が覆う直前、彼方さんが顔を顰めながら、胸を押さえるのが見えた。


「彼方? ねえ、本当に大丈夫なの」


 心配そうな千加さんの声がする。

 僕もすぐに声をかけたかった。けれど、どう頑張っても、体のどこにも力が入らない。


「大丈夫、ちょっとはしゃぎすぎただけだよ」


 彼方さんのいつもの嘘だ、と思ったときには、もう意識が途絶えていた。


 それから起きたことが夢なのかどうか、僕はしばらく判断がつかなかった。

 気づくと病室にいた。この夏の間、何度も足を運んだあの病室の、ベッドの上だった。


「起きた?」


 隣に座った彼方さんが、笑みを含んだ声でそう訊ねる。


「千加にも先生にも散々怒られちゃった」

「……僕、は」


 口が乾いていて上手く喋れない。


「遥、ずっと寝てたんだよ。ほら、外見て」


 促されるまま窓の外に目をやると、夕焼けが出ていた。駐車場に停められている車の影はすっかり伸びて、オレンジ色の光が庭木を光らせていた。

 完全にやってしまった。彼方さんにとって、今日は最後の外出だったのに。頭を抱えようとするけれど、肝心の腕が上がらなかった。


「あんだけ泣いて、ずぶ濡れになったんだもん。相当疲れたんだよ」

「彼方さんは、平気なんですか」

「ああ、ちょっと疲れただけ。仮にも病人だからね」


 この期に及んで、彼方さんはまだそんな冗談を言う。そんなところが本当に彼女らしいから、もう枯れて出ないはずの涙がまた出そうになる。


「それよりほら、約束してたでしょ」


 そう言って、彼方さんは傍らから何枚かの画用紙を取りだした。それが絵本の原画であることは、僕にもすぐに分かった。


「さすがにまだ本にはなってないんだ。でも、話は覚えてるから。なんか紙芝居みたいだけど」


 まだ全身に倦怠感がのしかかっていて、彼女の言葉を聞き漏らさないか不安だった。


「じゃあ、読むね」


 僕が本調子じゃないことくらい、彼方さんも勘づいていただろう。けれど、彼女はやめなかった。

 理由はなんとなく分かった。

 現実と夢の狭間のような意識の中、彼方さんの語る物語は驚くほどすんなりと僕の中に入ってきた。次々と捲られる画用紙の一枚一枚に、彼方さんの体の一部が溶け込んでいるのが感じ取れた。


 一匹の、井戸の中の蛙の話だった。




 蛙は小さいときに両親を蛇に食べられてしまいました。両親は蛙に外の世界のものを見せてあげるために井戸を出たところでした。


「井戸の外に出てはいけないよ」


 お母さん蛙は、最後にそう言い残しました。

 それから、ずっと蛙はこの井戸の中に一人きりです。

 井戸の中にいる限り、なんにも怖いことなんかありませんでした。食べるものには困りませんでしたし、井戸にはいつでも綺麗な水が湧いてきます。

 でも、蛙は気づいてしまいました。空を見上げて、飛ぶ鳥を見て、流れる雲を目で追って、気づいてしまったのです。

 蛙が知っているものは、井戸の中にしかありませんでした。当たり前のことのはずなのに、なんだかひどく虚しくなりました。

 そんなとき、ふと蛙は、昔にお母さん蛙が言っていたことを思い出しました。


「井戸の外には海があるんだよ。青くて、大きくて、沢山の生きものが住んでいるんだ」


 海を、見てみたい。

 気づけば、蛙は海を目指していました。そこに何があるのかは分かりません。何もないかもしれません。もしかすると、両親を食べたあの蛇は、蛙が井戸から出るのを今か今かと待ち続けているのかもしれません。

 それでも、と蛙は思いました。

 毎日毎日、朝から夜まで蛙は井戸の内壁をつたって地上を目指しました。しかし、幼い蛙の筋力ではどうしても井戸の半分ほどまでしか登ることができません。それに、蛙は同じ種類の中でもとびきり小さく生まれてきたので、大人になったところで、この井戸を登り切れるかどうかは分かりません。

 でも蛙は諦めませんでした。夜になって何も見えなくなると、勇気をつけるためにお母さん蛙がかつて歌ってくれていた歌を大声で歌いました。

 ときどき、鳥がやってきて蛙の歌を笑いました。


「なんでそんな意味のないことしてんのさ」


 蛙は歌うのをやめ、言います。


「僕には意味のあることなんだ」


 そしてまた蛙が変わらない調子で歌い出すと、鳥はつまらなそうな顔をしてどこかへ飛び去っていきました。

 諦めない蛙でしたが、生まれ持ってしまった非力さを克服するのは困難でした。何度も挑戦するうちに、蛙の体は傷だらけになっていました。毎晩歌を歌っているせいで、喉もすっかりガラガラです。

 それでも蛙は歌いました。祈るように、誓うように歌いました。井戸の外に出て、この目で海を見る。それだけが自分の生きる理由なのだと信じて疑いませんでした。

 そのときです。


 どこか遠くで何か大きな音がしました。あれは雷だ、と蛙は思います。この辺りでは大きく天候が荒れることは少ないので、蛙がそれを耳にするのは二度目でした。

 そしてそんな轟音を埋め立てるかのように、大雨が降ってきました。その勢いは強く、蛙は思わず井戸の奥に生えた葉の裏に隠れます。

 雨は一向にやむ気配がありません。どんどんと水位が上がってきて、蛙の隠れる場所はなくなりました。

 歌い続けよう、と蛙は思いました。水に浮かんで、ぶつような雨でときどき息ができなくなりながらも、蛙は歌います。そうすることが正しいことだと、自分で決めたからです。

 気づけば、井戸の水は地上まであと少しというところまで溜まっていました。

 蛙は決死の思いで壁に手をかけ、残る力の全てを振り絞って、やっと井戸を出ることができました。

 井戸を出た蛙が目にしたのは、溢れかえって、濁流と化した海でした。お母さん蛙が言っていたような、透き通る海はそこにはありませんでした。

 蛙は自分の目から、雨ではない何かが溢れてくるのを感じました。目の前の景色が淀んだ色をしていても、綺麗でなくても、心の底から喜びが湧き上がってきました。

 蛙はもう井戸を振り返りません。


 ただそれだけのために積み重ねてきた日々を追い越すように、海に向かって、蛙は一歩を踏み出しました。




「おしまい」


 絵本を読み終えた彼方さんは、満足そうな顔をして、ぽつりと言った。


「……とても、素敵でした」


 伝えたいことは沢山あるような気がするのに、それだけしか出てこなかった。

 僕の感想に照れたような反応をして、彼方さんは絵の中の蛙を指さす。


「この蛙はね、私なの」


 そしてその人差し指は、次に蛙の周囲を埋め尽くすように描かれた水滴に移動する。


「それで、この雨は遥」


 彼方さんは言って、少し笑う。


「遥の雨は、優しいんだ。私の声を聞いてくれて、私のために降ってくれたの」


 僕は軽いショック状態だった。色々な感情や情報が頭の中を行き来しすぎて、肝心の今に意識を置いておけない。

 しばらく何も言えないでいると、彼方さんから耳を貸すように言われた。


「」


 それで、僕は多分とんでもないことを囁かれた。憶測になってしまったのは、そこからの記憶があまりにも曖昧だからだ。

 また僕は泣いていた。体のどこにそんな水分が残っていたのか不思議なくらいに、大粒の涙が頬をなぞっては落ちていく、喉の奥から、嗚咽と呻き声が漏れていた。彼方さんが抱き締めてくれたのは、なんとなく覚えている。

 それからすぐに千加さんが病室に来て、泣き続けている僕をおぶって車まで運んでくれた。彼方さんは僕が車に乗り込むまで、ずっと追いかけて見送ってくれた。

 手も振れなかった。まだ涙は止まらない。

 そして一つ、不思議なことがあった。

 こんなに泣いているのに、雨は降る気配すら見せなかったのだ。

 ありえないことだと脳が処理したのだろう。

 千加さんに送ってもらった後、なんとか自室のベッドにたどり着いた僕は半日以上眠り込んだ。

 そして起きたときには、病室での出来事のどれだけが現実で起きたことなのか分からなくなっていた。

 特に最後のあれ。まるで呪いが解けたみたいな演出だった。どうせ期待だけを悪戯に煽る、夢か何かに違いないと僕は思った。


 それが現実だと知ったのは、二日後の朝、千加さんから、彼方さんが死んだと聞かされたときだった。

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