第24話

「私が今生きてるのは、遥くんのおかげなんだよ」


 一通りを話し終えた佐紀は、手元のファイルをぱたりと閉じて言った。僕は今しがた聞いた事実を消化しきれておらず、まともに相槌をうつことさえできなかった。


「……あの日の大雨が、偶然、君を虐げていた人間を裁いてくれた。それが、僕を好きになった理由?」


 他にも訊くべきことは山ほどあった。けれど、僕はそう訊ねる。


「ううん、それはきっかけ。確かに、あの出来事は私の中で一番大きかったけど、それだけじゃない。私、あの日からずっと遥くんを見てた。噂が広がって、だんだん孤立していく君を、ただ見てた。クラスも別で、中学も別だったけど、人づてに君のことは聞いてた。それで、気づいたの、遥くんは私と同じだって」

「同じ?」

「同じくらい、全部を諦めてる」


 彼女の言葉はひどく抽象的で、曖昧だった。でも、否定する気にはなれなかった。

 思えば、いつからか僕は、誰に対しても期待しなくなっていた。自分を受け入れてもらおうなんて感情は、もういつ手放したのか覚えていない。中途半端に分かったふりをされるくらいなら、誰にも何も分かられなくていい。

 それが、そんな生き方が、佐紀と僕の共通点だとして、彼女はたったそれだけの繋がりを信じて、今日までの日々を過ごしてきたのだろうか。

 目の前の女の子の背中に何がのしかかっているのか、僕は無意識に考えないようにしていた。けれど、そんなことが許されるはずがなかった。

 そこにいるのは、他でもない僕なのだから。


「……ごめん、帰る」


 勝手にそう告げて、僕は佐紀の家を出た。彼女は追いかけてこなかった。


 何も考えないようにしながら、ひたすらに走った。風の音と上がった息の音が混ざって、そのうちどちらも気にならなくなった。

 もう限界だった。佐紀が抱えてきたことも、彼女がどういう思いで僕に話しかけてきたのかも分かったけれど、それに向き合える気はしなかった。

 僕は化け物だ。たとえあの雨で彼女が救われたとしても、少しだって嬉しくないし、生きるのがましになっただなんて思わない。知らないうちに他人を救うくらいなら、もっと自分が生きやすい世の中だったらよかった。

 それが本音だった。

 もう彼女に会わない方がいい。それだけは確かだった。僕は彼女の英雄になんてなれないし、同じように孤独を慰め合うこともできない。そんな僕がそばにいて、彼女にしてあげられることなんて何もない。

 今だって、頭のどこかでは彼方さんのことを考えている。早く会って、あの声が聞きたい。僕はもう、誰も傷つけたくないし、救いたくもない。

 ただ、ここにいる僕を認めてもらえる、それだけでよかった。


 上がった息は、家に帰ってからもすぐには整わなかった。

 でも、構わない。僕の目的は、あの場から逃げ出すことだった。あの、純真な視線から、僕という人間に何かしらの価値を見いだしている彼女から、逃げることだった。

 二階の自室に駆け上がり、急いで扉の鍵を閉める。どうせ家には僕の他に誰もいないが、そうしたかった。

 すぐにでも全てを放り出して眠りたかった。しかしそんな思考を実行に移す直前、投げ捨てようとしていた手の中の携帯が震える。

 もしも佐紀からの着信なら出ずにいよう、と決め込んで見た画面には、『井辺彼方』の名前があった。


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