第23話

 彼女の誘いに対し、どう答えるのが正解だったのだろう。そんな考えは何度も頭に浮かんでくるものの、現状よりいいアイデアがあるような気もしなかった。

 招かれるままに上がった佐紀の部屋は、彼方さんの家よりも、いわゆる女の子の部屋という雰囲気がした。こうして座っていても、居場所がどこにもないような感覚になる。

 あまり見回すのも失礼だと思い控えてはいるが、どうしても、彼女の机の上にある大きなファイルに目を奪われてしまった。


「開いてみる?」


 一階から紅茶を持ってきた佐紀が、けろっとした調子で訊ねる。彼女が言うには、夜まで両親は家を空けているらしい。それに関しては僕の家庭も似たような境遇なので、特段意識するほどのことでもない。


「見られたくないからしまってるんじゃないの?」

「うん。でも、遥くんはその対象じゃない」


 ずい、と佐紀の顔が近くなる。狼狽えているうちに、彼女は僕の隣に座った。


「私ね、ずっと遥くんを見てた」


 青い表紙のファイルをゆっくりと捲りながら、佐紀が呟く。その言葉の先には、誰もいないような気がした。ただ事実を述べているだけ、という平坦さがあった。

 次の瞬間、僕の目に飛び込んできたのは、とある新聞記事の切り抜きだった。


『校外実習中の小学生、突然の豪雨に見舞われけが人も』


 すぐに、その記事があの日のことを書いているのだと察した。そして、ひどく冷たい何かが脳を侵食していくような、寂しさに似た感情が込み上げてくる。


「これ、遥くんがやったんだよね」


 無遠慮な質問。しかし、今更遠回しにする意味もないのだろう。

 僕はどんな顔をしてしていいか分からないまま、こちらを覗き込むように見つめている佐紀の目を見た。


「大丈夫、知ってたから」


 肯定も否定もしたつもりはなかった。

 佐紀がふと目線を逸らし、どこにも置き場のなさそうな目をして俯いた。


「ごめん、少しだけ聞いてくれるかな」


 頷くが、心構えなんてまるでできていなかった。けれど、それは佐紀も同じらしく、彼女の手は初めて会ったときのように固く握られていた。

 浅く呼吸する音が聞こえてから、佐紀はぽつぽつと話し始めた。彼女が、僕という人間に興味を持つようになったきっかけを。


 相沢佐紀は、小さなころから内向的な性格だった。学校での指導はおろか、両親にさえ逆らった記憶はほとんどないらしい。

 諦めるのが早かったんだ、と佐紀は言った。

 彼女の両親は、決して仲睦まじい夫婦関係ではなかった。ことあるごとに口論になり、ときには家の壁や食器が破壊される家庭環境で彼女は育った。争いの火の粉が佐紀自身に降りかかったことも一度や二度ではなかった。割れた食器でできた傷を隠す日々が、物心ついたときからの日常だった。

 他人と争ってもいいことなんてない。仮に優劣がついたところで、第三者を傷つけるだけだ。

 沢山の理不尽に見舞われた彼女は、正しさに気づくのが他人よりもずっと早かった。


 気づくと、クラスメイトとの間に壁を感じるようになった。楽しそうに家庭のことを語ったり、くだらないことで競い合っている彼らを見る度に、胸の奥に言いようのない嫌悪感を覚えるようになった。

 それが見当違いな感情なのは理解していた。けれど、生理的な拒絶を押し殺せるほど、彼女は人間性を手放してはいなかった。

「目が気に入らない」始まりはそんな言葉だった。事実、佐紀が彼らに向けていた目線は冷ややかなものだった。しかし、それは自分の意思でどうにかできる類のものでもなかった。

 間もなくして、彼女は嫌がらせの対象となった。


「初めはクラスの、それこそ数人くらいの規模だった。物を隠されたり、陰口を言われたりする程度で、正直なんともなかった。でも、なんともないって顔してるのが一番気に入らなかったんだろうね」


 知らないうちに、加害者メンバーの中にはそれまで顔すら見たこともない男子生徒が混ざるようになった。彼らが笑いながら話す内容を整理すると、運動部か何かの噂を聞きつけてきたのだという。『何をしても壊れないおもちゃがいる』と。

 嫌がらせの内容は徐々に過激なものになっていった。

そして不登校になる前日、佐紀は集団によって背中を踏まれ、蹴られた上、肩下まであった髪の毛を複数人に工作用の鋏で切り落とされた。


「サッカークラブの子がいて、すごく笑ってたの。『俺が本気で蹴ると殺しちゃうから手加減してやるよ』って。……なんて言うんだろ、この子はダメだなって思った。多分、本質的に他人の痛みが分からない子なんだなって」


 佐紀は不登校になってから、ずっと眠れなかったという。毎晩、自分を踏みにじって嘲笑していた人間の顔が瞼の裏に張りついて離れなかった。何もできない自分が、嫌いで、惨めで、そもそもこんなことを考えないといけない現状が受け入れられなくて、どうしようもなかった。


「こんなに悔しい思いをするくらいなら、もう誰にも会わずに死んだ方がいいって、あのときは、そういうことしか考えてなかった。……でも、」


 首が何かで締め付けられるような苦しさがあった。佐紀の言葉の先を想像して、胃液が逆流しそうになるのをなんとか堪える。


「遥くんが降らせた雨が、私の無力を救ってくれた。上手くやり過ごせている人たちに、ちゃんと罰を与えてくれた」


 脳内に過ぎるのは、僕が久しぶりの学校で目にした、松葉杖をついて歩く林孝司の姿だった。以前の、お調子者としての面影は微塵もなくなり、教室で一言も発さなくなった、彼の無気力な横顔。僕が奪ってしまった、人生。


 彼が転校したのは、僕の化け物としての噂が広まってすぐのことだった。

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