第25話

「はい、未鳴です」


 体が先に動いていた。今にも溶けてなくなりそうだった意識が、耳元に集中する。


「遥? なんか、疲れてる?」


 たった一言で僕の様子がおかしいのを察したらしく、彼方さんは名乗るより前にそう言った。


「……大丈夫です」


 どこまでも見透かされていることに自分で少しおかしくなる。


「ごめんね突然、本当は遥がかけてくるまで待ってるつもりだったんだけど、これからまた用事が入っちゃって」


 彼方さんの声は、確かに普段よりも余裕がないように思えた。よほど突発的な用事なのだろうか。


「いや、ちょうど一人になったところだったので」

「お、どっか遊びに行ってたの?」

「まあそんな感じです。というか、用件は?」

「せっかちだなあ」

「時間がないんでしょ?」


 僕が指摘すると、電話口の向こうから彼方さんが短く唸る声がした。


「じゃあ用件。明日、十一時に駅で待ってて」

「……それだけ、ですか? どこに行くとかは?」

「行くのは、そうだな……海? 別にそんな大したことはないんだけど、待ち合わせの約束みたいなの、ちょっとしてみたくて」


 海。いつも僕たちが会っている場所も十分に海と言えるのだが、そこには触れないでおいた。

 約束をしてみたい、だなんてきっと建前だろう。少なくとも、彼方さんには千加さんという友人がいる。バスの運転手の伊藤さんみたいに、会話を交わすだけの関係性であれば、それこそ僕とは比べ物にならないほど、彼女は他人と関わっているはずだ。

 待ち合わせ時間を変えたのには、何か彼方さんなりの思惑があるはずだ。

 けれど言葉にしないということは、つまり詮索されたくないということで、彼女が塞いだ穴に僕が付け入る隙なんてない。そう自分に言い聞かせる、つもりでいた。


「早いと、困りますか?」


 言ってすぐ自分の口を覆ったが、一度口を滑った言葉が戻ってくるはずもない。僕は何がしたいんだ? こんな質問、彼方さんを困らせるだけだと分かっているだろ。

 自責の念がふつふつと湧いてくる。電話口の静寂が、僕のことをひどく非難しているような気がした。


「うん、困る。これからしばらく行かなきゃいけないところがあるからね」


 彼方さんは珍しいくらい、きっぱりと言った。そうした方が僕のためだと思ったのだろう。


「……分かりました。すみません、余計なこと訊いて」

「全然。ぼやかして喋ってるのはこっちだし」


 ぼやかしている、とはっきり名言するのに少し驚く。彼女にはやはり、意図的に伝えたくない何かがあるのだ。

 彼女が知られたくないと思っている以上、今度こそ追及するのはやめようと思った。


「でも、遥にはすぐ話すことになると思うんだ」


 言って彼方さんは笑う。その明るい声の意味を、僕は知らない。


「……あ、じゃあまた明日ね」


 彼方さんは誰かに呼ばれたらしく、そう言って電話を切り上げた。返事をする暇もなかった。

 断絶を告げる無機質な電子音を、僕はそのまましばらく聞いていた。永遠なんてありえない。彼方さんはいついなくなってもおかしくない人だ。それを忘れるな。

 気づけば彼女の存在に縋りそうになっている自分を戒めるのに必死だった。


 目覚めても、頭の重たさは変わっていなかった。

 昨夜は普段よりもずっと早く寝て、ここ数日で一番遅く起きたのにも関わらずだ。こうなってくると、睡眠そのものの意義が分からなくなる。

 階下からは人の気配がした。それもそのはずで、今日は叔母のパートが休みだった。一瞬、顔を洗いに降りようか悩んだが、先に着替えを終わらせてからにしようと判断した。そしてのそのそと着替えを終えるころ、叔母は買い出しか何かで家を出た。

 こうして、あくまで自然に僕たちはすれ違う。同じ家に住んでいるのに、会話を交わすのは週に三回あればいいくらいだ。けれど、別に不足を感じているわけじゃない。これが適切な距離だと、お互いに理解しているからこのままでいる。

 洗面所で鏡を見ると、目の下にうっすらとクマができていた。昨日の昼から何も食べていなかったが、全く食欲はなかった。

 顔を洗い終わって、キッチンの机の上に簡単な書き置きだけしてから家を出た。

 普段よりも遅い時間だからか、いつもの電車にはそれなりの人数が乗っていた。人間が多いというだけで、馴染んだ空間すらもどこか息苦しいと思ってしまう。

 僕は今どんな顔をしているだろう。窓の中の自分に視線を落としかけて、やめた。たとえどんなに自然な素振りを装ったとしても、彼方さんには通じない。

 そもそも、と僕は思う。

 彼方さんが僕と会うメリットはなんだろう?

 彼女は自殺志願者だ。だから、例えばその理由が孤独にあって、ただそばにいるだけの人間がほしかったのだとしたら、一応の辻褄はあっていると言えるかもしれない。別に彼方さんの隣にいるのは誰でもよくて、その誰かが僕だったというだけ。

 それだけなんだ、と言い聞かせた。

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