第36話

「俺、お前が望むのなら今の仕事辞めるよ」


「あなた、本当にいいの? それで」


「ああ。いい加減、黄砂の中を歩き回されるのもうんざりしてたんだわ。見ろよこれ、折角の金髪がもうごわごわしてきてる。頑張って働けば働くほど、街中の違法露店主には嫌われるし……。お前もやってらんねぇと思うだろ?」


 ピエールの笑いを誘う笑みに、嫁はくすりと声を立てる。


「あなたってば、こんな時にも身嗜みの話をするのね。――辞めないでほしいわ。あなたの仕事が気になって私、毎日後をつけながら色んな人から話を聞いたの」



 嫁は目に涙を浮かべながらも、誇らしげに語り始めた。


 ピエールの前任者は違法露店を相当厳しく取り締まっていたらしく、度重なる罰金に生活が破綻して消えていく者も多かった。


 対してピエールは、蜘蛛の子を散らすように通りを自転車で駆けていくばかりで、あまり取り締まりを行わない。


 けれど詐欺や恐喝などの悪評の立った露店は集中的に罰金を課して、そういった露店はいつの間にか消えていく。


 ピエールは「一々取り締まるのが面倒なだけさ」と周囲に漏らしたことがあるようだが、内にどんな理由を秘めていたとしても、それで救われている人が多くいるのは事実だろう。


 役所での仕事ぶりも、適当に相談するフリをして色んな部署に行って話を聞いた。


 女関係の話を除けば、おおむね良い噂ばかりだった。後輩のエリルと不倫している、とか、他部署の美女にも手を出している、とか……聞きたくないような話もたくさん聞いた。



「そうか……でもお前良く俺たちの後をつけれたな。こっちは自転車だぞ?」


「あなたのことを考えてると、痛みなんて忘れてしまえるわ」


 家からバスまで歩き、降りたバス停から役所までまた歩き、そこから自転車のピエールたちを見失わないようかなり走ったことだろう。帰り道には商店に立ち寄って、家庭を守ろうと買い物に精を出す。


 運動に適していない靴でそんな毎日を繰り返していれば、足の裏が支障をきたしても不思議はなかった。



「僕もピエールさんには感謝しています」

 いつの間にかアスランとシルクも近くに来ていた。


「前任者のことは僕は噂でしか知りませんが、執拗に罰金を課して、その一部を着服する不届き者だったとか。ピエールさんだってやろうと思えば同じことができたはずなのに、そうはしなかった」


「私も! 私とアスランに合わせてくれたのは、ピエールさんだしね」

 シルクが無邪気な笑みでウインクを作る。


「みんな……俺を買い被り過ぎだぜ? 俺はただ、自分の好きなペースで仕事をしただけだ。私腹を肥やすために、誰かの恨みを買うとかもごめんだしよ」


 言っていて苦笑いが漏れてしまう。


 悪事に手を染める者は多いが、そういった輩は人知れず報いを受けて消えていく。俺はその執行者の内の一人になっていたようだ。


 そんな正義感を、持ち合わせているつもりはなかった。ただ仕事をゆるくこなしてきただけのはずだった。



「面白いくらいに俺を見ては逃げていくから、露店のみんなからは嫌われてるもんだと思っていたが……。アスラン、お前くらいだよ」


「それは役柄を嫌っているのであって、ピエールさんを嫌っているのとは違うと思います」


「なんだよそれ……分かんねぇよ。ずっと、みんなして俺を嫌ってんのかと」


 アスランには嘘偽りがない。黄砂で濁りがちなこの街において、汚れることなく純真な輝きを保っている数少ない一人だ。


 アスランが言うなら、俺は本当に嫌われてないのか? 独りで悩んでいた時間が馬鹿みたいじゃないか。


「ありがとよ、アスラン。今回はお前にだいぶ救われたみたいだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る