―――

エピローグ

 セピア色の奔流の中で、私は誰かの歌声を聞いていた。

 疲れ果てた私の意識を、そっと包み込んでくれるような――とても懐かしくて、とても温かい歌声だ。


 私はねばねばと絡みついてくるセピア色の粘液を振り切って、その歌声の聞こえる方向を目指し――そして、水面から顔を出すようにして、現実世界に浮上したのだった。


「あら、ようやくお目覚め? 母親に運転をまかせて居眠りざんまいとは、いいご身分だねぇ」


 五感が復活すると同時に、皮肉っぽい響きを帯びた声が耳の中に飛び込んでくる。

 私がぼんやりそちらを振り返ると、母親である美沙子の苦笑を浮かべた横顔が待ちかまえていた。


 私が座っているのは、母が運転する軽自動車の助手席だ。

 おそらくは高速道路を疾走しているさなかであるのだろう。助手席のシートは頼りなく振動しており、無理を強いられているエンジンが不平を訴えるようにうなりをあげていた。


「えっと……母さんは、その……」


 私がそのように言いよどむと、母は横目で穏やかな視線を向けてきた。


「心配しなくっても、あの素っ頓狂な体験を忘れたりはしちゃいないよ。あんたのほうこそ、大丈夫なんだろうね? こんな馬鹿げた話、ひとりで抱え込むのは重すぎるからね」


「ああ、うん。私もちゃんと覚えてるよ。それじゃあ……母さんの過去の記憶は、どうなったの?」


「それは、あたしが聞きたいぐらいだね。あんたの頭には、どんな思い出が詰め込まれてるのさ?」


「え? だって私は、これから母さんの打ち明け話を聞くところだから――」


 そんな風に言いかけた私の頭が、突如として割れるように痛んだ。

 もともと備え持っていた記憶に、新たな記憶が割り込んでくる。私が生きてきた十六年ていどの時間が、一気に倍ほども膨れ上がったような心地であった。


「ね? なかなかキツいでしょ? あたしは事故りそうだったから、あんたが起きるのを待ってたんだよ」


 くすくすと笑いながら、母はそう言った。


「で、どうなんだい? 悪い結果にはなってないはずだよね?」


「うん……静夫くんは、みんなと分かり合うことができたんだね……」


 頭の激痛に耐えながら、私はそんな風に答えてみせた。

 自分でも気づかない内に、温かいものが頬を伝っている。私は突如として生まれた思い出の奔流に心を押し流されてしまいそうだった。


 吉岡医師が心臓の病気で亡くなった後、静夫は隆介や孝信と和解することがかなったのだ。

 その証拠に、私は幼い頃から母に実家の話を聞いていた。母は六歳で両親を亡くすまで、千葉県の実家で暮らしていたのだと――そしてその屋敷には、とても穏やかで優しい叔父がいたのだと――とても自慢げに語らっていたのだった。


 しかし両親の事故死を機に、母はその優しい叔父とも別れることになってしまった。

 優しい叔父――野々宮静夫はとても体が弱かったため、幼い母をひとりで育てあげることはできなかったのだ。


 母はそれでも静夫と一緒に暮らしたいと泣きわめいたが、周囲の大人がそれを許さなかった。それで母は母方の親戚に引き取られて、静夫と会うことも許されなくなってしまったのだった。


 母が静夫と再会したのは、それから十年後。十六歳になった年である。母は意地悪な親戚連中の目を盗んでアルバイトに励み、それで旅費を工面して、こっそり野々宮の家を訪れたのだそうだ。


 しかし、静夫は屋敷にいなかった。

 彼は体を壊してしまい、市内の病院に入院していたのだ。

 母が慌ててそちらに駆けつけると、静夫は十年前と変わらぬ優しい笑顔で出迎えてくれたが――しかし、これ以上は自分に関わらないほうがいいと、そんな風に告げてきたのだった。


「僕のことは放っておいていいから、美沙子ちゃんは自分の幸せをつかんでおくれよ。隆介兄さんも千夏ちゃんも、それを望んでいるはずだよ」


 それはきっと、静夫の優しさから発せられた言葉であったのだろう。病弱な自分が母の人生に関わっても負担にしかならないと、きっとそのように判じたのだ。

 しかし、まだ若かった母は、大切に思っていた叔父に突き放されたような心地であった。

 それで母はおもいきり奮起して、これ以上もなく幸せになった姿を見せつけてやるんだ、と――葉月がまだ小学生であった時代から、そんな風に力説していたのだった。


「ただ、あたしは結婚を約束してた相手に逃げられちゃったからさぁ。こんな姿を静夫くんに見せても、心配かけちゃうだけでしょ? だからまあ、なかなかタイミングがつかめなくって、こんなにズルズルと引きのばしちゃってるわけさ」


 そんな話を聞かされた私は、自分もその「静夫くん」という人に会ってみたいと何べんも懇願した。しかし母はのらりくらりと話をそらして、決して私の望みをかなえてくれようとしなかったのだった。


 きっと、母は母で静夫にみっともない姿は見せられないという心境であったのだろう。それに、静夫はずっと入退院を繰り返していたという話であったので、心労をかけたくないというのも本音であるのだろうと思われた。


 ともあれ――母は静夫に複雑な思い入れを抱きつつ、今日までずっと交流を絶っていたのだ。

 六歳までは同じ家で過ごし、十六歳の年に一度だけ再会した、いわば思い出の中の存在であったのだ。

 その静夫がいよいよ重篤な容態になってしまったのだと聞きつけて、母はこうして私ともども病院に向かうことになったのだった。


「……なるほど。そういう話だったわけね。あたしなんかは三つの記憶が錯綜しちゃって、悪酔いしそうな気分だったんだよ。もともとは、嫌いで嫌いでしかたがない相手だったわけだしさ」


 私の説明を聞き終えると、母は皮肉っぽく笑いながらそう言った。


「でも今は、静夫くんのことを憎んだりしてないんでしょ?」


 私がそのように問いかけると、母の横顔に寂しげな表情がよぎった。


「まあ正直に言って、今は一番新しい記憶が生々しく感じられるよ。おかげさんで、あたしの情緒はしっちゃかめっちゃかさ」


「しっちゃかめっちゃかって、どうして?」


「だってさ、小さかった頃のあたしが父さんと母さんと静夫くんの四人で楽しく暮らしてた記憶が、頭の中に渦巻いてるんだよ? あんな楽しい生活がたった六年で終わっちゃったなんて、物寂しい限りじゃないのさ」


 そんな言葉を聞かされた私は、また新たな涙をこぼしてしまった。


「静夫くんは……そんなに幸せそうにしてたんだね」


「ああ。静夫くんだけじゃなく、父さんと母さんもね。……ちなみにあたしは、母さんの真似をして静夫くんって呼び始めたみたい。今でも静夫って呼び捨てにしようとすると、すっごく複雑な気分になっちまうんだよ」


「うん。私の新しい記憶でも、母さんはずっと静夫くんって呼んでたよ。静夫くんの話をするとき、母さんはとても楽しそうで……だから私も、ずっと静夫くんに会いたいってねだってたんだよね」


「あたしがそれを拒んでたことを、きっとあんたは感謝するだろうさ。その静夫くんとも、今日か明日にはお別れなんだろうからね。楽しい思い出なんざ、負担にしかならないはずだよ」


 その言葉は、私の心に鋭い痛みをもたらした。


「静夫くんは……そんなに容態が悪いの?」


「ああ。肺に見つかったガンが、全身に転移しちゃったんだってさ。もう何年も前から闘病生活だったってのに、昨日の夜まで誰もあたしに教えてくれなかったのさ」


 憎々しげに言いながら、母はおもいきりアクセルをふかした。


「でもまあ……あたしと静夫くんの関係なんて、そんなもんだったんだろうね。あたしが静夫くんにもっと執着してたんなら、あんたが産まれたときに顔ぐらい見せてただろうしさ」


「いや、そんなことはないんじゃない? 静夫くんのことを大切に思っていたからこそ、心配させたくないって気持ちがわいてくるんだろうし……」


 私がそのように言いたてると、母はまた寂しげに微笑んだ。


「そんな、追い打ちをかけないでよ。あたしはこれから、静夫くんを失うところなんだからさ」


 そんな風に言われてしまったら、私も二の句が告げなくなってしまった。

 その間も、私たちを乗せた車はものすごいスピードで高速道路を突き進んでいく。しばらく口をつぐんで気持ちの整理に努めていた私は、やがて「あれ?」と声をあげることになった。


「ねえ、私の記憶違いかもしれないけど……高速の出口を通りすぎちゃってない?」


「さすが三回目ともなると、察しがいいね。静夫くんは市内の病院じゃなくって、市外の総合病院に入院してるんだよ。そっちのほうが、施設が充実してるからさ」


 取りすました表情と声音で、母はそう言った。


「ちなみに、それまでの記憶では市内の病院に入院してたんだよね。だから病院を脱走した後、徒歩で地元に戻れたわけ。そっちでも市外の総合病院に預けられてたら、あんたが殺されることにもならなかったのかもしれないね」


 そんな言葉を聞く内に、私はようやく母の苦悩が理解できたような気がした。

 母は私を殺されたことに憤激し、静夫を殺そうと決意していたのだ。それほどに憎かった相手が、今では楽しかった思い出の住人にすりかわってしまったのだから――いかに頑丈な心をした母でも、情緒を乱されて当然のはずであった。


 やがて車はひとつ先の出口で高速を下りて、一般道路を駆けていく。

 野々宮の家があるT市の市街地よりも、よほど栄えているようだ。そんな見慣れぬ町並みを三十分ほど眺めていると、やがて総合病院に到着した。


 広々とした駐車場に車を残して、私と母は病院のロビーに足を踏み入れる。

 ロビーには、寒いぐらいに冷房が効いている。タンクトップにショートパンツという軽装であった母はむきだしの腕をさすりながら、受付で来意を告げた。


「静夫くんは、ガン病棟の201号室だってさ。……心の準備はいいかい?」


「うん。私は大丈夫だけど……母さんこそ、大丈夫?」


「こうなったら、毒を食らわば皿までさ」


 母はよどみのない足取りでエレベーターを目指した。

 その後を追う私の心臓は、頼りなく鼓動を打っている。以前の記憶では不気味な老人に成り果てて私に襲いかかってきた静夫が、いったいどのような姿をしているのか――私には、まったく想像もつかなかった。


 それ以降は口をきくこともなく、私と母は目当ての病室に到着する。

 201号室――そこには確かに、『野々宮静夫』の名が記されていた。

 母はひとつだけ深呼吸をして、その病室のドアに手をかけた。


「やあ、ひさしぶり。あたしが誰だかわかるかい、静夫くん?」


 母はことさら明るい声をあげながら、病室に踏み入った。

 私もまた、覚悟を固めながらその後に続く。


 白いベッドに、ひとりの老人が寝かされていた。

 胸もとまで毛布をかけられて、口もとには呼吸器を装着されている。毛布の下には何本ものコードが垂れており、それがベッドのかたわらに置かれた心電図のモニターに繋げられていた。


 とても小さくて、痩せ細っていて、老人というよりは子供のような姿である。頭には温かそうなニット帽をかぶせられており、耳もとには一本の毛髪も残されていない。

 しかしそれはまぎれもなく、五十五歳となった野々宮静夫に他ならなかった。


「あたしの声が聞こえてるのかい? 思ったより、元気そうな顔つきじゃないのさ」


 母はずかずかと歩を進めて、横たわる静夫の顔を覗き込んだ。

 元気そうな顔つきというのは、入院患者に対する常套句であるのだろう。静夫が死に瀕しているということは、素人である私の目にも明らかであった。


 きっとずいぶん長いこと、日光を浴びていないのだろう。その顔は、洞窟にひそむ軟体動物のように青白くなってしまっている。

 げっそりと頬がこけ、目は落ちくぼみ、まるで頭蓋骨に生皮を張りつけたように肉が薄かった。


 だけど――その瞳には穏やかな光が灯されて、目もとや口もとに醜い皺が刻みつけられたりもしていない。そうして母の顔を見返しながら、静夫は呼吸器の向こう側にとてもやわらかい微笑を広げたのだった。


「美沙子ちゃん……なの? ずいぶん印象が変わったみたいだけど……」


「ふん。そりゃあ二十年も経てば、人相ぐらい変わるだろうさ」


「髪を染めちゃったんだね……僕、美沙子ちゃんの黒い髪が好きだったのに……」


 それはかつて、私に向けられた言葉である。

 しかし今の静夫の言葉には、果てしない慈愛の気持ちだけがあふれかえっていた。


「でも、どうして美沙子ちゃんが、こんなところに……?」


「親切なお人が、連絡をくれたんだよ。いちおうあたしも、静夫くんの血縁者なわけだからね」


 普段と変わらぬ元気な声で言いながら、母は私の腕を引っ張った。


「さて、それじゃあ驚きのご対面だね。これはあたしの娘で、葉月だよ」


 母の顔を愛おしそうに見つめていた静夫の目が、ゆっくりと私のほうに向けられてくる。

 そうして私の顔を見た瞬間――静夫は、薄いまぶたを驚嘆に見開いた。


「え……千夏ちゃん……?」


「だから、あたしの娘だってば。でも、母さんに生き写しでしょ?」


 母が自慢げに言いたてると、静夫は毛布の下で小さく体を震わせたようだった。

 そして――穏やかに光る目に、透明の涙を浮かばせる。


「うん……千夏ちゃんにそっくりだ……いくら孫でも、こんなに似ることがあるんだね……心から、びっくりさせられちゃったよ……」


「でしょ? まあ、似てるのは顔だけで、中身のほうはまったくなんだけどさ」


「そう……なの……? 僕は……本当に、高校生ぐらいの千夏ちゃんと再会したような気分なんだけど……」


 確かに私は数十時間だけ、蓮田千夏であったのだ。

 私がそんな想念にひたっていると、母が容赦なく背中を叩いてきた。


「ほら、あんたは何を固まってるのさ? あれだけ静夫くんに会いたがってたんだから、挨拶ぐらいしなよ」


「う、うん……は、蓮田葉月です。初めまして、静夫……くん」


 私がそのように応じると、静夫の目もとに溜められていた涙が痩せこけた頬に流れ落ちた。


「本当に、声まで千夏ちゃんそっくりだ……僕まで、子供の時代に戻った気分だよ……」


「そっか。だったら、もっと早く会わせてあげればよかったね」


 母の言葉に、静夫は「いや……」と静かに微笑んだ。


「最後に美沙子ちゃんの子供と会うことができて、すごく嬉しいよ……僕はもう、長くないだろうからさ……」


「何を言ってんのさ。六十前でそんな弱音を吐くのは、早すぎるでしょ」


「いや……僕は、長く生きすぎたぐらいだよ……隆介兄さんや千夏ちゃんが、あんな若さで亡くなっちゃったのに……僕みたいな人間が、こんな年まで生き延びるなんて……世の中は不公平だよね……」


 そんな風に言いながら、静夫は毛布の下に隠されていた右腕を大儀そうに引っ張り出した。

 そちらも骨と皮だけのような、痩せ細った腕である。母は無言のまま、その白い指先を握りしめた。


「二人の代わりに、僕が死にたかったって……何度も何度も思ったよ……そうしたら、美沙子ちゃんもずっとあの屋敷で、兄さんたちと幸せに暮らせたのにね……」


「そんなのは、あたしらにどうこうできる話じゃないさ。でも……あたしは父さんと母さんを亡くした後も、あの屋敷で静夫くんと暮らしていたかったよ」


「それは、無理な話だよ……僕はあの頃から病弱だったし……それに、自分の母親を殺した犯罪者だったんだからね……」


「それは、正当防衛だって認められたんでしょ? 静夫くんが気にするような話じゃないよ」


 それは、私の新たな記憶にも存在しない逸話であった。きっと母は、大事な叔父が殺人の罪を犯してしまったことなど、私に伝える気持ちになれなかったのだろう。

 しかしそれでも、静夫は――いや、静夫を含むすべての関係者は、野々宮由梨枝の死を曖昧に終わらせることなく、その苦しみを乗り越えてみせたのだった。


「静夫くんと過ごした六年間は、本当に楽しかったよ。この葉月が産まれるまでは、その思い出があたしの心の拠り所だったんだからね」


「うん……僕もずっと、その頃の思い出だけにすがっていたよ……あれは本当に……夢みたいに幸福な生活だったから……」


 そのとき、ベッドの脇に置かれた心電図のモニターから警告音のようなものが鳴り始めた。

 母は、寂しげな笑顔で静夫の手を握りしめる。

 静夫は穏やかな眼差しのまま、私と母の顔を見比べた。


「葉月ちゃんのおかげで、あの頃の記憶がいっそう鮮明に思い出せたみたいだ……どうもありがとう、美沙子ちゃん、葉月ちゃん……これからは、僕も兄さんや千夏ちゃんと一緒に、二人を見守っているからね……」


 静夫が初めて、私の名前を口にした。

 そして、それが最初で最後の機会であったのだ。


 病室の外から、医師や看護師がなだれこんでくる。そんな騒動には目もくれないまま、母は最後にぎゅっと静夫の手を握りしめてから、身を引いた。

 静夫の穏やかな瞳はまぶたに隠され、ただその頬に涙が伝っている。

 その安らかな顔を目に焼きつけてから、私は母を追って身を引いた。


 医師たちは懸命に蘇生の処置を施そうとしていたが、心電図のモニターは静夫の死を無慈悲に示し続けている。

 静夫の姿が医師たちの背中に隠されてしまったため、私は母のほうを振り返った。

 母は、あらぬ方向に視線を向けている。

 その視線を追った私は、枕もとに設置された床頭台に一枚の写真を見出すことになった。


 プラスチックのフォトフレームに収められた、古い写真だ。

 褪色して、すべてがセピア色に染めあげられてしまっている。

 それは、野々宮隆介と蓮田千夏の結婚写真であった。


 野々宮隆介は緊張のあまりか、怒っているような顔で笑っている。

 蓮田千夏は、凛々しさとたおやかさの混在する顔で微笑んでいた。

 野々宮孝信は、私にそっくりのぎこちない笑顔だ。

 蓮田節子は気弱そうに微笑みつつ、それでも心から娘の結婚を喜んでいるようだった。

 そして――父親の隣に並んだ野々宮静夫は、誰よりも幸福そうに微笑んでいたのだった。


                  ◇


 静夫の死を見届けた後、私は屋外にある休憩所のような場所で、ひとりぼんやりと過ごしていた。

 母は何かの手続きがあるとのことで、ここで待っているように言いつけられたのだ。


 その間、私はさまざまな記憶に思いを馳せることになった。

 分断された記憶をまさぐると頭が痛んでならなかったが、それでも考えずにはいられなかったのだ。


(今日のことで、ようやくわかった……お祖母ちゃんは、静夫くんを含む全員の安息を願っていたんだね)


 祖母自身と隆介は、けっきょく交通事故で早世してしまっていた。

 孝信は肝臓ガンで亡くなり、節子は心臓の病気で亡くなっている。その原因や時期なども、これまでの記憶と変化していなかった。


 それにきっと、静夫もそれは同様であるのだろう。

 静夫もまた、全身をガンに蝕まれていた。これは今回だけでなく、改変される前の歴史でもそうであったはずであるのだ。私がひとりで改変させた歴史において、私は静夫に殺されることになってしまったが――きっと静夫もその後に、これぐらいの時間に息絶えることになったのだろう。現在の私たちは市外の総合病院にまで足をのばしていたので、もうとっくに私が殺された時間を過ぎているはずであるのだ。


 あとは――吉岡医師もである。

 吉岡医師は、すべての真相が解明されたのち、心臓の発作で亡くなることになった。私と母が辿った残りの世界でも――そして、私と母が関与していない最初の世界でも、きっと吉岡医師はあの刻限に急死したのだろうと思われた。


 祖母はおそらく何らかの手段で、静夫の家族を排除しようとする吉岡医師の計画を未然に防いだ。私が想像した通り、日記帳の最後のページを破り捨てた上で、孝信に手渡したのか――その手段は不明であったが、とにかく吉岡医師の悪だくみを粉砕したはずであるのだ。

 そうして吉岡医師は心臓発作で急死して、その歴史では静夫がひとりで取り残されることになった。

 母殺しという大きな罪を抱えて、それを誰に打ち明けることもできないまま、秘密の父親である吉岡医師をも失って――静夫は、世界で孤立することになったのだ。それで唯一の拠り所であった蓮田千夏が兄の隆介と結ばれてしまったため、静夫は狂気と絶望の底に転げ落ちてしまったのだろうと思われた。


(私ひとりじゃ、静夫くんを救うことはできなかった。それどころか、私のせいで静夫くんは吉岡先生を殺すことになっちゃったんだから……余計に状況を悪化させただけなんだ)


 だから私はその報いとして、四十年後に殺されることになったのだろうか。

 あるいは――私たちが介入していない最初の歴史においても、静夫は病院を脱走して、野々宮の家に舞い戻り――土蔵で遺品をあさっていた私を殺すことになったのだろうか。


 その真実を知るすべはない。

 何にせよ、私と母は今の歴史を選び取ったのだ。

 野々宮由梨枝の本性を暴いて、静夫と吉岡医師の秘密を解体し――すべての真相を白日のもとにさらしてみせたのである。


 その上で、人々は幸福そうに笑っていた。

 蓮田千夏も、野々宮隆介も、蓮田節子も、野々宮孝信も――そして、野々宮静夫もだ。その枕もとに残されていた結婚写真が、私と母の尽力の結果であったのだった。


(それに、私と母さんも……静夫くんを恨むことなく、こんな気持ちで見送ることができたんだもんな)


 私がそんな風に考えたとき、いきなり頭に温かいものが置かれた。

 振り返ると、母が悪戯小僧のような顔で笑いながら、私の頭に手の平を置いている。私はそれほど嫌な気持ちにもならなかったが、それでも「やめてよ」とその手を振り払ってみせた。


「お待たせしたね。面倒な手続きは、みんな終わったよ。まだ葬式やら何やらが残ってるけど……どうせ静夫くんを見送りたいのはあたしたちだけなんだから、そっちは可能な限り簡単に済ませるつもりだよ」


「うん。静夫くんが野々宮家のお墓に入れるなら、私は何でもかまわないよ」


「あはは。前回の歴史では、あんなやつを母さんたちと同じ墓に入れるもんかって息巻いてたんだっけ。そんな記憶も、ずいぶん薄らいできちまったよ」


「うん。もしかしたら、古いほうの記憶はいつか消えてなくなっちゃうのかもね」


「もしもそうなら、幸いな話だね。静夫くんを恨んでた記憶なんて、あたしは一刻も早く消え去ってほしいよ」


 母はベンチの後ろに立ったまま、皮肉っぽい顔で笑った。

 きっと、そんな笑顔で内心を包み隠しているのだろう。


「それじゃあ、出発する? どっちにしろ、遺品の整理はするんでしょ? 私ももっと、昔の写真とかを見たいしさ」


「うん。でももうちょっと、休憩させてよ。高速をかっ飛ばすには、気力が必要だからさ」


 母がそんな弱音をこぼすのは、きわめて珍しいことである。

 今の母にとっては、静夫の死というものがそれだけ大きな出来事であるのだ。


「それじゃあ、母さんも座ったら? それとも、もっと涼しい場所に移動する?」


「いやぁ、今は歩くのもしんどいかなぁ」


 そんな風に言いながら、母は背後から私にのしかかってきた。

 むきだしの腕で私の首もとを抱え込み、こめかみのあたりに頬を押しつけてくる。私は少なからず困惑して、今度こそ本心で「やめてよ」と抗議することになった。


「いいじゃん。少しは、甘えさせてよ。あたしは情緒がしっちゃかめっちゃかなんだからさ」


 母はくすくすと笑いながら、私の髪に頬ずりをしてきた。

 私は溜息をつきながら、脱力する。夏の屋外であるのだから暑苦しいことこの上なかったし、母のつけているコロンの甘い香りでむせかえりそうな心地であったのだが――それでも、今の母を邪険に扱う気持ちにはなれなかったのだ。


「なんせ、祖母さんに成り代わってあれこれ奔走したあげく、この結末だからねぇ。さすがのあたしも、くたびれ果てちゃったよ」


「そうだね。……でも、今までで一番幸福な結末だったでしょ?」


「そりゃまあね。だけど……静夫くんを恨みぬく代わりに、静夫くんを失うダメージを抱え込むことになったわけだからねぇ。あたしみたいな人間は、誰かを恨んでるほうが気楽なのかもしれないよ」


 皮肉っぽい響きをはらんだ声で言いながら、母はいっそう強い力で私の身をぎゅっと抱きすくめてきた。


「だけどまあ、あんたと一緒に何かをやりとげるなんて、初めてのことだったもんね。それだけでも、ずいぶん貴重な体験だったかな」


「うん。まあ、そうかもね」


「そうかもねって、何さ。ったく、あっちの世界ではあれこれ可愛い姿を見せてくれたのにさ」


 そんな風に言ってから、母は小さく息をついた。


「それにしても、とんでもない騒ぎだったねぇ。……葉月、言っておくけど、こんな話は絶対によそで触れ回るんじゃないよ?」


「当たり前じゃん。そもそもこんな話、誰にも信じてもらえるはずがないよ」


「あはは。それもそうか。……あたしとあんただけの、絶対の秘密だね」


 絶対の秘密。

 静夫や由梨枝や吉岡医師は、三人だけで絶対の秘密を抱え込みながら、ひそかに狂気を育んでいたのだった。

 母の体温と甘い香りに包まれながら、私は(そういえば……)と、ぼんやり考える。


(私や母さんだって、まぎれもなく由梨枝って人の血を引いてるんだよな)


 母は今、どんな顔で笑っているのだろう。

 あらぬ想念を思い浮かべた私は、思わずぞくりと背筋を震わせてしまったが――母の腕にしっかりと拘束されてしまっていたため、その表情を確認することもままならなかった。


 私は不毛な想念を打ち捨てて、放埓な気分に陥りながら、視線を頭上に上昇させる。

 夏の空は果てしなく青く、入道雲は作り物のように立体的だった。

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夏の輪廻 EDA @eda

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