「今度こそ、私にはすべての真相がわかりました。……静夫くんと吉岡先生に悪い影響を与えていたのは、由梨枝さんだったんです」


 もとの位置に座りなおした葉月は、落ち着いた声でそのように語り始めた。


「そいつはさっきも聞いてるよ。悪い影響って、なんの話なのさ?」


 美沙子が性急に問い質すと、葉月は「やだなぁ」と苦笑した。


「その話を教えてくれたのは、母さんでしょ。ほら、感応精神病の話だよ」


「か、感応精神病? あれが、なんだってのさ?」


 葉月は視線で美沙子をなだめつつ、その他の人々を見回した。


「感応精神病というのは、複数の人間が同じ妄想を共有するという、精神病理学の用語だそうです。それ以外にも、鬱病が伝染するという事例もあるそうで……つまり、似たような気質を持った人間同士で寄り集まって、社会から孤立していると、同じ妄想や精神状態を抱きやすいという症例であるわけですね」


 隆介や孝信は困惑が冷めやらぬ様子で、葉月の言葉を聞いている。

 静夫と吉岡医師は、まだ真っ青な顔で身を震わせていた。


「だから私と母さんは、吉岡先生が静夫くんに悪い影響を与えているんじゃないかと考えていたんです。秘密の親子関係で、由梨枝さんの死にまつわる秘密まで共有していた二人は、社会的に孤立しているようなものですから……吉岡先生のおかしな精神状態が静夫くんに伝染したんじゃないかと、そんな風に思っていたんですね」


「それでどうして、いきなり由梨枝さんが出てくるのさ? あのお人は、こいつらに殺されちまった被害者でしょ?」


「被害者であると同時に、加害者だったんだよ。すべての引き金は、由梨枝さんの存在と行動だったんだ」


 葉月はまた悲しそうに微笑みながら、そのように言いつのった。


「まず、静夫くんと吉岡先生がこんなに怯えている理由だけど……二人は、自分がどんな顔つきをしてるか気づいてなかったんだよ。まあ、あんな顔つきをすることは滅多になかっただろうし、そんなときに鏡を見る機会はなかっただろうから、それも当然の話だよね」


「はん? それはつまり――」


「そう。それは、由梨枝さんとそっくりの顔つきだったんでしょう、静夫くん?」


 静夫は、びくんっと体を震わせた。

 そうして、のろのろと葉月のほうを振り返ったその顔は、涙でしとどに濡れている。もはや不気味な笑みは影すらも残しておらず、彼は幼子のような顔で泣き伏していた。


「静夫くんは由梨枝さんと顔立ちが似ているから、なおさらショックだったろうね。……でも、もう大丈夫だよ。今はいつも通りの静夫くんに戻ってるからね」


「ほ……本当に?」


 そのように反問する静夫の声は、彼を憎悪していた美沙子の胸を詰まらせるほどの悲哀にまみれていた。


「僕があんな、母さんとそっくりの顔をしてたなんて……やっぱり僕は、母さんの子供なんだ。僕は、まともな人間じゃないんだ……」


「落ち着いて、静夫くん。あなただけじゃなく、吉岡先生も由梨枝さんみたいな顔つきになっていたでしょう? それに、隆介くんだって由梨枝さんの子供だけど、あんな顔つきをしたりはしないよ。だからそれは、静夫くんと吉岡先生だけが由梨枝さんの本性を知っていて……その影響を受けていたってことなんだよ」


「ゆ、由梨枝の本性ってのは、なんの話なんだ? あいつほど立派な女は、他にいないはずだぞ」


 孝信が力ない声で発言すると、葉月は申し訳なさそうに「いえ」と否定した。


「孝信さんには、おつらい話だと思います。でも、どうか冷静に聞いてください。……隆介くんと静夫くんのためにも」


 そんな風に言いながら、葉月はかたわらの隆介を振り返った。

 隆介は困惑の思いをねじ伏せるように顔を引き締めて、葉月の視線を真正面から受け止める。


「俺は大丈夫だ。いいから、話を続けてくれ」


「はい。……もちろん由梨枝さんに会ったこともない私は、彼女がどんな人間であったのかを知りません。でもきっと、孝信さんや隆介くんの前では立派な人間を演じていたんでしょう。とても優しくて、献身的で、自分のことよりもまず家族のことを考える、理想的な人間だったと……孝信さんも、そう言っていましたもんね。だけど由梨枝さんは、静夫くんと吉岡先生にだけ本当の姿を見せていたんです」


「だ、だからその、本当の姿っていうのは……?」


「それは、私にもわかりません。ただ、さっき静夫くんたちが見せていたような、薄気味悪い顔で笑う人間だったんでしょうね」


 葉月は優しさと強靭さの同居した面持ちで、その場の面々を見回していった。


「私と母さんはこの数日、野々宮家と吉岡先生について調べていました。その中で、静夫くんと吉岡先生があんな顔つきをする場面を何度か目にしていたんです。そういうとき、二人はとても薄気味が悪くて……人を殺すこともどうとも思っていないような雰囲気でした。だから、この二人のどちらかが由梨枝さんを殺したんじゃないかと疑って、こんな告発の場を作ることになったんです」


 まさか同じ日を何度も繰り返しているとは告白できないため、葉月はそんな言葉で取りつくろっていた。

 ただ美沙子だけは、葉月の言葉の真意をつかんでいる。静夫と吉岡医師は邪悪な思いにとらわれたとき、常にあの不気味な笑顔になっていたのだ。


「でも、そもそもの元凶は由梨枝さんでした。さっき感応精神病の話をしましたけれど、由梨枝さんもその条件に当てはまるんです。そもそも静夫くんが吉岡先生の子供であるかどうかなんて、母親である由梨枝さんにしか判断はできないんですからね。由梨枝さんと吉岡先生と静夫くんは、最初から秘密を共有するグループで――そして由梨枝さんこそが、その秘密のグループの中心的存在だったんだろうと思います」


「なるほどね。普段は貞淑な妻を装いながら、不倫相手の前では本性をさらけだしてたってわけかい。そんな風に説明されれば、納得はしやすいね」


 だんだん葉月の言葉を理解できてきた美沙子は、いくぶん昂揚しながら口をはさんだ。

 仏間で目にした由梨枝の遺影は、とても優美ではかなげな微笑みをたたえていたが――その目もとや口もとには、くっきりと深い皺が刻まれていた。あれもまた、彼女が陰でおぞましい笑みを浮かべていた証であったのだ。


「だけどさ、あんたはどうしていきなりそんな真相に気づくことができたんだい? 由梨枝ってお人がすべての元凶だなんて、そんな話はこれまでいっぺんも出てなかったじゃないのさ?」


「それは、静夫くんの言葉がヒントになったんだよ。静夫くんは私に向かって、『けっきょく千夏ちゃんも、僕の気持ちなんてどうでもいいんだね。僕の人生を、好きに支配したいだけだったんだね』って言ってたでしょう? 千夏ちゃん『も』ってことは、他にも静夫くんの気持ちを踏みつけにして、好きに支配しようとしていた人間がいるってことだから……それはいったい誰のことなんだろうって考えたんだよ」


 美沙子は思わず、驚嘆の声をあげそうになってしまった。

 それは葉月ばかりでなく、かつては吉岡医師にもぶつけられていた言葉であったのだ。そして葉月は美沙子との密談の場においても、静夫と吉岡医師のやりとりに何か引っかかるものを感じるとこぼしていたのだった。


(あたしなんかは診療所でも同じ言葉を聞かされてたのに、すっかり聞き流してたよ。静夫が日記帳を隠していた吉岡に対して、あそこまで怒り狂うことになったのは……吉岡の裏切りが、母親を連想させたってことなのかね)


 美沙子がそんな風に思案している間に、葉月は吉岡医師に向きなおった。

 吉岡医師は死人のような顔色でうつむいていたが、涙までは流していない。そんな吉岡医師に、葉月は穏やかな声で語りかけた。


「吉岡先生。さっきは吉岡先生が日記帳に余計な言葉を書き加えたんじゃないかって疑いをかけてしまいましたけど……あれは、私の思い違いだったんですね?」


 吉岡医師はうつむいたまま、「うん」と小さな声をこぼした。


「僕は確かに、孝信さんや隆介くんを静夫くんのそばから排除しようと考えていた。……でも、日記帳の内容に手を加えたりはしていないよ」


「え? それじゃあ、どういうことなのさ? あの、隆介くんが包丁を持ち出したっていう文章は――」


「あれも、由梨枝さん自身の文章だったんだよ。それで、隆介くんが自分に殺意を抱いていると思わせたかったんだ。それで本当は、由梨枝さん自身が包丁を持ち出して――」


 葉月はそこで言いよどみ、必死の表情で隆介の手を取った。

 隆介は、どこか透徹した面持ちで葉月の手を握り返す。


「俺に殺されそうになったから、包丁を奪い取って返り討ちにした。……母さんは、そういう筋書きにしたかったってわけだな」


「……はい。不倫の秘密を守るためには、隆介くんの口を封じるしかないと考えたんでしょう。だから、のちのちの警察の取り調べに備えて、あんな日記を書き残したんだと思います。やむを得ない状況で実の子供を死なせることになった、非業の母という立場を確保するために」


 葉月がそのように言葉を重ねても、隆介が取り乱すことはなかった。

 きっと隆介は由梨枝の不倫を知った時点で、彼女の幻影から半ば解放されていたのだろう。由梨枝は貞淑な母どころか、隆介と孝信を欺いて、静夫にこのような絶望を負わせた悪女であったのだ。


(それじゃあ、後半部分だけ字が震えていたのも、自分がそれだけ恐怖していたっていう演出のためだったのかい! そうまでして、息子殺しを正当化しようだなんて……そんなもん、悪女なんていう甘っちょろい言葉じゃ片付かないやり口だよ!)


 美沙子は、心臓が苦しくなるほどの憤激を覚えることになってしまった。

 自分は娘の葉月を救うために、これだけ四苦八苦していたというのに――それはすべて、由梨枝という毒婦が実の息子を殺そうと目論んでいたことが原因であったのだ。

 その日の夜、自分の寝室で日記をしたためていた由梨枝は、やはりあのおぞましい笑みに顔を歪めていたのだろうか。

 そんな想像をするだけで、美沙子は吐き気を覚えそうなほどであった。


「それなら俺は、誰かのおかげで命を救われたってわけだな。……母さんを殺したのは、静夫と吉岡のどっちなんだ?」


 隆介が静かな声で問いかけると、葉月は覚悟を決めた様子で静夫に向きなおった。


「静夫くん。あなたは右の脇腹に、大きな傷を負ってるよね。それは……由梨枝さんに包丁で刺された傷痕なんじゃないの? 由梨枝さんが左利きだったら、体の右側を刺されるのが自然なように思えるしね」


「…………」


「あなたは、隆介くんが由梨枝さんを呼び出すところを目撃した。その後で、由梨枝さんの日記帳を盗み見て……キッチンから本当に包丁がなくなってることに気づいたんでしょう? それで由梨枝さんの思惑を見抜いたあなたは、吉岡先生に連絡を入れてから、由梨枝さんの後を追った――それが真相なんじゃないのかなぁ?」


「そうだよ」と答えたのは、静夫ではなく吉岡医師であった。

 静夫は新たな涙をこぼしながら、吉岡医師を振り返る。


「駄目だよ、吉岡先生……そんな話をみんなに知られたら……」


「いや。もう何も隠し通すことはできないよ。僕たちが由梨枝さんの秘密主義を真似したって、もうどうにもならないんだ」


 吉岡医師は限りなく優しげな眼差しで静夫の泣き顔を見つめてから、語り始めた。


「僕が静夫くんから連絡をもらったのは、もう0時になる寸前でした。それで僕が大慌てで駆けつけると……静夫くんが脇腹から血を流しながら、川べりで倒れていたんです。静夫くんは、なんとか由梨枝さんを説得しようと試みたんだけど……由梨枝さんにとって、僕と静夫くんは奴隷を兼ねた愛玩動物に過ぎませんからね。由梨枝さんが、そんな説得に耳を貸すわけがありません。それで逆上した由梨枝さんは、静夫くんを殺そうとして……それに抵抗した静夫くんが、由梨枝さんを川に突き落とすことになってしまったんです」


「だったら、それこそ正当防衛じゃないのさ! そんな話は、隠す必要もないだろうよ!」


 美沙子が思わず怒鳴り声をあげると、吉岡医師はわずかに瞳を陰らせた。


「それが、僕たちのやり方なんです。都合の悪いことはすべて押し隠して、表面上の平静を取りつくろう……僕たちはそうやって、十数年間も生きてきたんですよ。それこそがもっとも正しいやり方なんだと、ずっと信じ込んでいたんです」


「……あんたたちは、大馬鹿だ」


「ええ。否定はしませんよ。……でも、静夫くんに罪はありません。静夫くんをそんな風に育ててしまったのは、僕と由梨枝さんなんです」


 両手を拘束された吉岡医師は、膝だけで進み出た。


「静夫くんは由梨枝さんに支配されながら、それでも隆介くんと孝信さんを大事に思っていました。だから隆介くんを助けるために、初めて由梨枝さんに反抗したんです。それがどれだけの覚悟と決断であったか、どうか思いやってあげてください。静夫くんは……僕たちのせいで、心に深い傷を負ってしまっているんです」


 すると、葉月がとても優しい声音で静夫に語りかけた。


「ねえ、静夫くん。あなたが由梨枝さんの日記帳を探し出そうとしていたのは……それを誰にも読まれない内に、処分したかったからなんでしょう?」


 静夫はぽたぽたと涙をこぼしながら、「うん……」とうなずいた。

 葉月は慈愛に満ちあふれた眼差しで、その泣き顔を見つめている。


「あんな日記を読まれたら、隆介くんが由梨枝さんを殺したんだって疑われちゃうもんね。静夫くんは、そこでも隆介くんを守ろうとしてあげたんだね」


「うん……でも、僕は迷ってた……あの日記帳を千夏ちゃんに読ませたら、隆介兄さんのことを嫌いになるんじゃないかって……そうしたら、千夏ちゃんが僕を好きになってくれるんじゃないかって……そんな卑怯なことも考えてたんだ……」


「それは、後から思いついた話でしょう? それに……隆介くんやお父さんに対する後ろめたさがなかったら、私ひとりに執着することにもならなかったはずだよ」


 葉月のそんな言葉によって、静夫はいっそうの涙をこぼすことになった。

 その泣き顔をしっかり心に焼きつけてから、美沙子は吉岡医師のほうに視線を転じる。


「で、あんたはそんな静夫くんの気持ちを知りながら、日記帳を隠し持ってたってわけだね。静夫くんがこれだけ家族のことを大事にしてると知りながら、どうしてそんな真似をしたのさ?」


「……それは僕の、身勝手な愛情です。僕は最初から、隆介くんや孝信さんを憎んでいましたしね」


 と――吉岡医師の瞳から光が消え、その口が醜く吊り上がった。


「隆介くんも孝信さんも、静夫くんの苦しみに気づくことなく……由梨枝さんの手の平で転がされていました。あなたがたが理想的な家庭を演じれば演じるほど、静夫くんがどれだけ傷ついたか……あなたがたには、想像がつきますか? あなたがたの存在は、静夫くんを苦しめるだけだ。だから僕は、あなたがたを静夫くんのそばから排除したかったのですよ」


「だったら、あんたがどうにかしてやればよかっただろうよ! 陰でこそこそ不倫を楽しんでいたくせに、何を偉そうな口を叩いてるのさ!」


「ええ。僕は、由梨枝さんを愛していました。そうじゃなかったら……とっくにこの手で絞め殺していましたよ。由梨枝さんこそ、静夫くんを不幸にした元凶なんですからね」


 吉岡医師の痩せ細った顔が、どんどん醜く引き攣っていく。

 しかし、光を失ったその瞳には、涙も浮かべられていた。


「でも僕は、由梨枝さんを深く憎みながら、同じぐらいの気持ちで愛していました。そしてそれは、静夫くんも同様だったんです。もしも静夫くんが、由梨枝さんを愛していなかったのなら……僕だって、彼女を殺す覚悟を固められたかもしれません。でも、静夫くんが由梨枝さんを愛している以上、そんな真似はできませんでした。静夫くんから大事な母親を奪うだなんて……そんなこと、できるわけがないでしょう? 静夫くんは、由梨枝さんのことも孝信さんのことも隆介くんのことも、同じぐらいの強い気持ちで愛していたから……だから、これほどに苦しんでいるんです」


 吉岡医師の声は何の感情もうかがわせないまま、ただ凄愴なまでの気迫に満ちていた。

 さしもの美沙子がその気迫に気圧されている間に、吉岡医師はさらに言葉を重ねていく。


「そんな由梨枝さんを自分のせいで死なせてしまって、静夫くんがどれだけ苦しんだか理解できますか? それでも静夫くんは、隆介くんや孝信さんを頼ることもできず……君に救いを求めたんですよ、蓮田千夏さん。君が隆介くんに想いを寄せていることに気づきながら、君に心を寄せずにはいられなかったんです。でも……君は静夫くんの想いを受け入れるどころか、こうして静夫くんを破滅させようとしました」


「ちょ、ちょっと待ちなよ! 千夏にそんな責任を負わせるのは――」


「僕は、君を恨みます。静夫くんを傷つけた君を、僕は絶対に許しません」


 そんな呪いの言葉を吐いてから、吉岡医師は真っ黒な目で静夫のほうを見た。


「だから……静夫くんは、彼女を恨んではいけないよ。君の分まで、僕が彼女を恨むから……君は、僕と由梨枝さんの呪縛から逃げるんだ」


「よしおか……せんせい……」


 静夫は、ただ涙をこぼし続けている。

 吉岡医師もまた、醜い笑顔で涙をこぼしていた。


「君がどうして僕のことを信じきれないのか、ようやくわかったよ。僕は自分でも気づかない内に、由梨枝さんの影響を受けてしまっていたんだね。きっと僕は、今も醜い顔で笑ってしまっているんだろう? こんなおぞましい顔つきで笑う人間のことを、心から信頼できるはずがないよね」


「でも……僕も母さんみたいな顔つきになっていたんでしょう? それでも、吉岡先生は――」


「だって僕は、父親だからね。たとえ君が、由梨枝さんとそっくり同じ人間であったとしても……憎むことなく、愛そうと決めていたよ」


 その瞬間、「ふざけるな!」という怒号が響きわたった。

 孝信が、憤激の形相で立ち上がる。美沙子は思わず腰を浮かせかけたが、彼の瞳に憎悪や狂気の光は見られなかった。


「黙って聞いていれば、勝手なことばかり抜かしやがって……静夫は、俺の子だ! 貴様なんぞに、父親づらをさせるもんか!」


 吉岡医師はおぞましい面相のまま、咽喉で笑った。


「それでいいんです。感謝しますよ、孝信さん。……感謝のしるしに、いいことを教えてあげましょう。由梨枝さんはあなたがたに本性を隠していましたけれど、決して愛していなかったわけではありません。むしろ、愛していたからこそ、自分本位で残酷な本性を隠し通そうと腐心していたんです。隆介くんを殺そうとしたのも……隆介くんに嫌われるぐらいなら、消し去ってしまおうという結論に至ったんでしょう。それもまた、彼女なりの愛情表現なのですよ」


「そんな御託は、必要ねえ! 由梨枝がどんな性悪女だったとしても、あいつは俺の女房だ! 貴様なんざ、泥棒猫にすぎねえんだよ!」


「それでいいんです」と繰り返しながら、吉岡医師はふいに全身を痙攣させた。


「では……そろそろこの拘束を解いていただけますか……? このままだと、あなたがたにあらぬ疑いをかけられてしまうかもしれませんからね……」


「あんた! いったい、どうしたのさ!」


 吉岡医師の隣に座していた美沙子が、真っ先に困惑の声をあげることになった。

 吉岡医師の顔がどんどん血の気を失っていき、脂汗を浮かべ始めたのだ。


「もう僕は、限界かもしれません……僕はね、蓮田さん……あなたと同じ疾患を心臓に抱えているんですよ……それも、あなたより重篤な状態で……」


 そんな言葉を振り絞りながら、吉岡医師は畳に突っ伏した。

 静夫は「吉岡先生!」と悲鳴まじりの声をあげながら、その背中に取りすがる。


「吉岡先生は、病気なの? 僕、そんな話は聞いてないよ!」


「うん……ごめんね、静夫くん……最後まで、君の信用を裏切ってしまったね……」


 びくびくと体を痙攣させながら、吉岡医師はそう言った。


「僕はいつ寿命が尽きるかもわからなかったから……それで、焦ってしまったんだ……君の気持ちも考えず、勝手な真似をしようとして……本当に、申し訳なく思っているよ……」


「吉岡先生……」


「でも、僕を許さなくていい……むしろ、そんな身勝手な言い草を、憎んでくれ……君は、こんな人間になっちゃいけないんだ……僕と由梨枝さんさえいなくなれば、きっと君は……」


 そんな言葉を最後に、吉岡医師はすべての動きを停止させた。

 その目は何の輝きも灯していなかったが、それは彼が絶命したためであり――その口もとの不気味な笑みは、人間らしい優しげな笑みに形を変えていた。


「くそっ! 手前ひとりだけ、言い逃げするつもりか? すぐに救急車を呼ぶから、その粘着テープを剥がしておけよ!」


 孝信は勇猛なる面持ちで、居間を飛び出していった。

 しかし今から救急車を呼んだところで、この運命を覆すことは不可能だろう。市街地の病院からこの村落まで、どんなに急いでも二十分以上はかかるはずであるのだ。


 静夫は吉岡医師の背中に取りすがったまま、こらえようもなく涙をこぼしている。

 そのほっそりとした肩に手を置いたのは、隆介であった。


 静夫は幼子のような泣き顔で、そちらを振り返る。

 そんな静夫に、隆介はぎこちなく微笑みかけた。


「そんな顔すんなよ、静夫。……お前の気持ちに気づいてやれなくて、ごめんな」


 美沙子は息をつきながら、葉月のほうを見た。

 葉月もまた子供のように涙を流しながら、美沙子のほうを振り返ってくる。

 そして葉月が、あどけなく微笑もうとしたとき――突如として、セピア色の奔流が美沙子の意識を呑み込んだのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る