14 お仕事
「ここでは
リサは呟いた。
「エイチってなんだ?」
スライ・スライは言った。
リサは答える。
答えようと、する。
「すごっ…………すごっく……あた……たっ……頭が、んが、い……っ……頭、を、は、はぁ……は、働かっ、せるっっ、っつ、って、いう、っっっっ、こと、です、よっ」
まばたきする内に見ず知らずの場所に出てしまったリサは、とんでもないパニックの中にあった。辺りを見回してみるが、パニックは酷くなるばかり。サイケデリックな市街地ダンジョンにいたかと思ったら、次の瞬間……
……まるで出版社で、サイン本を作るために缶詰にされた会議室のような場所にいる。なのに横にいるゴブリンときたら、キンユウってなぁに、と大して興味もないのに聞いてくる子どものような顔で、こちらを見上げてくるばかり。
「頭突きか?」
人を生きたまま喰いそうな悪辣な顔つきにしては、澄んだ綺麗な瞳でそんなことを言われると、なにも言えなくなってしまう。ふと、ゴブリン語に叡智はあるのだろうか、と考えるともっと言葉が詰まる。
リサは数秒、口をぱくぱくさせてから説明するのを諦めて、ただ首を振った。この場にいるのがただの人間、子どもだったとしても、ホワイトボードのこと、そこにある単語の意味、文脈を、自分が口頭で解説できるとは、とうてい思えない。文章にして解説するのなら、いくらでもしたいし、できるのだけど、話してそれを伝えようとすると、とたん、両手両足を縛られてむりやり球技をやらされるような、そんないつもの感覚が襲ってくる。慣れた相手ならそこまでは出ない吃音も、知り合って間もないスライ・スライ相手だと、特にひどくなってしまう。
自分が情けなくて、泣きたくなる。
こんな簡単なこともできない自分が、たまらなく煩わしい。
場違いでしかない自分が、この上なく惨めに思える。
けどそんな感情さえ、自分は表に現すことができない。
コミュニケーションなんて知ったこっちゃない、と、すっぱり切り捨てられるくせに、飄々と人の間をすり抜けていける竜胆がうらやましかった。使い込まれ、よく手入れされた、濡れたように光る滑らかな革にも似たしなやかな強靱さは、自分にはない。
自分が一番強くて、かわいくて、綺麗で、頭が良くて、運動もできて、なにもかも最高なことは自分が一番よく知ってるから、誰になにを言われても、言われなくても、知ったこっちゃない、という色葉がうらやましくてたまらなかった。燦然と輝く最上質の玉鋼のような強靱さは、ただ、それが満月であるかのように見上げるしかできない。
今こうなってしまった世界では、自分には、なにもない。
なにもないどころか、生きているだけで邪魔になる。
思考がどんどん後ろ向きになっているのが自分でもわかったけど、いつものように、止められなかった。暴走し始めた自意識に首輪をつける手段を、15才のリサはまだ知らない。
物心ついたときからある吃音は、リサにとって、自分が特別な印であるように思えていた。
こんな風におはなしする人、ほかにいないもん。
リサの通っていたインターナショナル幼児教育施設に、父親が全力で圧力と金をかけ、特別な配慮が隅々まで行き届いた教育を受けていたことは、理由の1つだろう。
だがもっと大きな理由は、業界1位の広告代理店でコピーライターの仕事をしていた母親が、リサのために言いきかせたこと、だったのかもしれない。
……言葉っていうのは、とっても大きくて、とっても大切なものだから、心で生まれて、喉を通って、お口から出すときにはね、とっても、とーっても優しく運んであげないといけないの。
そうしないと、言葉はね、ギザギザ、トゲトゲ、になって、人にぶつかって、痛くさせちゃうから。ふふふ、お母さん、それでたくさん、怒られちゃうのよ、会社で、おじさんたちから、こらーっ、って。
……リサがお話するとき、つっかえちゃうのはね……言葉を、すっごく親切に運ぼうとしてるんだと、お母さんは思うな。お母さんはそれ、すごく、すっごーく、すき。私も、言葉をすっごく、大切にしてるから。
……もちろんこの後には
「でもね、世の中の人は、そうじゃない人も多いの。だから、リサのこと、バカにしたり、からかったりしてくる人も、いると思う。だから、リサ、これからお母さんとちょっとずつ練習して、すらすら言葉を運べるようにしない? そしたら、もっと言葉が好きになれるから。助けてくれる人たちも、いーーっぱい、いるの」
と続くのだが……
……もう、聞いていなかった。後に、吃音症とはっきりした診断が出るほどではなかったリサの教育方針を巡り、父親と母親は激しく対立していくことになるのだが、それも聞いていなかった。心底、どうでもよかった。
言葉を大事にする。
それをやってかなきゃいけないんだ、と、思った。
生きていく、だとか、職業にする、だとか、そういったことはまだ幼かった彼女にはわからなかったけれど、横断歩道は手を上げて渡りましょう、お外から帰ったらお手々を洗おうね、よりも遙かにそれは、大切なことのように、思えてしまったのだ。
だから、だろうか。
時は流れ。
父親の名付けと、それに反対しなかった母親に対して、適切な量の敵意と諦観を身につけ、彼女は早々に家を出て、1人暮らしをしようとした。そして生活資金を手に入れる手段として選んだのが、「小説家になろう」に連載して書籍化を狙うこと。目を覆いたくなるような無謀と無知だが、彼女の中で渦巻く情熱に煽られた陽炎は、それらをうまく覆い隠してしまった。
ただ彼女は情熱を、過分に持っていた。
自分の身を、焼くほどに。
幼いときに植え付けられた言葉の種火は、物語の大火とキャラクターたちの雷光へと成長していた。そして若さは、時間を与えた。無知で無謀な若者が、もがきながら、あがきながら、技術を掴んでいく時間を。
そして彼女には、幸運があった……
……不運もあった。
リサにとって人生初の書籍を出版した会社が、彼女の本では利益を出していたものの、それで「この商売はボロい」と思ってしまったのだ。もはやネット小説の書籍化は過当競争市場、爆死していった人々の血で真っ赤に染まった、まさしくレッド・オーシャンであると気付かないまま1年が過ぎてしまい……
……会社ビルが物理的に傾くほどの返本が来そうになって慌ててネット小説の書籍化から撤退した。もちろんリサの本も含めて。調子に乗った重版施策のせいで、リサの本が戦犯扱いされたほどだった。最も利益を上げていたのは彼女のシリーズだったというのに。
が、リサにはそんなこと、どうでも良かった。
無能な会社員がフリーランスに責任を押しつける、というのはきっと、作家の世界に限らずどこでもあることだろう。
生き続け、書き続ける。
そうしていられるのなら、後はもう、おまけのようなものだ。
吃音というハンディキャップをバネに成功した美少女中学生作家、的に、吐き気が出そうなほどわかりやすいキャッチフレーズをつけられたとしても、おまけの中ならどうでもいい。くだらないと思いつつ買った食玩でどんなおまけが出たとしても、数分後にはどうでもよくなる。
書いている時以外は、全部、おまけだ。
ところで今はその、おまけの人生だ。
おそらくもう二度と、本編は帰ってこない。
私は生きながら、店舗特典おまけSSに閉じ込められてしまったんだ。
「エイチ、エイチ、エイチ……えっち!?」
ぶつぶつと呟くスライ・スライを見ながら物思いにふけるリサ。それでも彼が、わかったぞ!? という顔でこちらを見上げてくると少し、笑いが出てしまう。首を振りながら考える。
純粋極まりない子どものようでいて、その性根は間違いなく邪悪この上ない魔物、それもとびきりに狂ったゴブリン、
世界がこんな風になってしまって、作家として生きられなくなってしまった。そんなことをいつまでもうじうじと思い悩み、けれど、自分が悩んでいることを悟らせないよう、心に冷や汗をかきながら生きているのがいつかバレて、とんでもない恥をかいてしまうんじゃないか。
そんな悩み。
「そ、あ……っっ……かんっっ、考え、考えろ、って、こと、です」
「考える……考える……なにを?」
「あっ、っっ……と、扉……開けたら…………った、っっ、わかっっ、ると、思い、まっっ、す」
「罠があるのではないか?」
「…………だと、思います、けど……そっ……そしぇ、しぇ……それ、を、考えて、っっく、ぐり、くぐりっっ、ぬけぉ、ろ、ぬけろ、ってこと、だと……は、はい」
そう言うと、ふと、スライ・スライは言葉を切り、じぃ、とリサを見つめた。やおら彼女に近寄り、顔を近づけて言う。吐息の生暖かさがわかるほどの距離。
「
「ひぇっっ!? な、あ、い、や、あ、……っっっやっ」
慌てて首をぶるぶる、頭が痛くなりそうなほど激しく横に振る。
「ぐふふふふ……良い。人間どもにはオレを怖がってもらわんとな……鉄方、よく伝えるのだぞ」
小粋に帽子を傾け、空いた手でナイフをくるくると回してみせるスライ・スライ。直刃のナイフがバタフライナイフのように見える、鮮やかな
「…………っっつ、つー、つた、伝える?」
「貴様、八神から作家だと聞いたぞ? それを聞いてから、2人になれる機会を待っておったのだ」
ナイフを勢いよく宙に放り投げるスライ・スライ。
くるくると回転しながら落ちてくるそれに向かって、大きく口を開けて待ち構える。リサが息を飲むと……
がちんっ。
ナイフの刃先だけを見事にくわえ、得意げに笑ってみせる。
今度はぷっと吐き出したそれを、革靴の先端で蹴り上げ、リフティングめいた技。最後はまた、持ち上げたナイフを口でがちんっ。したかと思うと、ぺーっ! と吐き出し、なにやら見得を切る。
「ゴブリンの中のゴブリン、永遠の英雄、スライ・スライ・ゴグル! オレの物語はいくつか人間の吟遊詩人どもが歌っておったが……どれもへっぽこでな! オレをおもしろピエロ扱いする始末よ! ゴブリンどもの吟遊詩人はさらに始末が悪い! なにを歌っておるかさっぱりわからなくて面白すぎる! オレの偉大さが伝わらん!」
ナイフをひょいひょいとジャグリングしながら、忌々しそうに語る。
「だから鉄方! 貴様はオレの活躍を、逐一、よく見ておれ! そして書き上げろ! ちょー売れるぞ! コーラおごれよ!」
リサは何回か目をしばたたいた。
そして、気付いた。
おそらく。
きっと。
いや、絶対。
世界で一番古い職業は、娼婦じゃないはずだ。
洞窟の壁に、獣耳をつけた人を、描いた人がいた。
その前に、その話をした人がいた。
その話は一体、どこから来たのか?
私はどうして、もう無理だ、なんて思ってるんだろう?
「そ……それ、なら……あっ……その…………英雄? ど、どうして、英雄、なんですか、スライ・スライ、さんは……? 私、知らなくて……その……すみま、せん」
書き続け、生き続ける。
それ以外のことは、おまけ。
なら自分は。
どんな世界の、どこにいたって。
作家でいられるはずだ。
たとえ今が、どんなに物語じみた世界であったとしても。
「ぐふふふ……肌で感じよ! まずは、エイチ? えっち? とやらをなんとかするのだ、今頃あの2人は、オレがいなくて怯えているだろうからな! 早く戻ってやらんといかん! きっとビビって泣いてるぜリンドのやつ!」
少しだけ、ほんの少しだけ。
このゴブリンは本当に英雄なのかもしれない。リサはそう思った。
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