二〇一六年八月十四日 2016/08/14(日)昼間

 ちょうど盆休みが重なった日曜日、澄子は故郷の鈴峰町に帰省した。


 故郷といっても、電車で一時間半くらいだ。最近、他線の乗り入れがあった関係で、最寄駅が始発となり、鈴峰駅まで座って行けるようになった。


 ――それでも、ほとんど帰ることないな。


 澄子は、中学卒業と同時に両親が離婚、鈴峰町を離れた。

 その後、母親は年下の男性と再婚し、澄子には新しい父親が突然できる。三年間はどうにか上手く家族として機能したが、澄子が女子大に進学して寮生活のため家を出た後、残された両親だけが、再び鈴峰町で暮らし始めた。自然が多い地域に住みたい、そんな理由だったようだ。


 両親は今も鈴峰町に暮らしているが、澄子は帰省しても日帰りだ。


 何となく、自分の居場所はそこにはないと感じていたからだ。


 ――気を遣われるのも、ね。


 四十歳前の独身の娘に、母親は何も言わない。


 中学の時の痴漢被害のせいで、澄子が男性恐怖症になったことが、母親には相当ショックだったようで、男の話を振ってくることは一切なかった。それは母親の気遣いであり優しさでもあるわけだが、新しい父親はその事件を知らない。当然に、結婚が話題に上ることが予想される。


 それ以上に、澄子は母親が苦しむのを見たくなかった。


 今回も父親が外出している隙を狙って、母親と軽く話をして実家を後にした。



 柿坂の話はしていない。

 何となく、澄子はまだ黙っておきたかった。



 今日は、緑風プロジェクトの野外活動があるとの連絡を受け、それの手伝いにも参加することにしていた。渓谷の中を歩くかもしれないため、服装もアウトドアスタイルだ。駅前ターミナルからバスに乗り込み、澄子は懐かしい学校の跡地へと向かった。


 車窓からは、町のシンボルでもある大川の流れが続く。真夏の日差しが反射し、あまりの眩しさに目をつぶる。


 子どもの頃は日焼けも気にせず、よくこの川で遊んだ。きっと今日もその時の思い出話に花が咲くのだろう。


 ――考えてみれば、この道を通るのは卒業以来か。


 澄子が通っていた小学校と中学校はほぼ隣接していた。楽しく懐かしい小学校の思い出の先には、自然とあの忌まわしい事件がよみがえってしまう。


 そうはいっても、正確にはもうほとんど覚えていない。


 当時、極度の恐怖心が、澄子の記憶に何かしらの作用をしたと、大人たちに教えられた。


 ――保健の先生だっけ……運が良かったとか、言われたのは覚えているな。



 いくら不幸中の幸いだと言われようと、男への恐怖という爪痕は残されていたのだけれど。


 カーブの先から、青々とした山の稜線が目に飛び込む。


 ――それでも、今は幸せだから。


 澄子は携帯に保存した写真を見つめた。


 二胡を調弦する、愛しい人がそこにはいる。


 ゴールデンウィークのコンサートで、こっそり撮影したものだ。これだけでも相当な勇気を出した。


 ようやく、並んで歩くことも出来るようになった今――。


 ――二人で一緒に写真を撮る日なんて、来るのかな。


 恐れ多くて、考えただけで身体が震える。正面から見つめるのでさえ、まだ少し緊張するというのに。


 写真の人は、左手を反転させ、小さな糸巻を指で転がしている。

 澄子は、柿坂の調弦の仕草が好きだった。



 それは、誰かを抱き寄せているようにも見えて――。



 途端に胸が苦しくなる。


「バカ……何を考えているんだ、わたしは」


 浅い呼吸とともに、思わず声がこぼれた。


 しかし、澄子の他に乗客がいないバスは唸りながら山道を登って行った。



 小学校と中学校はそれぞれ職業訓練校と、何の施設かわからない白い建物に変わっていた。校舎の原型はあるものの、真新しい外壁は懐かしさの欠片もない。そういう時代なのだと澄子は無理矢理に納得した。


 降りたバス停から建物を眺めていると、少しふくよかな女性がこちらに歩いて来るのが見えた。同じようにリュックとトレッキングのシューズを履いている。


 わずかに残された面影に、慌てて澄子が頭を下げると、相手もそれに倣った。


「えっと……和泉さん、かな」


「は、はい」


「わあ、お久しぶり!どうも、メールを送った本間です。本間理代」


 そして、笑いながら自分の腹を指差した。


「変わり過ぎてごめんねぇ。これ、オメデタじゃないから」


 呆然とする澄子の前で、かつての同級生、理代は豪快に笑った。


 ――確か、テニス部のエースで、学年のアイドルだったはずだよね。


 自分の見解が相手にとって失礼なのは重々承知だが、それほど理代の姿は変貌していた。細身で小柄だった体型が、今では顔までふっくらとしている。


 ――でも。


 こんなに親しみやすい子だったのか、澄子はそっちの方が驚いた。


 あの当時は、高嶺の花として男子は当然、女子も少し近寄りがたい存在だった。澄子自身、地味で大人しい中学時代、まともに話をした記憶もない。体型が変わっただけで、親しみやすさが湧くとは考えにくい。


 澄子が少し戸惑っていると、理代は持っていたコンビニの袋からペットボトルの麦茶を出した。


「はい、どうぞ。それじゃあ、出発!」


「え?」


 澄子は思わずあたりを見渡した。


「出発って……」


 すると、理代は肩をすくめて笑った。


「私たちだけなのよ、今日は」


「そ、そうなの?」


「みんなお盆休みだけど、逆に家のことで忙しいみたいね。心配しないで!大川の上流で、少し写真を撮るだけだから」


 理代はバッグからアルバムやら書類やらを取り出した。


「これ、小学校の遠足で行った時の大川渓谷。こっちは町役場の郷土資料をコピーしたんだけど……どのあたりかな。わ、アオサギが写ってるね」


 理代の興奮した話しぶりに、澄子は少し驚いた。中学の時の高嶺の花のイメージとは程遠い。


「ね、当時はワイルド満載だったけど、今はこの上に高速道路が走ってさ……。少しずつ今は開発されて、渓谷も削られて、アウトレットとか出来ちゃった」


「……」


「そんなわけで、ビフォーアフター的な?そういう写真を撮っていこうと思います」


 なかなか切なくなる提案だが、自然保護の観点からしたら、必要なことかもしれない。


「残されている自然もクローズアップしたいな」


 澄子がつぶやくと、理代も大きくうなずいた。


「そう!大事なのはこれからだよって、そこもアピールしよう!」


 二十年以上会っていなかった同級生と、意気投合して澄子は不思議な心地になった。しかも、当時はほとんど接点のない高嶺の花だ。


 理代も同じことを感じたのか、少し照れくさそうに言った。


「会う人、会う人みんなに驚かれるけど、これが私だから」


「え?」


「昔はさ、自分がどういう風に見られているか気にする子だったんだよねぇ。でも、吹っ切れちゃった」


 そこで、また豪快に笑う。


「和泉さんって、クラスでは何て呼ばれてたっけ」


「わたし?ああ、えっと……スミとか、スミちゃんとか」


「じゃあ、スミちゃんで良い?私も理代ちゃんが良いな」


「理代ちゃん」


「うん、ありがとう」


 まるで、小学生のようなやり取りに、二人はおかしくなって笑った。


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