二〇一六年八月七日 2016/08/07(日)昼間

「……どうしたんです。こっちが食いたいんですか」


 柿坂の鋭い目がわずかに細められるや、澄子はようやく我に返った。


「い、いいえ!違います。スミマセン、ボーっとしていました……」


 店員が微笑みながら梅おろし蕎麦を澄子の前に置いた。


「ごゆっくりどうぞ」


 澄子は店員と柿坂に代わる代わる頭を下げ、深いため息を吐いた。


 柿坂が鴨せいろに箸をつけた。


「お疲れのようですね。夏バテですか」


「あ、いえ。そうじゃないです」


 澄子は慌てて割り箸を割った。


 結局、紗枝からおすすめの『お出かけ』場所を聞きそびれてしまい、今週も柿坂と休日ランチをするだけにとどまったのだが――。


 あの日、友人から手を繋ぐことについての話を聞いて以来、柿坂の両手が気になって仕方がない。


 ――そんなこと、言えるはずない。


 澄子は、箸に添えられた愛しい人の指先を見つめた。


 細長いながらも、ところどころは骨ばって男らしい。つい目で追ってしまう。


 特別に触れたいとは思わない。ただ、見ているだけで気持ちが高ぶってくる。


 ――だって、あんなに綺麗なんだよ。


 そんな澄子の内心を知るわけもなく、柿坂が蕎麦をすすった。


「それで、今日は相談があるんでしたっけ?」


「へ、あ、はい!」


 澄子は声を裏返しながら応答した。

 さすがに不審に思ったのか、そこで柿坂が箸を止めた。


「また……周りから何か吹き込まれたんですかね」


「え」


 それはそれで大当たりだが、今までとは少し違う。


 ――手を繋ぐのは、大事なことですか?

 ――でも、わたしはあなたの手を見ているだけで……。


「わたし、本当に幸せなんです」


「は」


「あ」


 カラン、グラスの氷が音を立てた。


 柿坂が片方の眉を釣り上げ、小さく咳払いをする。


「それは……ようございました」


 澄子も自分が口にした言葉と愛しい人の表情に、猛烈に顔を赤くさせる。


 ――柿坂さん、可愛い。


 実は、最近わかったことがあった。


 柿坂は、照れると片方の眉が持ち上がる。最初は機嫌が悪くなったのかと心配になったが、彼なりの照れ隠しらしい。


 こうして、以前よりも柿坂との関係が密になっていることに、素直に喜びを感じた。


 つい、澄子は笑みをこぼしながら、蕎麦をすすった。


 それを見て、柿坂も小さく笑う。


「相談したいことがあると、メールで送ってくるもんだから、心配したんですよ」


「あ、ご相談はあるんです。えっと……今月の二十一日に、わたしの実家の方で花火大会がありまして」


 澄子は手帳をテーブルの上に置くと、八月のカレンダーを柿坂に見せた。


「実はわたしも、お祭りにボランティア参加をすることになっているんです……それで柿坂さんと、音楽仲間の皆さんのご都合が良ければ、お祭りのステージで演奏をお願いできないかなと思いまして。それで、えっと」


 その時、鋭い目でしばらくカレンダーを見つめていた柿坂が、ゆっくりと首をかしげた。


「八月二十一日、花火大会って……すずみね祭りのことですか?」


「そ、そうです!」


「アンタの地元だったんですか。その日、メンバーがすでに申し込んで参加することになっていますよ、私」


「えっ」


 澄子は危うく大声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。


 ――うわ、どうしよう。嬉しい。


 舞い上がる気持ちに、顔がにやけてくる。澄子は今すぐにでも、当日のスケジュールを立ててしまいたくなった。


 そんな澄子と対照的に、柿坂が静かに口を開いた。


「そのメンバーが町の人から聞いたらしいですが、今回の祭りは、存続そのものを懸けた大事なイベントになるとか……鈴峰町の名前を残すために」


「あ、はい。そうなんです」


「アンタが、そのために故郷のボランティアに参加すると聞いて、少し感動しましたよ」


「……」


「私も、力添えできるよう頑張ります」


 澄子は一人はしゃいでいた自分が少し恥ずかしくなった。

 住民でもない柿坂の言葉に、頭が垂れる想いがした。


「あの、何だかごめんなさい。一人で子どもみたいに……」


「いいじゃないですか。祭りとはそういうもんでしょうよ」

 

 ――。


 澄子は、割り箸を握りしめると、真っ直ぐ柿坂を見つめた。


「じ、じゃあ、あの、あの、わたしと一緒に……花火を……見てくれますか」


 すぐに、柿坂がうなずいた。


「望むところですよ」


 その目元がすこしだけ柔らかくなる。


 澄子は、嬉しさと恥ずかしさのあまり思わず下を向いた。その視線の先には愛しい人の左手がある。


 細くて長いけど、男らしくて。


「それで、アンタが参加するボランティアというのは、何をするんですか」


 柿坂の問いかけに、澄子は慌てて我に返る。


「あ、えっと、えっと……自然保護のレンジャーみたいな」


「レンジャー?」


「美化活動や、緑化運動とか……鈴峰町の自然を失くさないように伝えていく『緑風プロジェクト』という集まりなんです。母校の同級生で立ち上げたんですけど、わたしも故郷の自然は大好きですから、協力したいなと思いまして」


「なるほど」


「町の中心に大川という……花火会場の綺麗な川があるんですけど、その上流近くにわたしの小中学校があったんです。今は両方とも廃校で……それで、学校帰りにはよく川で遊んだり、ザリガニ釣ったり、アケビを取って食べたり」


「……アケビ、ですか」


「はい!あと、バーベキューとかキャンプとかも好きでしたし、ハンモック作りも参加したんですけど、完成直前で風邪ひいて、結局一度もハンモックで寝たことないんですよね。わたし、老後は田舎に移り住んで、ハンモックで揺られる生活を……」


 ふと見ると、柿坂が口元を押さえてうつむいている。


 澄子は、自分が喋り過ぎていたことにようやく気付いた。


「あ……すみません」


 しかも、愛しい人を前に、老後の話までしてしまった。まだ手探りの二人の関係において、これは完全に失敗だ。


 ゆっくりと柿坂が顔を上げ、笑いをこらえるように、うんうんとうなずいた。


「なかなかの野生児ですね」


「ひ、ひどい!そんな言い方!」


「想像つきませんよ。そんなに細くて色白のアンタが……」


 そして、優しげな笑みを浮かべた。


 ――。


 時が止まったように、その笑顔に釘付けになる。


 ――そんな顔されたら。


 澄子は顔を火照らせながら、慌てて取り繕った。


「と、とにかく、お祭り当日は、ブースで焼き鳥やビールも売りますから、柿坂さんもいらして下さい。バンド仲間の皆さんもご一緒に」


「そうですね。楽しみにしておきましょう」



 ずっと笑みを絶やさない愛しい人に、見とれてしまう。


 そして、いちいち箸を持つ右手に目が行く。



 この確かな幸せに、澄子の身体がほんの少し震えた。

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