#6-6「調子が狂う」

 垂直に立ったノコギリが水面からゆらゆらと迫ってくる。

 困惑するオレは、ノコギリを掲げながら泳いでいる少女に問いかけた。


「蛭……何やってんの?」

「今の私は蛭じゃない……『鮫』だ」


 彼女はデーデン、デーデン、と口ずさみながら真後ろへ方向転換し、透狐と海上のチンアナゴみたいに揺れるヒョロッヒョロなパスモへと接近していく。

 デーデンのリズムがクライマックスへと差し掛かった直後に蛭は──否、ノコギリを担いだ鮫は共に夏空へ躍り出た。

 金髪スク水ノコギリ少女がパスモの腕を引っ掴む。それから紐みたいに彼をグルングルンと振り回し、哀れ痩せ細った成人男性は沖合いにぶん投げられた。

 透狐が笑顔で悲鳴を上げる。くるくると回るパスモは浮きが放られたような、地味な飛沫を上げながら着水する。


「次は、藤堂紫苑、お前だ!」


 浜辺で砂製のミニチュアスカイツリー建築に勤しんでいた紫苑は、蛭、じゃない、鮫の呼び出しを受けて振り向く。彼は瞑目しつつ、いつものスカした鼻笑いを放つ。手元の精巧な砂細工を雑に蹴り飛ばして、渚へとビーチサンダルで踏み出した。


「良いぜ、受けて立とう。『血みどろノコギリ鮫VSヴェリタスユーザー』なんて、いかにもZ級サメ映画にありそうなタイトルじゃないか」


 悠々とした足取りで黒いアロハシャツを浜風に揺らす男は、デカいノコギリを担ぐスク水の鮫に立ち向かう。こうして炎天下の中、ワケ分かんねえ決戦の火蓋は切って落とされた。


「もしも私が、一馬クン……君だったら、あんなに楽しそうな彼女を捕えようと思うかい?」


 アホみたいな光景を眺めて砂浜に立つオレに、ザイツェフは背後から問いかけた。両手にはスポーツドリンクのペットボトルがそれぞれ1本ずつ握られている。

 ザイツェフが片方を差し出したので、オレは遠慮なく受け取った。

 水滴が滲むペットボトルの冷たさは、この暑さにちょうど良い。


「思わない。野暮ってモンだぜ」

「そうだろう。それを聞いて安心した」


 ふたり並び立って、ペットボトルのキャップを回す。

 爽快感のある馴染み深い甘さが、喉を通って潤していく。

 プラスチックから口を離した後で、ザイツェフは呟いた。


「全く、調子が狂うよ」


 彼の眼差しは、波打ち際で無邪気にはしゃぐ少女たちへ注がれていた。

 ちょうど紫苑が一本背負いで、蛭ならぬ鮫を思い切りブン投げる瞬間だった。

 空中に舞う少女は、きらめく波にも劣らぬ眩しさで、笑っている。


「……ところで、それはそれとして、一応アイツって連続殺人犯なんだけど。それはノーカン?」

「いやまあ……私が調べている限り、死んだのは家守組みたいなアウトローだけの様だし、セーフだと思いたいなあ……。研究所に居た時の刷り込みにも『一般市民は、殺しちゃダメ』みたいなカリキュラムが含まれていたらしいし……」

「そ、そうか、ならまあ……」


 家守組みたいなヤツばかりなら仕方ない。多分きっと恐らくメイビー、仕方ない。まあ知らんけど。

 さておき、これが終わった後はテントを張る予定だ。それも済んだら、ザイツェフが用意していた花火で楽しもうという段取りになっている。

 晩飯はバーベキューにする事が決まっていた。そこでオレは上手い具合に、コンロへ火を点けてやろうと目論んでいた。デカい肉の塊を買っておいたハズだし、アレを絶妙な火加減でミディアムレアのステーキにしてやろう。きっとみんな狂うハズだ。

 何もかもが、オレにとっても初めての体験だった。蛭にとってもそうだろう。


「そんな話を聞かされちゃあ、楽しく生きてくれって思っちまうよな」


 何となしに、そんな言葉が口から零れた。

 次にザイツェフが、オレに言う。


「それは君もだよ、一馬クン」


 思わぬ返答に、横合いのザイツェフを見やる。

 彼は蛭に向けていたのと同じ優しげな眼差しで、オレに手を伸ばす。蕎麦を打っているからか、銃を握るからか無骨で硬い手の平が、オレの頭に乗せられた。軽く叩くような不器用な撫で方が居心地悪くて、オレは手首を掴んで払い除けた。

 苦笑しながらザイツェフは続ける。


「気に病むなとは言わないさ。けれど岩猿クンは最期に『君が生きていれば、自分の勝ちだ』と伝えたんだろう?」


 透狐の様に、心まで見透かす篝火イグニスを持っているワケでもないのに。

 まるで全部わかっている様な風で、彼はオレを諭した。


「さあ君もそろそろ彼らの、紫苑クン達の方へ行ったらどうだい。若者ならば、今を楽しみたまえ。私みたいなオジサンはね……若者の楽しそうにしている姿が、大好きなんだ」


 ああ、どいつもこいつも、どうしてオッサンは余計なお世話が好きなのか。こっちは頼んでいないのに。勝手にお節介を焼いて、自己満足の笑顔を浮かべる。

 居心地悪くて鬱陶しいったらこの上ない。ましてやこっちは、そういうモンの受け取り方も分からないから、戸惑うだけなのに。

 ただ少しだけ分かった気がする。どうして岩猿は最期にオレを庇ったのか。最初は殺し合いすらしていた間柄なのに、オレを護り、何の後悔も無い様な嗤いを浮かべて逝ったのか。

 オレが最強だと信じ続けてきた男は、オレに未来を託したんだ。

 こっから先はテメエが楽しめと。そうなんだろ……岩猿。


「うるっせえ、バーカ」


 素直にありがとうって言う方法すらオレは知らない。

 だから悪態をつきながら浜辺を走り出して、一度だけ振り返りザイツェフに言ってやった。


「ちょうど今から行こうとしていたトコロだよ!」

「そいつは失礼したね」


 再び眉根を下げながら破顔するザイツェフを置き去りに、オレは浜辺のトンチキなじゃれ合いへと繰り出した。


「紫苑、次はオレだ、見てろ今からお前を水平線の果てまでブッ飛ばすからな!」


 ──ところでザイツェフの話を疑う訳じゃあないけれど、ちょっと腑に落ちない事がひとつだけあった。

 本当に些細な違和感だから、また思い出したら聞くつもりだけれど。

 この間、紫苑とザイツェフが出会った時は、少なくとも紫苑はザイツェフと会った事があるという雰囲気じゃなかった。完全に初対面の空気感だった。

 それは紫苑が頭良い割に忘れっぽいからなのか、それとも──。







八咲禍魂やさかのまがたまを奪うには、少なくとも藤堂紫苑を分断する必要がある」


 そこは屋根が砕け、壁のあちこちが崩れ去っている大図書館だった。

 高く並べられた蔵書に、残った壁面を這う蔦に、白い日光が注いでいる。

 そこで埃被った本を手に取る少年が佇んでいた。

 黒い髪色の中性的な少年は、まるで思い出のアルバムを慈しむ様に、優しい手付きで擦り切れているページを捲った。

 少年の名は黒澤弥五郎という。


「その通りじゃい、黒澤よ。あれの戦闘能力は異常だ」


 黒澤弥五郎の背後から、羽織姿の老人が応じる。

 その横で書棚に背を預けている男が、もうひとり居た。黒いライダースジャケットを纏う、銀髪の青年だ。傍らには工具箱が置かれていた。


「三下では話にならん。お前ら幹部ふたりと、この黒澤弥五郎で仕掛ける」


 ぱたん、と本の閉じる音がした。


銀竜ぎんりゅうよ、お前は藤堂紫苑を仕留めろ」


 銀竜と呼ばれた青年は、黒澤弥五郎から告げられるなり、獰猛な笑みを浮かべた。まるで藤堂紫苑が強敵と相対する時の様な、野獣めいた嗤いである。怜悧な表情で、抑えきれない高揚を口端から吐息と共に漏らしていた。

 黒い工具箱を取り立ち上がる彼と共に、黒澤弥五郎と十六夜は踵を返す。

 黒澤弥五郎は読みかけの本を壊れかけの書棚に戻してから、自身の胸元を抉って、ちょうど心臓の辺りから真紅の円盤を取り出す。

 胸部から流れる鮮血を意にも介さず、取り出した円盤を自らの顔に宛てがう。

 取り出した真紅の円盤──八汰鏡やたのかがみを、まるで仮面の様に纏ったのだ。


「目的は藤堂紫苑とザイツェフの排除、そして八咲禍魂やさかのまがたまの回収」


 日本の裏社会にて最強と称される男は、あるいは女が、静かに宣言した。

 紅い仮面……八汰鏡やたのかがみから伸びた赤黒い触手の様なオーラが彼自身を覆い、その顔面を、四肢を、体躯を変形させてゆく。黒い髪が生長し、背丈は引き延ばされ、数秒も経たぬ内に麗しい大和撫子の容姿となった。

 黒いブーツに、しなやかな太腿のシルエットに沿ったレディースパンツ。豊かな胸で引き上げられたシャツと、羽織る毛皮の黒いコート。切り揃えられた黒い長髪と、前髪の下から覗くは赫々と輝く紅い瞳である。

 黒いコートの裾を翻し、日本の裏社会にて君臨する2人の強者を従え、黒澤弥五郎は──大太法師だいだらぼっちは征く。


「さあ、全てを奪おう。おれが、ぼくが、君達みんなが帰るべき故郷の為に」

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紫電スパイダー 緑川蓮 @viridis0921

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