第9話 追奏曲 うちの滝夜叉姫知りませんか

 日付が変わった人通りの殆どない二宮町を南に下りながら、伊吹は小さな欠伸を漏らした。

 隣を歩く有匡が、懐中時計を引っ張り出してアーク灯のほうへ翳して時間を確かめる。


「伊吹ちゃん、駿牙、先に帰ってもう寝なさい。俺と玉藻前は一宮神社見て戻るから」

「そうじゃ。夜更かしは美容に悪いし、背も伸びんぞ」


 月明りの下でもハッとするほど美しく妖艶な人型の玉藻前が、赤く彩られた爪の先で小柄な駿牙の頭を撫でた。

 男性の平均身長にわずかに届かない成長中の駿牙である。


「睡眠って関係あります?僕毎日牛乳だって飲んでますし」

「朝と夕方に二回も牛乳が届くのは駿牙くんが飲むからか!」

「け、健康にもいいんですよ!伊吹さんっ」

「大丈夫だよ、駿牙。そのうち伸びるよ」

「適当な慰めはいりませんよ・・じゃあ、先に戻ります。行きましょう、伊吹さん」

「あ、うん。ごめんなさい。今日も先に戻らせてもらって・・」

「朝から女給の仕事もあるんだし、早く休むようにね。駿牙、家まで気を抜かないように」

「分かってますよ!責任を持ってお守りします」

「伊吹や、妾がおらんでも髪をちゃんと乾かすんじゃぞ?濡れ髪のままでは風邪を引くでな」

「はい。大丈夫です。お二人ともお気を付けて」



 動きやすい丈が短めの常盤色の袴に、玉藻前が見立ててくれた檸檬色の地に葵柄の着物と、編み上げブーツを合わせた伊吹は、後ろ頭で結んだ海棠色のリボンを揺らしておやすみなさいと告げた。



 異人街の倉橋邸に身柄預かりという名の居候を始めてから八日が経っていた。

 暦は六月に入ったばかりで、少しずつジメジメとした梅雨が近づいている。


 あの日、滝夜叉姫の持ち主として村雨隊の面々に紹介された伊吹は、通り魔事件の容疑者である冬也の生霊探しと、滝夜叉姫の捕獲、この二つの任務を現在同時進行中であると説明を受けた。


 七月に行われる織物博覧会までに、何としてもこの騒動を終わらせなくてはならないこと、そのための人員が不足していることも補足として聞かされた。

 

 滝夜叉姫による実害が出ないうちに一刻も早く捕まえて欲しい伊吹は、喜んで協力を買って出た。

 その協力というのが、滝夜叉姫捜索の為の夜のお散歩である。


 成伴と有匡の説明によれば、付喪神の多くはは持ち主に愛着を抱くらしく、滝夜叉姫も伊吹の元に戻ってくる可能性があるのだという。


 滝夜叉姫ほどの妖を、付喪神と一緒にしてよいのかは謎だが、可能性があるのならなんでも試してみたい。


 村雨隊を三組に分けて、成伴、燈馬の組、凪、緋継、チコの組、有匡、駿牙、玉藻前、伊吹の組に分かれて、夜な夜な神戸の周辺を歩き回っては滝夜叉姫と、冬也の生霊を探し回っているのだが、良順和尚以降、村雨隊に滝夜叉姫目撃の情報は入ってきていない。



 丑三つ参りをして、妖術を得たという伝承から、神社に現れるのではないか?滝夜叉姫が好き?だと思われる白い花のある道沿いに現れるのではないか?という推測の元、昨日からは神戸周辺の神社と白い花のある道を捜索している。



 昼夜を問わず人手の多い新開地と福原は土地勘のある茨が継続して見回り中だ。

 学校のある駿牙と伊吹は、日付が変わるまで有匡達と同行して、途中で別れて屋敷に戻る毎日だ。


 冬也の治療権限を引き継いだ琴音は、衰弱が始まっていた肉体を回復させるための術式を張り、成伴の結界内でその身柄を保護しており、伊吹とは一瞬だけ顔を合わせた。


 夜の捜索も最初の三日目までは良かったが、さすがにこれだけ続くと堪えて来る。

 課題や試験勉強で夜更かしには慣れているらしい駿牙も、歩き回る事には不慣れなようで目の下にはうっすらとクマが出来ていた。



「伊吹さん、戻ったら先にお風呂どうぞ」

「昨日も一昨日もさきに貰ったら、今日は駿牙くんが先に!」

「僕は陰陽寮の仕事がありますんで」

「いつもごめんなさい・・ありがとう。あたしにも呪力があったら手伝えるんだけど・・」

「いえいえ!お夜食のおにぎりとお味噌汁有難いです!」

「もとはと言えばあたしが・・」

「いえ!それを言うならうちの兄が多大なご迷惑をおかけして、こんなことに巻き込んで本当にすみません・・この一件が終わったら兄を本家に連れてってお祓いしてもらいます」



 初対面の時には思い切り駿牙に避けられたが、身柄預かりが決まった日の夕方、有匡に言いつけられて伊吹の荷物を取りに一緒に長屋まで向かった後から一気に態度が軟化した。



 恐らく良家のご子息様には考えられないようなボロ長屋住まいに同情してくれたのだろう。


 風呂なし長屋です、と説明したとこの唖然とした表情は忘れられない。 

 伊吹にとっては大事な城だが、同情でもなんでも、気まずい同居生活をするよりは仲良くしたい。


 駿牙の言い方からして、今回の件、有匡はそうとうやらかしたことになるらしい。

 当事者である伊吹には何も言えないが、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


 滝夜叉姫を呼び寄せるために、白いコブシを一枝持って餌代わりにぶらつかせているが、今のところ全く効果はない。


「あ・・あたしも一緒に行って祓って貰おうかしら・・」

「あ、そうですね!伊吹さんもぜひ!この事件が終わったら!」

「早く終わるといいわよね・・・ほんとに・・あたし、もっとあっさり滝夜叉姫が見つかると思ってたの・・禍付き舐めてたわ」

「僕もこれほどの大物は初めてなので詳しくありませんけど、成伴さんの話だと、妖力が強ければ強い程、顕現も自在で見つけにくいそうです・・」

「空の継ぎ目・・だっけ?そこに隠れちゃうってこと?」



 玉藻前が寝床にしている妖しか入れない異次元を、そう呼んでいるらしい。


「多分・・僕の目には空に継ぎ目なんて見えませんもん・・簡単には見つかりっこないですよね」


 星の輝く昏い夜空を見上げて、駿牙がはあっとため息吐いた。


「どこにいんのよ・・滝夜叉姫ぇ・・・滝夜叉姫やーい・・出ておいでー・・・冬也さんの生霊も出ておいでー」

「その呼びかけで出て来られても困りますけどね・・」


 飼い猫を呼ぶような伊吹の呼びかけに、駿牙が苦笑いを零した。

 長屋の煎餅布団から一変、ふかふかのベッドと、大きな内風呂にあやかれた事は有難いが、快適な暮らしは事件解決までだ。


 この贅沢に慣れてしまわないうちに、ボロ長屋に戻らなくてはならない。






・・・・・・・・・




「ふぁ・・・っ」

「さっきから欠伸何回目ですか?食器割らないでくださいよ?」

「はい・・気を付けます、すみません」


 他所を向いて隠したつもりの欠伸だが、加藤にはしっかり見られていたらしい。

間もなく日が暮れようかという時間帯。

 遅めのティータイムを楽しんだ客が帰って行って、店内には伊吹と加藤、久しぶりに店に顔を出した誠一だけが残された。

 二店舗目の場所も決まって、これからますます忙しくなると嬉しそうだ。


「伊吹ちゃん、寝不足みたいだけど、何か悩み事かい?」

 

 加藤から渡された売り上げの帳簿を確認していた誠一が手を止めた。


「あ、いえ・・美紅から借りた本が面白くて夜更かししちゃって・・」


 毎晩禍付き探しで夜中まで出歩いているなんて絶対に言えない。


「それならいいけれど・・美紅も何だか急に情緒不安定になってしまって参ったよ。いきなり父さんに新しい服を強請ったり、かと思えば、僕に本を貸してくれとか言ってきて・・婦人向けの雑誌と乙女文庫にしか興味がなかった筈なのに・・・今朝なんて朝食につくなり、私って美人よね!?なんて真顔で詰め寄ってこられてさ・・わが妹ながらご婦人の心情はつくづく理解に苦しむよ」



 思い当たる節はあるのだが、それを伊吹の口からいうのは憚られた。

 確かに、美紅はあの日からちょっと可笑しい。


 駿牙と共に荷物を取りに長屋に戻った伊吹の代わりに、美紅を永尾家まで送り届けたのは緋継だった。


 頑なに乗車拒否を訴える美紅を自動車の助手席まで丁重に運んだ緋継は、終始紳士的でエスコートも完璧だった。

 にも拘わらず、美紅は緋継に対して警戒心と敵対心をむき出しにして、今にも噛みつきそうな勢いで。



 心配になった伊吹が同乗しようか迷ったところで、緋継がご心配なくと優雅な笑顔で押し切って自動車は出発してしまった。

 緋継は美紅を自宅まで送り届けた後、すぐに屋敷に戻って来たし、別段不審なところも見当たらなかった。

 伊吹への接し方は、こちらが申し訳なくなるくらい丁寧で、まるで上流階級の令嬢になった気分だ。

 だから、伊吹から緋継への印象は決して悪くなかった。

 あの独特な雰囲気と貴公子然とした振る舞いも、英国帰りと聞けば納得がいく。

 ただ一点、やたらと美紅の事を聞きたがることを除けば。


 ああも分かりやすい態度を取られれば、色恋と縁のない伊吹とて緋継の矢印の行方はすぐに気づく。


 美男美女・・お似合いだと思うんだけど・・・

 由緒正しき渡辺家の嫡男で、三吉屋の若旦那。

 家柄重視の美紅の父親ももろ手を挙げて大歓迎するであろう文句なしの良縁である。



「そ、それとなく話を聞いてみますね・・」


 ここ数日の美紅は、お稽古の合間に白猫屋に立ち寄っては、常連客からの褒め言葉にいつになく真面目に耳を傾けて、自分の立ち位置を再確認していた。


 多分、自分より綺麗で自分より人の注目を集める殿方に初めて出会ったのよね・・

 

 女学生時代も、白猫屋の看板娘になってからも、いつだって美紅は、惹きつける側だった。

 羨望と憧れの眼差しで焦がれるように見つめられることはあっても、一人の等身大の女性として誰かと向き合った事は無かったのだ。



 だけど、渡辺さんはそうじゃない。

 美紅を一人の貴婦人として、丁重に扱う。

 だから、美紅は、自分の魅力を確かめずにはいられないのだろう。



「そうしてくれるよ助かるよ。で、伊吹ちゃん、新しい店の女給に心当たりがあるんだっけ?その・・出来るなら、暫く研修も兼ねて君にも大阪の店に来て手伝って貰えれば・・僕としてはすごく・・その・・」

「ぜひ紹介したい女の子がいるんですが、ちょっとすぐには無理なんです。で、あのう、申し訳ないんですが・・」



 心当たりというのは、藤堂家の女中、絹子だった。


 通り魔事件解決まで、芦屋家で身を隠しつつ屋敷の仕事を手伝うことになった彼女の新たな奉公先として、黒猫屋(二号店の名前である)の女給仕事はどうかと美紅が提案した。


 とはいえ、冬也の生霊が見つからない事には解決しようがないので、誠一との顔合 わせは暫く先になりそうだ。


 白猫屋の開店にも立ち会った伊吹なので、新店準備の勝手は分かっているし大変さも重々承知している。


 誠一には多大な恩があるので是非大阪に同行したいところだが時期が悪い。


「暫く伊吹お嬢さんには、美紅お嬢さんと三吉屋の仕事を手伝って貰うことになりましてね」

「ちょっと、渡辺さんっ!勝手に店に入らないで!」



 話に割って入ったのは、光沢のある苦色の三つ揃えの背広姿の緋継と、萌黄色の格子柄のワンピース姿の美紅だった。

 美人が並んで店内の真ん中に立つとそれだけで視線を攫う。

 二人を下した俥夫が、店の前から走り去ると、通りを歩く人々の視線が窓越しに燦々と降り注いだ。



「美紅・・・それに三吉屋の若旦那!?」


 突然の珍客に誠一が目を白黒させた。

 潤色の中折れ帽を優雅に外して、緋継が鷹揚に微笑む。


「やあ、こんにちは。突然お邪魔して申し訳ない。先日、商工会の集まりでご挨拶しましたね、誠一さん」

「・・!?」



 ぎょっとした様子の美紅から察するに、知らなかったらしい。

 着々と外堀を埋められているようだ。

 誠一は今最も注目を集めている呉服屋の跡取り息子の来店に高揚を抑えきれない様子である。



「どうして妹と一緒に?」

「今日の予定を伺っていたので、お迎えに上がったんですよ」

「え!?美紅を!?わざわざ!?」

「私は頼んでないわ!どうせうちの女中から聞き出したんでしょう!」

「美紅っそんな失礼な物言いを・・」

「お気になさらず。私が好き好んでしている事ですので」

「好き好んで・・・」

「近いうちにご両親にもお時間を頂ければと思っております。先日お話しした、大阪のお店の事も含めて」

「ははははい!是非とも!」

「ちょっと、私は何も聞いてないわよ!?兄様!?渡辺さん!?」

「こちらへ来る道中、お兄様と仕事の話をするとお伝えしましたよ。あなたは上の空でしたけどね」

「上の空じゃないわ!聞く耳を持たなかっただけよ!あなたの仰ることなんて全く興味ありませんから!」

「みみみ美紅っ!!」

「新店舗の内装についても相談に乗れればと思いまして」

「有難いお話です!!」



 あーこれはもう買収されちゃってるわ、誠一さん。



 操り人形のようにこくこく頷く誠一の向こう、カウンターの中をちらりと覗けば。

 灰のようになった加藤が、熱々のコーヒーをカップから溢れさせていた。

 いつもは美紅の登場で喝采の声を上げる常連客達は、揃って置物のように固くなっている。


 逆立ちしたって敵わない相手を前にすると、こうなるものなのか。



「紅薔薇の君。先ほどの話を伊吹お嬢さんに」


 床掃除をすべくカウンターの中に戻った伊吹を一瞥して、緋継が言った。


「え、は、話!?」

「伊吹お嬢さんの今後の予定の事です」

「え・・あ、ああ・・」


 連れ立って奥のテーブル席に向かう兄と緋継を呆然と見つめていた美紅が、曖昧な返事を返した。

 手も足も出ない状態に嘆いているのか、現実逃避しているのか、はたまたその両方か。


 視線の定まらない美紅を視線で絡めとって、緋継が思わせぶりな目配せをひとつ。



「私の顔に見惚れて忘れてしまわれましたか?」


 ぼん!!爆弾が爆発する音が、確かに伊吹の耳には聞こえた。


「覚えてるに決まってるでしょう!?」





・・・・・・・・・・・・



 草木も眠る丑三つ時。

 いつもより長めの捜索散歩を終えて、初めての全員揃っての帰宅途中である。



「出勤日数減らして貰えたらしいね」

「緋継さんと美紅のおかげです。あたしからは言い出しにくかったので・・助かりました」


 三ノ宮の夜を彩る欠けていく月は青白く冴えている。


 伊吹の体調を心配して表情を暗くする美紅の心配をした緋継の提案で、三吉屋のご威光にあやかる事になったのだが。



 半期一度の売り出しで、若年層の令嬢を客層に設定した商品展開を行うための準備を手伝ってほしい、という尤もらしい言い訳は、美紅には当てはまっても伊吹には当てはまらない気がする。

 

 細かいことは気にしなくていいのよ!と言い張る美紅に流されてしまったが、未だに加藤の恨みがましい視線が頭から離れない。

 絶対渡辺さんの事もあたしのせいにされている気がする・・


 お給金が減れば、その分生活は苦しくなるのだが、居候中の食費はタダ、家賃は不要、しかも、長屋の家賃は向こう二か月分有匡が纏めて大家に払ってくれた。


 これも慰謝料のうちだから!と言われてしまえば有難く受け取るしかない。

 実際、物凄く助かったし。



 美紅と誠一の厚意で雇って貰っている立場としては、おいそれと自己都合で休暇を取りにくいのだ。




「緋継は相当美紅さんにご執心みたいだね」

「紅薔薇の君の次はなんだっけ・・べ、ベアトリーチェ?とかなんとか言われて困ってました」

「ベアトリーチェ!?あちゃー・・そりゃもう重症だ・・美紅さんには諦めて嫁に来てもらうしかないね。永遠の女性が出てきたらもう駄目だ」

「なんとなくそんな気はしたけど、やっぱりそうなんですね・・」

「まあ、ご婦人は大事にするし、浮世離れしててもちゃんと紳士だから、そこは信用していいよ。幼馴染の俺が保証する。嫁ぎ先としては三吉屋は大当たりだと思うよ。売り上げもいいし一生食うには困んないよ」

「美紅のお父様は大喜びされると思います・・」

「伊吹も仕事なぞせんでも良いわ。金ならたーんまりあるぞい」

「玉藻前が言うとシャレにならないからやめて」

「否定できませんしねー。我が家の財政は玉藻前様のお宝で潤ってますし」

「え、そうなの!?」

「大声じゃ言えないんだけどね・・玉藻前が寝床に蓄えてる古代インドと中国の美術品が今じゃすんごい高値で取引されてるんだよ。その取引で特権階級と諸外国のお貴族様との繋がりが出来て、我が家の栄華は始まったってわけ」

「福の神と呼んでも良いがのう」

「福の大妖怪だろ・・」

「ふんっ可愛げのない奴め。それに比べて伊吹は良いのう。ちっこくてかわゆいのう」

「玉さま・・あたしはこれでも一応19なんですが・・」

「妾にとってはややこ同然じゃな」

「千年以上生きてる人から見ればまあそうだろうね・・でも、これで睡眠不足もちょっとは解消出来るな。良かったね」



 今日も今日とて夜の捜索は続いている。

 時折、伊吹も知る黒い靄のような禍付きに出くわす事はあるが、それ以外の収穫はない。



 新開地と福原での目撃情報も途絶えており、もう眠りについてしまったのではとさえ思えて来る。



 伊吹としては、このまま息をひそめてくれるのならそれに越したことはない。

 が、いつまでも滝夜叉姫が見つからなければ、居候生活も終わらないわけで。




「明日がお休みだと思うと気は楽になるけど・・」

「滝夜叉姫なんぞ妾が一口で食ろうてやるから心配するでない。ほれ、帰って湯船に浸かって、妾と眠るぞ」

「玉さまとお風呂一週間ぶりですね!嬉しい」



 沈みそうになった気持ちを倉橋邸の広いタイル張りの内風呂に切り替える。

途端気分が急上昇した。


 広々とした銭湯も楽しいが、内風呂の贅沢を知ってしまった伊吹である。

 二人で入っても十分な広い浴槽と、緋継が用意してくれた舶来品の花の香のする髪洗い石鹸。


 背中を流しあいっこして、ぎりぎりまでぬくもって脱衣所に飛び出して、浴衣に着替えたらすぐに玉藻前が化身を解いて本性になって、九本のふかふかの尻尾で伊吹の髪を乾かしてくれる。



 伊吹に用意されたのは、使用人用の控室を改造した客室だったが、長屋住まいの伊吹からすれば十分すぎる立派な居室だった。

 スプリングの効いた大きなベッドに、軽くて暖かい掛け布団。

 居候二日目には舶来品の鏡台と洋服箪笥まで届けられて、今やすっかり女の子部屋である。



 普段は空の継ぎ目に帰って休む玉藻前だが、伊吹が屋敷に来てからは同じベッドに潜り込んでくる事が多くて、おかげで寝るまでモフモフ三昧である。


 良い匂いのするつやつやの尻尾に頬ずりしながら眠りにつく幸せったらない。



「今日も全身磨き上げてツヤツヤにしてやろうなぁ」

「あたしも、玉さまの尻尾ブラシで梳きますね」



 湯上り肌にたっぷりオイデルミンを吸い込ませて、憧れのシモンクリームで保湿する。

 婦女世界で描かれていた一流の職業婦人の夜のお手入れを実践する日が来ようとは。

 緋継が三吉屋で手配してくれた貴婦人の必需品一式は、是非とも事件解決後も持ち帰らせていただきたい、本気で。



 玉藻前とのお風呂時間にうきうきと胸を弾ませる伊吹の隣を歩いていた駿牙が、急に足元を崩した。


「・・うわっ」


 片手で弟を支えた有匡が、げんなりとため息を吐く。


「駿牙、ちゃんと足元見て、あと鼻血拭きな」

「えっ!?鼻血・・うわあ!」

「駿牙くん、これで鼻押さえて!」



 胸元から取り出したハンカチを駿牙の鼻先に押し付ける。


「す・・すびばせ・・」

「駿牙・・お兄ちゃんはお前の未来が色々と心配だよ」

「に、兄さんは自分の悪運の強さを心配してくださいっ」




「なんだ、駿牙まだまだ元気余ってるじゃねーか」



 暗がりからひょいと姿を現したのは燈馬だ。大柄だが俊敏で気配を消すのも上手い彼は真昼のような明るい笑顔で手を振って来た。

 一緒に見回り中のはずの成伴の姿は見えない。



「燈馬さん!」

「こんばんは。お疲れ様です」

「よぉ、伊吹嬢ちゃんもご苦労だなぁ!くたびれてねぇか?」

「ありがとうございます。まだ大丈夫です」


 こういう明るく元気なお巡りさんなら、是非とも応援したくなる、そんな男である。

 滝夜叉姫と一番縁のあるらしい卜部の子孫が、こういう人で良かったとしみじみ思う。



「なんじゃ、燈馬。いい知らせかえ?」

「んー・・まあ、そうだな。隊長が張った目印を、禍付きが踏んだ」

「!!!」



 燈馬の言葉に、一気に緊張が走る。


「場所は?」

「それが、五宮神社のすぐ裏手でさ。緋継と隊長の推理は当たりだな多分。んで、あの人は嫁さんが心配だから様子見に戻った」

「その禍付きが滝夜叉姫って確証はあるんですか!?」

「まだわかんねぇけど、結構な大物だって言ってたぜ。五宮の裏手にハナミズキが咲いてた。また白い花だ。隊長は家の結界増やしてからこっちに合流するって。そっちは収穫は?」

「三宮と四宮回ったけど無し・・そういえば、あっちには白い花見当たらなかったな・・やっぱり白い花を探して歩いてるのかな・・」

「わっかんねぇな・・まあ、これで追跡出来るだろうかさ、暫くは異人街に全員缶詰めだな。俺は琴音呼んでくる」

「じゃあ、うちに集合で。玉藻前、凪と茨呼んできてくれる?」

「・・・面倒じゃのう・・」

「頼むよ」

「・・あいわかった。伊吹や、風呂は妾が戻るまで待っておれよ?」

「はい、お待ちしてます」



 玉藻前が空の継ぎ目に姿を消した後、この後増える人数を指折り数えて伊吹は言った。



「あの・・お部屋・・足ります・・?あたし自宅に・・」

「何言ってんの」

「何言ってるんですかっ」


 有匡と駿牙の声が綺麗に重なった。



「あんな家に帰せないよ」

「そうですよ!」

「・・・」


 

 全力の気遣いも、ほんのちょっと複雑な気持ちになった伊吹である。

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