第10話 狂詩曲 袖振り合うも他生の縁

 応接が狭くなるという理由から化身して人型になった玉藻前と、黒妖犬チコを含む村雨隊の全員が一堂に会したのは明け方の四時すぎだった。



 食堂から駿牙と使役式神が運んで来た椅子に座ろうとした伊吹を、琴音と玉藻前が両側から捕まえてそのまま長椅子に着席。

 真向いには鋭い視線の隊長が居座っており、左右を燈馬と緋継が、少し離れた場所に凪と有匡と駿牙が腰かけている。



 出合い頭に手を差し出された伊吹は、袂から多めに包んだ金平糖を出しだしてやった。

 凪の甘いもの係となりつつある。



 この洋館で暮らし始めて分かったことが二つ。

 一つは、掃除、洗濯、御用聞きからの配達の受け取り等は、全て使役式神が行ってくれるということ。

 もう一つは、万能で優秀な使役式神ではあるが、料理やお茶といった味覚に関する事は不得手だということ。



 物を食べない使役式神には味覚が存在しないので、女中の手順を覚えさせて料理をさせても毎回味にばらつきがあるのだという。

 最初に伊吹が倉橋邸を訪れた時に出された紅茶が問題なく美味しかったのは、たまたま当たりだったらしい。



 食事に関しては、倉橋家と渡辺家から重箱に詰めた煮物や焼き物を女中が届けに来る以外は、三吉屋の大食堂、もしくは南京町に頼っている。


 洋館の最新式のガスコンロは海外製で、火加減が難しいので、お馴染みの一口コンロで味噌汁を作って朝食に並べたら物凄く感動された。

 というわけで、眠気覚ましのちょっと苦めの玉露を人数分用意したのは伊吹と琴音である。



 給仕が終わって長椅子に戻ったところで、成伴が一同を見回した。

 鳥が目覚め始める静かな室内に、しゃくしゃくと凪が金平糖をかみ砕く咀嚼音だけが響いている。


 そちらが気になって仕方ないのは伊吹一人だけのようだった。




「まずは見回りの報告を聞こう」

「一昨日の一宮神社、二宮神社異常なし。今日の三宮、と四宮も異常なし。どっちも俺と駿牙の目印置いてる。こっちの擬人式神が燃えたら出動ね」


 応接のピアノの上を彷徨うように揺れている白い紙。

 それぞれに一から四の数字が書いてあり、それぞれの神社を示している。



「新開地は異常無しっ」

「福原で面白い事聞きましたよね、凪」

「あーうん。揚屋に遊びに来てた男が、視える体質だったらしくってさー。生田神社の裏手で、赤い禍付き見たんだって。弾かれて、入れなかったらしいよ」

「生田さんゆーたら、天照大御神の和魂お祀りしとるからなぁ」

「和の国の女神は頑丈よのう」

「で、その赤い禍付きが、結構大きかったらしいんですよ」

「え!?」

「伊吹ちゃんが見た滝夜叉姫の大きさってどれくらいだっけ?」

「宙に浮かんでる・・これっくらいの赤い丸い影です」

 

 顔の前で輪郭と同じくらいの大きさの円を描いて見せると、村雨隊全員が天井を仰いだ。


 物凄く宜しくない事態だということは、伊吹にも察せられる。


「あんな、禍付きはな、共食いすんねん」

「ええ!?」

「いや、もーちょい言い方あんだろ!あれだあれ、黒い靄が暗がりで固まってそれが増えるとでっかい個体になるんだよ」

「あ・・ああ・・・だから、滝夜叉姫は、あたしの背中にくっついた黒い禍付きを飲み込んじゃったんですね」

「共食いゆーんが一番わかりやすいやん」

「それって、怨霊や生霊も飲み込むんですか?」

「断言は出来んが、恐らくは・・」

「全然見つからない冬也さんの生霊が、滝夜叉姫に食べられてたりして・・って、ないですよね」


 駿牙がわざと明るい声でたとえ話を口にした。



「ないとは言い切れん・・」



 もし、もしもだ。

 あの夜、伊吹の背中に張り付いた黒い禍付きが、冬也の生霊だったら・・・




「あの・・生霊って・・人の形してるんですか・・・?大きさとか・・」

「生霊って、ようは魂だけだから怨念が強いと完全な人型を取ることもあるし、一概に言えないんだよ」

「あ、あたしの背中に張り付いた黒い禍付き・・小さい子供位の大きさだったんです・・あの日、冬也さんは発見された時点で意識を失ってたんですよね・・?」

「芦屋さん、有匡。禍付きの中から生霊だけ引き出す方法なんてあるんですか?」

「・・・前例が無いから何とも言えんな・・」

「無いの!?そっちは一族総出で祓い屋してるでしょ!?一件くらい面倒な禍付きと対峙してないの!?」



 眉間の皺を深くして、射殺すような視線で成伴が有匡を睨みつけた。


「お前の一門のほうが手広く色々やってるだろうが!」

「うちは傍系の端っこだし、そもそも村雨隊にぶち込まれるまで仕事なんてまともにやってないよ!せいぜい夢占と方忌み位だよ!」

「ああああ芦屋さんっ、うちは確かに土御門一門ですけどっ僕と兄さんはほんっとに末端なんでっっ」

「土御門と芦屋の家には余程深い因縁があるようですな」



 チコがきらりと瞳をきらめかせる。

 探偵めいたセリフだが、今この場には一番似つかわしくない。

 それ、絶対言ったらダメな奴です!チコくんっ!



「まあとりあえず、やり方は隊長と有匡達に考えて貰うとしてさ。冬也の体はまだ持ちそうなのか?」


 険悪になった雰囲気を、明るい口調で一変させたのは燈馬だ。

 ピリピリした空気が若干薄まって、伊吹はほっと息を吐く。

 恐らく、陰陽師対決が始まるといつもこうやって間を取り持っているのだろう。ご苦労な事だ。

 質問を受けた琴音が、眼鏡の縁をトントンと叩いて難しい顔になった。



「そやなぁ・・おじいちゃんの金丹で体の状態はだいぶ戻ってはおる。せやけど、肝心の魂があらへんかったら、やがて身体は朽ちてまう。身体は魂の入れ物やからな」

「藤堂家と警察上層部としては、このまま通り魔として死んでほしいところだろう。どこにも角が立たずに済むからな」

「お偉いさん達の考えそうなことだよ・・」

「五宮神社は芦屋さんが見て回って、残るは八宮と六宮、七宮、湊川神社ですね。白い花があるかは不明ですが・・」

「僕だったら、楠公さんは怖いから嫌だなぁ・・あの人お国命の人でしょ?絶対お説教されるよね」

「あ、それ僕も思いますっ!」

「楠木正成はつよおい武将じゃからのう」

「神戸の街じゃ大人気の英雄なんだぜ!チコ」

「おお!英雄ですか!素晴らしいですな!!」

「八宮は熊野杼樟日命(くまのくすびのみこと)、須佐之男命。六宮は天津彦根命(あまつひこねのみこと)、応神天皇・・七宮は大己貴尊(おおなむちのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)」



 思い出すように指を折って駿牙が祀られている神様の名前を上げていく。

 聞いたことのある神様、良く知らない神様とが入り混じっていた。



「んで、隊長組み分けはどーするよ?」


 燈馬の問いかけに腕組みをしたまま成伴が虚空を睨む。


「須佐之男命が本命と仮定する」


 明らかに一人だけ場違いな伊吹の困惑顔を置き去りにして、村雨隊隊長が固い声で告げた。


「距離のある七宮には、緋継達に向かって貰う。湊川神社には、有匡たちが。八宮と六宮は私と燈馬で受け持つ。今夜のうちに残りの神社にも目印を置いて、早急に片を付ける」



・・・・・・・・・・・



 大通りに面した湊川神社は、朝夕絶えず参拝客が訪れる歴史ある神社だ。

 敷地内には松や杉の木が見えるが、白い花は見当たらない。

 楠公さんの呼び名で親しまれており、伊吹も毎年欠かさず初詣に訪れる場所だった。

 いつもはご利益のお願いに訪れる神社の裏手で、息をひそめて月のない夜空を見上げている。




 十六夜。

 明かりを嫌う禍付き達にとっては最も動きやすい夜だろう。

 広い敷地の四方に、有匡と駿牙が目印となる水晶を埋め込んで暫くたつ。



 打ち合わせの後、五宮神社から滝夜叉姫の足跡を追いかけたが宇治川の手前で足跡が消えてしまっていた。

 南に降りてきていると信じて、今夜は寝ずの番である。



「さっきも言ったけど、ここで鉢合わせたら、敷地の外まで出て待っててね」

「はい。大丈夫です」

「伊吹さん、護符もっと持っときます?」

「大丈夫!金平糖もたんまり持ってきたから」

「でも半分は凪に取られたでしょ」

「それでもまだ十分ありますから」




 成伴は昼間自宅に戻り、古い呪術本を漁っていたが、禍付きから生霊を引き離す有効な手段は見つけられなかったらしい。

 本当に、冬也の生霊が滝夜叉姫に取り込まれているなら、最悪の場合、滝夜叉姫ごと祓うことになる。



 それはつまり、冬也の死を意味していた。

 倉橋邸で待っている事を有匡達は提案してくれたが、拒否した。

 万一そうなっても、この人たちは本当の事を教えてはくれない、そう思ったからだ。

 だから、何があっても最後まで受け止める覚悟で来た。

 それでも、足は震えるけれど。



「七宮に滝夜叉姫が出たら、俺が先に行くから、駿牙」

「分かってますよ。芦屋さんたちと合流してから後を追います」



 緊急時には虚身して視えなくなったチコと玉藻前が中継役となって、それぞれの現状を報告し合うようになっている。

 有匡と駿牙から、成伴への連絡は式神だ。



「大丈夫だよ、伊吹ちゃん。気休めにもなんないかもしれないけどさ。とりあえず、俺たち皆一緒だから」


 飾り気のない一言が胸を打った。

 まじない言葉一つしか持たない伊吹には、滝夜叉姫を止める手立ても封じるすべもない。


 だけど、このとんでもない状況に立たされても、独りきりではないのだ。

 孤独じゃない、その事実が、何よりも尊くて強い希望になる。



「もうちょっと気の利いた事を言えんのか!この朴念仁が!」

「玉さま、一人じゃないって、今一番心強い事だから!」


 ぐっと拳を握った伊吹に、有匡たちが頷き返す。



 橘通のほうから、ふわふわと白い光が飛んで来た。

 目を凝らして、有匡が表情を引き締めた。



「芦屋さんの式神だ。玉藻前!」


 返事もせずに、白銀の九尾が八宮神社のほうへ駆け出した。


「駿牙、伊吹ちゃんと後でおいで!」

「気を付けて!」




 大倉山のすぐ南にある八宮神社は、湊川神社からもほど近い。


「伊吹さん、行きましょう!念のため、護符手に持っておいてくださいね!」

「うん」



 不眠不休で有匡と駿牙が作った護符を胸元から引っ張り出して、ぎゅっと握りしめる。


 破魔の呪文が書かれているという護符は、低級の禍付きなら消滅させられるという。

 中級以上は、一瞬弾く程度なので、強敵に出会ったら、ありったけの護符を投げつけて逃げることになる。



 いつも通りの書生姿の駿牙は護符を持っていない方の手で、星印を結んで術の発動を確かめている。

 ぽうと手元が明るくなると、駿牙の前髪がふわふわと浮いて、眼鏡の奥の瞳に光彩が走る。

 ああ、本物の陰陽師だ。



 紺瑠璃の袴に、赤蘇芳の地に白い朝顔の着物の伊吹は、編み上げブーツの足元を確かめた。

 全くないと家族友人が口を揃えて言う伊吹の運動神経。

 生糸程の細さでもいいからあると今夜だけは信じたい。

 足を引っ張るわけにはいかないのだ。



「禍付きを見つけても立ち止まらないで。基本は、僕が護符と術で祓います。こぼれた分だけ助けてもらえると!あ、でも、安全優先です!」

「うん、分かってる。大丈夫!」



 湊川神社の敷地を出て、東門筋を北に上がる。

 明かりを落とした住宅が並ぶ通りを抜けると、右手にすぐ八宮神社が見えて来た。

 松ともみの木に囲まれた鳥居と社。

 暗がりに浮かぶ白い花がない事にほっとする。

 すでに滝夜叉姫と交戦中かと思われたが、神社は夜の静けさを保っていた。

 人の気配が全くしない敷地に足を踏み入れて、伊吹と駿牙は顔を見合わせる。




「誰も・・いない?」

「みんなどこに・・・あ!」



 敷地の裏手に並んだ楠の隙間から白い光が上がった。


「駿牙くん、向こう・・・!!」



 有匡たちの放った呪力の光を指さして振り返った伊吹の視線の先に、ふわっ赤い影が降り立った。


 胃の奥がきんと冷たくなる。



「もし・・?良門なの・・・?御師様は・・?・・・・花・・は・・?」



 驚くほど明瞭な言葉、明らかに知性を持った人の言葉だ。



「・・・っ」


 固まって動けない駿牙の背後に迫った赤い禍付きは、あっという間に大きくなった。



 聞き覚えのあるあの声、滝夜叉姫だ。 



 明かりのない地面がざわざわと揺れて、ぬるりと髑髏が顔を出す。



「ひ・・・っ」

「ここにもいない・・・どこにもない・・・」



 這い出してきた髑髏は、一体ではなかった。

 滝夜叉姫を取り囲むように次々と地面から生まれて来る。



「昏きは還れ!」


 震える手で駿牙が振り向きざまに護符を投げつけた。

 虚空に浮かんだ護符は四枚。

 それぞれが青白い炎を燃やして滝夜叉姫を取り囲む。

 震えている場合ではない。



「ああああ悪霊退散っっっ!!!」



 こっちへ来るなと祈りながら、伊吹も手の中の護符を投げつけた。

 発動の呪文を聞いた気がするが綺麗さっぱり忘れてしまった。

 さらに三枚の護符が滝夜叉姫めがけて飛んでいく。



「い・・いいいたああああいいいいいい!!!」


 闇を劈くような叫び声が夜空に散った。


「伊吹さん!逃げて!」

「は、はひっ!」



 弾かれるように足を前に出した。もつれそうになるけれど必死に踏ん張る。

 バチバチと熱のない火花を散らしていた護符が、滝夜叉姫の叫び声によって一瞬でかき消された。



「良門じゃない・・・御師様もいない・・・痛い事ばっかり・・・どこなの・・どこにいるのよぉ!!!」



「走って!」

「走ってる!!」

「うそでしょ!?」



 ガチガチ骨を軋ませて髑髏たちが迫ってくる。

 数秒で駿牙が追い付いてきた。



「これで、も・・ぜ、んりょく・・でっ・・走ってるのよ!!!!」



 あっという間に伊吹の前に出た駿牙が、伊吹の手を引っ張る。

 だって淑女は走らないでしょう普通!!!!

 こんな命がけの逃走劇なんて、人生で一度あるかどうかだ。



「に、兄さーんっっ!!!!!」



 駿牙が胸元から引っ張り出した束の護符を背後にぶん投げて、後ろ手で星印を結ぶ。

 バチン!

 伊吹の足元まで迫っていた髑髏が、星印の光で弾け飛んだ。

 走れ、動け、足!

 振り向く余裕もなく、鳥居を抜けて社に向かう。



「っきゃ!」


 石畳の隙間に編み上げブーツの爪先が引っかかった。

 勢いそのまま前のめりになった伊吹の身体が一瞬宙に浮く。

 髑髏と滝夜叉姫はもうそこまで迫っていた。



 食べられる!?踏みつぶされる!?

 悲鳴を上げる事すら出来ずに息を飲んだ。



「・・・っ!」



 そのどちらでもなかった。


 パアアアン!!



「いったああああいいいいいいい!!!!!がしゃどくろ!!!!」



 滝夜叉姫の叫び声と、髑髏がうごめく嫌な音が真後ろまで迫る。

 特大の破裂音がして、背中を抱かれた。

 ぐるんと視界が一回転して、両足が着地する。



「伊吹ちゃん、下がって!駿牙、護符は!?」



 伊吹を抱きとめた有匡が、新しい星印を結びながら確認する。


「ぜぜぜんぶ投げちゃったよ!!!!」

「あああああたしのがこ、ここに!!」



 胸元に残っていた数枚を震える手で有匡に手渡すと、そこに息を吹きかけた。

 さっきは青白かった炎が、赤くなっている。




「玉藻前、出ろ!」


 九字を切って、保護結界を結んだ成伴が、手首の数珠を歯で噛みちぎった。

 黒い珠が光を放って滝夜叉姫に向かって飛んでいく。



「おぬしに指図されるいわれはないわ!」


 さっきよりも強い勢いで燃え盛る護符が、足元の髑髏を飲み込んだ。

 有匡はそのまま星印を結んでは滝夜叉姫の足元めがけて打ち出した。



「怪我してないよね!?」

「だだだだいじょうぶですっ」

「裏手にも髑髏の集団が出ててさ。遅くなってごめんね!駿牙、こっち使って、足止め」

「はははいっ!」




 保護結界から飛び出した玉藻前が、伊吹と同じくらいの大きさの滝夜叉姫めがけて飛び掛かる。

 紅消鼠の瞳をメラメラと燃やしながら、大きな牙で赤い影に食らいついた。



「玉さまっ!」


 なんと勇ましい戦女神だろうか。

 この際元大妖怪でもなんでもいい、恐ろしい滝夜叉姫をやつけてくれるならば。

 感極まって伊吹が玉藻前を呼んだ次の瞬間。

 玉藻前がぐりんとこちらを振り向いた。



「こやつのなかに生霊がおるぞ!ほかにもぞろぞろ蓄えておるわ!そのまま食ろうて良い・・」

「駄目ー!!!」

「やめろー!!」

「玉藻前っ!もぐもぐしてから生霊だけぺってしてよ!!!」

「出来るかー!!!!」



 有匡のお願いに玉藻前が滝夜叉姫を振り回す勢いで叫び返した。

 赤い影がより大きくなって、髑髏が玉藻前に絡みつく。




「うううううるさいいいいいいい!!!!!」

「・・・っく!」



 滝夜叉姫の悲鳴と圧に、玉藻前が吹き飛ばされた。

 保護結界の手前で受け身を取って体制を立て直す。

 迫りくる髑髏を九本の尻尾でべしべし叩いて撃退しながら、玉藻前が背後を伺った。



「どうする!?きりがないぞ!」

「丸ごと食らうのは最終手段だ!」

「隊長!護符の在庫がもたないよ!」

「もう無いのか!?」

「すすすみませんんっ!!」



 滝夜叉姫の一応持ち主である自分に何かできる事・・必死に探すが何も見つからない。

 戦うすべはない、かといって、玉藻前に生霊丸ごと飲み込んでいいとも言えない。 やっぱり人殺しは嫌だ。




「た、滝夜叉姫っっ!!あなたの弟は・・・い、今はここにはいないの!蝦蟇の妖術使いもいない!」


 とっくの昔に葬られた、とは恐ろしすぎて言えない。

 弟である平良門と、師匠を探して彷徨っているのなら、答えをあげればいいのではないか。

 咄嗟に思い付きを口にした伊吹の言葉に、滝夜叉姫の動きが止まった。



「い・・いない・・?・・・じゃあ・・どうすれば・・いいのよ?・・・アタシは・・誰に呼んで貰えば・・・」



「滝夜叉姫!」


 一応会話が成立したことに驚きつつ、その名を呼べば。


「その名で呼ぶなっ!!!!!」

「ぎゃあっ!!」



 滝夜叉姫の声で飛ばされた髑髏がバラバラになって保護結界にぶち当たる。

 頭蓋骨やら肋骨やらが目の前でパラパラと塵になって消えていった。

 名前を呼んだのにすんごい怒る!!!どうしろってのよ!?

 めちゃくちゃ怖いし八方塞がりだ。


 けれど、頭を抱える伊吹を守る結界の外では、さっきの滝夜叉姫の怒声で髑髏の数が明らかに減っていた。



「オン・アミリテイ・ウン・クロダノウ・ウンジャク・ソワカ」


 保護結界からゆっくりと踏み出した成伴が、新しい術を唱えた。

 有匡、駿牙がすぐに同じように詠唱を始める。


「オン・アミリテイ・ウン・クロダノウ・ウンジャク・ソワカ」


 三人の声が重なるとぎしりと空が音を立てた。

 髑髏が波打つように足元で崩れて、地面へと消えていく。

 磁場が狂ったように息がしにくい。

 玉藻前がぶんと九本の尻尾を振ると、光の輪が滝夜叉姫を縛るように降り注いだ。




「痛い・・痛いいいい・・・呼んで欲しいだけなのにっっ!!!」



「呼んで欲しいって・・何を・・滝夜叉姫・・じゃない・・なに・・何を呼べば・・」



 父親の復讐を誓って、丑三つ参りで蝦蟇の仙人に妖術を授けて貰って、滝夜叉姫を名乗った・・・滝夜叉姫は二つ目の名前なのか・・じゃあ、この子の、本当の名前は・・


「待って・・知らないよそれは・・ええっと・・何とか姫、姫・・うん・・なんだろ・・」



 おばあちゃんの帯留めから出て来た。

 赤い帯留め。

 赤い花は・・・躑躅!!!!!





「五月姫!!!!!」




 伊吹がその名前を呼んだ瞬間、赤い影の中にある綺麗な瞳と確かに目が合った。



「・・・っ!!!!!」



 滝夜叉姫の動きが止まった。

 激しい殺気と憎悪を含んだ重たく澱んだ空気に、ふわりと清涼な風が吹き込んだ。

 詠唱を続ける成伴、有匡、駿牙が、滝夜叉姫を取り囲む円陣を作った。

 赤い影から、艶を帯びた赤い鱗のようなかけらが剥がれ落ちていく。

 玉藻前が最後の髑髏をぺしりと尻尾で潰した。




「彷徨うておるうちに、寂しい魂を呼び集めたな・・」


 あの帯留めは、五月躑躅だ。


「さ、五月姫・・それがあなたの名前よね?それを呼んで欲しくて、弟や御師様を探してたのよね!?」

「アタシを・・知ってるの・・?」

「し・・知ってる!さつきって、綺麗な花の事だよ!花言葉はね、幸福なの!!あなたは、幸せって意味の名前なんだよ!だから、誰かを呪ったり、祟ったりしなくていいの!五月姫って名前の通り、幸せに生きればいいんだから!」

「幸福・・?さつきが・・?」

「そ、そうよ!かの有名な和泉式部だって、躑躅を見れば好きな人を思い出すって和歌に詠むくらい綺麗な花なんだから!!!」



 さつきの花言葉には、節制、貞淑、節約という現実的なものもあったが、この際無視だ。

 滝夜叉姫の思考が負の感情に引っ張られない事だけを必死に伝えた。



「好きな・・人」



 父親の復讐だけが生きがいの孤独な妖怪が、そんな単語に反応するとは思わず唖然となるが、驚いている場合ではない。


 滝夜叉姫を纏う鎧のような赤い影が零れ落ち始めた今が唯一の好機だということは、素人の伊吹にでも分かる。


「そそそうよ!」


 伊吹が全力で頷けば、滝夜叉姫を覆う赤い影に大きなひびが入った。

 赤い鱗はまるで花びらのように後から後から降り注ぐ。



「隊長!あっちの髑髏は消え・・・うおっ!滝夜叉姫か!?」



 裏手の髑髏を引き受けていた燈馬が走ってきた。

 大ぶりの刀を手にこちらに向かってくる彼を見止めて、滝夜叉姫が叫んだ。



「卜部様っっっ」



 石を砕くような衝撃と共に、辺りが真っ赤な靄に覆われる。

 全てを洗い流すように風が強くふいた。

 次の瞬間、赤い影が割れて、中から躑躅の打掛を羽織った小柄な女の子が飛び出してきた。








「えっ!?!?!?」



 迷うことなく胸に飛び込んだ滝夜叉姫を反射的に受け止めて、燈馬が仰天して声を上げた。

 崩れ落ちた赤い影の中から。ぞろぞろと黒い禍付き達が這い出して来る。



「出て来たぞ!」


 玉藻前が両手両足と尻尾で小さな黒い禍付きを踏みつぶしていく。

 その奥に、大きな黒い塊が見えた。



「芦屋さん、どうする!?」

「禍付きが先だ!生霊も逃がすな!燈馬、滝夜叉姫を離すな!」

「え、え、でも!」

「昏きは還れ!」



 陰陽師たちがあふれ出た無数の黒い禍付きを術で祓い、護符で消し、綺麗にしていく。

 さっきまでの恐ろしい光景が嘘のようだ。

 大掃除の一場面を見せられているような気分でいた伊吹は、ようやく我に返ってべったりと燈馬にくっついている滝夜叉姫をまじまじと見下ろした。



 背は伊吹より少し低いくらい。

 赤い躑躅柄の打掛を来た長い黒髪の美少女の瞳は、綺麗な藤紫だ。

 燈馬のほうは滝夜叉姫と分かっているものの、目の前にいるのがどう見ても華奢な可愛い女の子なので手も足も出せないらしい。

 確かに、この子を切れと言われて切れる訳がない。

 手にしていた刀はもはやお飾り同然だ。




「あ・・あの・・五月姫・・」



 恐る恐る呼びかければ、一心不乱に燈馬を見つめていた滝夜叉姫が、一瞬だけぐりんとこちらを振り返った。



「何よ、なんであんたアタシの事知ってんのよ・・うちの女房でもやってた?」

「いえ・・えっと・・違うんですが・・その・・あたしのご先祖様がー・・」



 髭切丸を奪って、死闘を繰り広げたはずの滝夜叉姫と卜部季武だが、明らかに恋する乙女の顔をして燈馬を見上げている滝夜叉姫を見る限り仕返しなどは考えていなさそうだ。


 碓井貞光に対して、彼女がどんな思いを抱いているのか分からないが、嘘を告げるのもどうかと思う。


 迷う伊吹の足首を、冷たい何かが這ったのは次の瞬間だった。



「ひいいっ」



 振り向けば黒い大きな禍付きが伊吹の足にしがみついている。次第に人の形になっていくそれは、男のようだ。



「白・・白い花・・それは駄目だ・・駄目なんだ・・」

「し、白・・!?え・・あ、と、冬也さんの生霊!!!」



 足を振り回そうとした伊吹の真横を、一塵の風が吹いた。



 瞬きの次の瞬間。

 生霊に滝夜叉姫の見事な飛び蹴りが命中した。




「煩い!重い!鬱陶しい!!人の背中にべたべたひっついて花がどーだの煩いのよ!さんざん歩き回って探してやったでしょ!とっとと自分の身体に戻んなさい!この雑魚!」

「こっわ・・・」



禍付き蹴り飛ばす妖初めて見た・・・


「し、白って・・・あ・・」


 胸元を見下ろして、気づく。

 そこにあるのは白い朝顔の柄。白い花だ。

 白い花に執着していたのは、滝夜叉姫ではなく、冬也の生霊だったのか。



「伊吹嬢、後ろに!」


 駆け寄って来た成伴の九字の格子型の結界に、冬也の生霊はあっという間に取り囲まれた。

 背広の内ポケットから取り出した水晶に手をかざすと、見る間にその中に吸い込まれていく。

 黒く変化した水晶を確かめてから胸元に収めると、成伴が滝夜叉姫と燈馬を見てから伊吹に言った。



「ご苦労だった」

「あの、芦屋隊長!生霊が、白い花を探していたんです!あたしの着物の朝顔を見て・・」

「白い朝顔・・・」


 

 滝夜叉姫が、伊吹の着物を指さした。



「それ、曼陀羅華の花じゃないの?」

「・・・曼陀羅華・・・あ!!!」



 インドの仏教伝説に現れる天界の花。 曼陀羅は サンスクリット 語だったか。



「おおそうじゃ。曼陀羅華、チョウセンアサガオじゃのう」

「チョウセンアサガオってことは・・きちがいなすびだよ。毒性がある」



 玉藻前が頷いて、有匡が別の異名を口にした。

 上手く使えば極楽浄土が見られるという猛毒性の植物。



「彼はこの花を探していたのかな・・?」

「・・まずは冬也の生霊を戻してからだ。捜査権限を引き継いだ以上手落ちは許されん・・・有匡、私は病院に向かう」



 冬也が探していた花が曼荼羅華なら、事件は新たな展開を見せることになるだろう。

 ここから先は完全に警察の領域だ。



「え、身体に戻すなら俺も一緒に・・」

「それよりお前は、そっちをどうにか処理しておけ」

「待ってくれよ隊長!俺はどうすりゃいいんだよ!?」

「お前もついて来るな。こぶ付きの警察官は邪魔なだけだ」

「ひっでえなあ!ったく・・んで・・あんたが・・たき・・」

「とと燈馬さんっ!この子は、五月姫です!もいっこの名前で呼んだら駄目!・・・有匡さん、処理って・・」



 赤い禍付きの姿ならともかく、どう見ても自分より幼い女の子が剣で切られたり、護符で焼かれたりするところは見たくない。

 頭に蝋燭を立てて白装束でわら人形に五寸釘を打ち付け、がしゃどくろを操る滝夜叉姫と、目の前の五月姫はどうしたって別人にしか見えなかった。



 足早に神社の敷地から出ていく成伴の後ろ姿を見送りながら、有匡が参ったなあ・・とため息を吐いた。



「どうにか処理ったって・・・まあ、そりゃあ元凶は俺だから責任は取りますけどね・・」



 呪力を放っていた消炭色の瞳にはまだ光彩が宿っていて、どこか神秘的な有匡の視線が五月姫に向けられるとぞくりと悪寒が走った。

 禍付きは祓って当然、それが常識だ。



「あんた・・陰陽師ね・・大したことないけど・・」



 近づいて来る有匡を威嚇するように五月姫が睨みつけた。


「きみが知ってる陰陽師よりは随分格下だけど、これでも一応土御門一門の血は引いてるんだよ」

「・・・そっちのあんたは・・・??」



 有匡の隣の駿牙に視線を移した五月姫が急に難しい顔になった。


「ヘンなの!」

「へ、ヘンってなんですか!?そりゃあ僕は兄さん以下の三流ですけどね!?」

「駿牙、眼鏡だよ眼鏡」

「え、ああ・・眼鏡・・そっか・・」


 五月姫からの痛烈な一言に倒れかけた駿牙が体勢を戻す。

 やっぱり女の子からの評価は気になるのね・・

 なんだか妙にまったりした空気になった所で、五月姫が喧嘩口調で尋ねた。



「アタシを斬るの?祓うの?」


 なんで自分から火の粉浴びにいくのよこの子は!!!

 考えるよりも体が先に動いていた。



「殺さないでくださいっっ」



 燈馬と五月姫の前に立ちふさがるように躍り出た伊吹を前に、有匡がげんなりと言った。



「俺、そんな非道な男に見える?」

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