第4話

 ゆらり、ゆらと。

 

 

 ゆら、ゆらり、と。

 

 

 

 

 

 揺れる感覚にもしかしてと、僕は目を開けました。

 

 

 

 

 

 蝋燭。

 

 

 灯る炎。

 

 

 

 

 

 僕はゆっくりと起き上がり、辺りを見渡しました。

 

 

 

 

 

 どこ。

 

 

 

 

 どこかに。あの時消えそうになっていた僕の命の焔に、何かを注いでくれた、赤鬼は。

 

 

 

 

 

「出てきて………出てきて下さいっ…………」

 

 

 

 

 

 お会いしたい。

 

 

 もう一度。もう一度会って。

 

 

 

 

 

 会って?それから?

 

 

 

 

 

「雪也、か」

「そうです、雪也です」

 

 

 

 

 

 どこに?

 

 

 分からない。見えない。声はこんなにはっきりと、近くに聞こえるのに。

 

 

 

 

 

「お願いです。側に………側に、来て」

「ここに居る」

 

 

 

 

 

 芳しい、匂い。

 

 

 

 

 

 その刹那。

 

 

 後ろからするりと伸びて、僕を捕らえた緋色の浄衣の袖括そでくくり

 

 

 鋭い爪の指が僕の頬を掴んで僕を振り向かせました。

 

 

 

 

 

「熱は下がったか?」

「…………はい、下がりました」

「まだ具合が悪そうだ」

「これ以上良くなることはありません。お医者様もできることは何もないと、とっくに匙を投げています」

 

 

 

 

 

 眼前に。

 

 

 緋色の、眸。

 

 

 

 

 

「貴方は僕の命を救って下さいました。一言お礼を言いたくて」

 

 

 

 

 

 微かに触れる、鼻先。

 

 

 

 

 

 すぐそこに。

 

 

 すぐそこにある、僕の唇に重なったぽってりとした何かの果実のような唇。

 

 

 

 

 

 僕は、どうかしてしまったのでしょう。

 

 

 その唇がもう一度触れてくれればいいのに、などと。

 

 

 

 

 

「名前を聞いても、いいですか?」

「名前?俺の?」

「はい、貴方の」

ゆうと、呼ばれていたような気がする」

「夕、殿」

 

 

 

 

 

 気がする?

 

 

 

 

 

 首が、痛くて。

 

 

 僕は身動ぎをして腕を弛めてもらうと、自ら身体を反転させて緋色の浄衣の肩に顔を埋めました。

 

 

 

 

 

 このようなことをするのは初めてで。

 

 

 

 

 

 ………頬が、熱い。

 

 

 

 

 

 でも、初めて知る温もりに。

 

 

 心が満たされていくような、そんな気がしました。

 

 

 

 

 

 そのかいなにきつく、抱かれ。

 

 

 

 

 

 息が、止まりそう。

 

 

 

 

 

「気がする、とは?」

「誰も呼ぶ者は居ない」

「誰も?」

「誰も。俺はひとりだ」

「独り?………何故に?」

「今日は質問ばかりだな」

 

 

 

 

 

 ふっと夕殿が笑ったような気がして、僕は顔を上げました。

 

 

 すぐ前。すぐそこ。

 

 

 焔のように赤い、眸。笑う、眸。

 

 

 

 

「お前は俺が恐ろしくないのか?」

「いいえ?貴方は………夕殿は僕の命を救って下さいました。恐れるなど」

「救ったのは、お前を喰うためかもしれない」

 

 

 

 

 

 また頬を掴まれ、その眸でじっと見つめられました。

 

 

 緋色の眸。鋭い爪。頭の角。

 

 

 鬼と呼ばれる異形の者。

 

 

 

 

 

「僕を喰らっても美味しくないと思いますよ?」

 

 

 

 

 

 至極真剣に答えた僕に、夕殿は一瞬きょとんとした顔をして、笑い出しました。

 

 

 笑って笑って笑って。

 

 

 その声に、僕も笑って。

 

 

 

 

 

「お前は自分をよく分かっている。確かに美味くなさそうだ。いや、そもそも喰うところがなさそうだ」

「僕もそう思います」

 

 

 

 

 

 掴まれていた頬が離されて、親指の腹で撫でられました。

 

 

 

 

 

 心臓が止まりそうなぐらい、激しく脈打って。

 

 

 

 

 

「何故、救ってくださったのですか」

「何故、だろうな………」

 

 

 

 

 

 擽ったい頬。再び触れる鼻先。

 

 

 

 

 

 この方は。夕殿は独りと言いました。

 

 

 僕も。

 

 

 家族が居るとは言え、いつも独りで。部屋の中、布団の中、だけで。

 

 

 

 

 

 ずっと。

 

 

 

 

 

「寂しくはありませんか?」

「寂しい?」

 

 

 

 

 

 掠める、唇。

 

 

 ほんの、ほんの少しだけ、夕殿の唇が僕の唇を掠めました。

 

 

 

 

 

 はっと、息が、溢れて。

 

 

 

 

 

 もっと。

 

 

 そう願う僕が、いました。

 

 

 

 

 

「寂しいのかも、しれん」

 

 

 

 

 

 夕殿の唇が、僕の唇を左右に掠めます。

 

 

 何度も何度も掠める唇に、何故か呼吸が早くなり、あ、と。

 

 

 声が、漏れて。

 

 

 

 

 

 お願い。もっと。しっかりと。

 

 

 

 

 

 何故でしょう。接吻など、知ることのないまま終わってしまう命だと思っていたから?初めての感触が忘れられないから?

 

 

 もどかしい、こんな、掠めるだけのものじゃなくて。

 

 

 

 

 

 浄衣にしがみついて、掠める唇を感じながら緋色の眸を見つめました。

 

 

 その眸も僕を、僕だけを、見ています。

 

 

 

 

 

 独りで居た者同士の………慰み、合い?

 

 

 

 

 

「お前も寂しいのか?」

「…………寂しいのかも、しれません」

 

 

 

 

 

 重なる。

 

 

 

 

 

 夕殿の柔らかな唇が僕の唇に重なって。開いて。食んで。

 

 

 

 

 

 僕は目を、閉じたのです。

 

 

 

 

 

「抵抗、しないのか」

「しません」

「何故」

「寂しいから………でしょうか」

 

 

 

 

 

 繰り返し。繰り返し。食まれる、唇。

 

 

 何もかもを忘れさせてくれる、心地好いそれに、僕は夢中になりました。

 

 

 

 

 

「夕殿…………」

 

 

 

 

 

 日毎、欲深くなる自分が居るのです。

 

 

 

 

 

 

 長くはない。もう僕の命は長く持たない。分かっています。分かって、いる、のに。

 

 

 

 

 

「夢ではなく、現で貴方にお会いしたい」

「無理だ。お前は外には出られない。お前の身体がきっと持たない」

「それでも」

 

 

 

 

 

 それでも、僕は。

 

 

 

 

 

 同じ寂しさを知るであろう貴方に、現でお会いして、現で貴方の腕を感じたい。

 

 

 

 

 

 何故でしょう。

 

 

 何故、こんなにも。

 

 

 

 

 

 ゆらり、ゆら。

 

 

 ゆら、ゆらり。

 

 

 

 

 

 揺れる。

 

 

 

 

 

 揺れて。

 

 

 

 

 

「い、やだ」

「雪也?」

「いやだ、目が覚めてしまう。夢から覚めてしまう」

 

 

 

 

 

 離れたくなくて、夕殿にしがみつきました。

 

 

 しがみついたところで、目が覚めてしまえばすべてが消えてしまうのに。それでも。

 

 

 

 

 

「いやだ、ここに居たい。寂しいのは、独りは、あの部屋で死を待つだけの毎日はもうっ…………」

「雪也」

 

 

 

 

 

 唇が、重ねられて。

 

 

 また、何か、が。流れ込んでくる。

 

 

 

 

 

「夕殿、これは」

「これ以上は俺にはできない」

「夕殿」

「いつか、現でも…………」

 

 

 

 

 

 いや。

 

 

 目覚めたくない。目覚めたくないのです。二度と目覚めなくていいから、ここに居たい。

 

 

 もう、独りはいや。寂しいのはいや。誰かの温もりを知ってしまったら。

 

 

 

 

 

 夕殿も、そうではないのですか?

 

 

 

 

 

 触れる、唇。

 

 

 

 

 

 またな、雪也。

 

 

 

 

 

 夕殿の低い声が、聞こえたような気が、しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「雪也、大丈夫か?」

 

 

 

 

 

 呼ばれて、何故って。

 

 

 何故、起こしたのかと。

 

 

 

 

 

 知らず流れていた涙を、草也と同い年の幼友達、明宗あきむねが直垂の袖で拭ってくれました。

 

 

 

 

 

「どうした?」

「…………ううん、何でも」

 

 

 

 

 

 心配そうに僕を見下ろす明宗の視線から逃げるように、僕は顔を背けました。

 

 

 

 

 

 夕殿。

 

 

 

 

 

 夢でしか叶わぬ、夕殿との逢瀬。

 

 

 せっかく、お会いできたのに。せっかくまた、せっかく、夕殿と、唇を。

 

 

 

 

 

 自分のそれに触れて。

 

 

 

 

 

 夕殿。

 

 

 

 

 

 胸の内で、その名前を、呼びました。

 

 

 

 

 

 独りの寂しさを、お互いの中に見て。

 

 

 きっと、僕と夕殿は。

 

 

 

 

 

「雪也、具合悪いか?」

「ううん、大丈夫」

「こっち見て」

 

 

 

 

 

 僕と夕殿は。同じ、なのです。

 

 

 

 

 

 明宗に言われて、僕は明宗の方に顔を向けました。

 

 

 明宗は幼い頃から僕を見ていて、医者になることを志し、村のただ一人のお医者様について勉強をしていました。

 

 

 その帰りに毎日寄って、僕の様子を見に来てくれるのです。

 

 

 だから、感謝こそすれ。

 

 

 

 

 

 こんな風に。

 

 

 何故起こしたのかと思うのは良くないと、いけないことだと、頭では、分かっていても。

 

 

 

 

 

「いつもより、顔色がいい」

 

 

 

 

 

 明宗に言われて、気づく。

 

 

 いつもより呼吸が楽で、いつもより身体が、楽。

 

 

 

 

 

 それはきっと、先程の接吻のせい。

 

 

 

 

 

 夢から覚める寸前の接吻は、僕の中に何かを吹き込みました。

 

 

 前に命を救ってくださった時と、同じような。何か。

 

 

 

 

 

「悲しい夢でも見たのか?」

「……………」

 

 

 

 

 

 悲しい夢、では、ありません。

 

 

 夢から覚めることが、悲しいのです。

 

 

 

 

 

 もう二度と目覚めなくても、そこで夕殿と触れ合えるのなら。触れていられるのなら。唇を重ねられるのなら。

 

 

 

 

 

 寂しくは、ない。独りではない。独りきりでは、ない、のに。

 

 

 

 

 

「どんな夢だったか、忘れてしまった」

「…………雪也?」

「今日は、いつもより楽だよ。だから、大丈夫。ありがとう」

「そうか。じゃあまた、明日来るよ」

「うん…………」

 

 

 

 

 

 立ち上がる明宗を横になったまま、見送りました。

 

 

 

 

 

 もう一度目を閉じて、もう一度眠っても、夕殿にお会いすることができるかどうかは、分かりません。

 

 

 いいえきっと。

 

 

 きっと、今日はもう。

 

 

 

 

 

 次は、いつ?

 

 

 

 

 

 誰にでもなく、僕は問いました。

 

 

 

 

 

 次はいつ、お会いすることができるのでしょう。

 

 

 

 

 

「外は、寒い?」

 

 

 

 

 

 気になって、僕は襖を開けて出て行こうとする明宗に聞きました。

 

 

 

 

 

 春よ。早く。

 

 

 早く、来い、と。

 

 

 

 

 

「まだまだ寒いよ」

「そう……………」

「じゃあな、雪也」

「うん…………」

 

 

 

 

 

 春よ、来い。春よ、早く、僕の元に。

 

 

 

 

 

 あの血桜の元に行けば。

 

 

 

 

 

 現の夕殿に、会えるかもしれない。

 

 

 会いたい。現でも会って。そして。

 

 

 

 

 

 そして。

 

 

 

 

 

 それは、僕の。

 

 

 

 

 

 愚かな祈りにも似た、望み、でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 身体が楽になっていたので、僕は薬師である父様に何か読むものはないか聞きに行こうとゆっくりと起き上がりました。

 

 

 襖を開け、父様が仕事をする部屋へ行こうと。

 

 

 

 

 

 その時、前を通った草の部屋から微かに声が聞こえて来て、明宗がまだ居るのかと立ち止まり部屋に近づきました。

 

 

 

 

 

「一樹さんっ……………」

 

 

 

 

 

 草の、声。

 

 

 

 

 

 一樹さん?一樹さんが、来ているの?

 

 

 

 

 

「草也、草也…………」

 

 

 

 

 

 いつもとは違う一樹さんの声。

 

 

 まるで譫言の、ような、その声。

 

 

 

 

 

 これ、は。

 

 

 

 

 

 襖をほんの僅か、開けて、そこ、に。

 

 

 

 

 

 目を、見張りました。

 

 

 

 

 

 そこに居たのは、契りをかわす、ふたり。

 

 

 草の着物が大きくはだけ、白い肌が露になっていました。

 

 

 その肌に一樹さんが口付け、繋げた下肢を穿ち、睦みあっていました。

 

 

 

 

 

 僕は慌てて襖を閉めて、部屋へと戻りました。

 

 

 鼓動が大きく早く脈打ち、僕は震えました。

 

 

 

 

 

 草が、一樹さんと。

 

 

 

 

 

 知らなかった。

 

 

 いつ、から?

 

 

 

 

 

 自分で自分の身体を抱いても、震えは止まりませんでした。

 

 

 

 

 

 これは何の震えなのか。

 

 

 

 

 

 ずるずるとその場に座り込んで、落ち着こうと、呼吸を整えようとしました。

 

 

 

 

 

 草は………草也は。

 

 

 草也が。

 

 

 

 

 

 ………恋を、している。

 

 

 

 

 

 あの小さかった草也が一樹さんと契りを。

 

 

 

 

 

 何とも言えぬ思いが、溢れます。

 

 

 

 

 

 唇に触れて思い出すのは、緋色の浄衣を纏う、夕殿。

 

 

 

 

 

 浄衣より鮮やかな緋の眸、赤みがかった白銀の髪、角、鋭い爪。

 

 

 異形と言われる姿をした、麗しき、鬼。

 

 

 

 

 

 恋?

 

 

 

 

 

 草也の恍惚とした顔を思い出し、踞りました。

 

 

 

 

 

 幸せそうな、顔。

 

 

 

 

 

 愛しいと思う相手の腕に抱かれる、愛しいと思う相手と契る。

 

 

 

 

 

 僕にはきっと。

 

 

 それは、一生。

 

 

 

 

 

 できない、から。

 

 

 

 

 

 夕殿。

 

 

 

 

 

 夕殿に会いたい。

 

 

 会ってその温もりに触れたい。唇に触れたい。

 

 

 

 

 

 寂しい。

 

 

 寂しくて。

 

 

 寂しくて。

 

 

 

 

 

「夕殿…………」

 

 

 

 

 

 貴方も、今、どこかで同じ寂しさを感じていますか…………?

 

 

 

 

 

 僕はそこから動くことができず、ただ時が部屋を闇に染めて行くのをじっと、見つめていました。

 

 

 

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