第3話

 夢の中で赤鬼と接吻をした僕は命をとりとめて、目を覚ましました。

 

 

 父様も母様も草も泣いて。泣いて泣いて泣いて。良かった、と、喜んでいました。

 

 

 

 

 

 何、だったのでしょう。あの接吻で僕に流れ込んできたものは。

 

 

 

 

 

 不思議に思っても、聞きたくても、あれ以来赤鬼は夢に現れてはくれませんでした。

 

 

 現れないということは、あの夢は、本当にただの夢だったということなのでしょうか。

 

 

 

 

 

 お会いしたい。

 

 

 もう一度。

 

 

 

 

 

 赤みがかった白銀の髪と、緋色の眸を持つ、あの、赤鬼に。

 

 

 

 

 

 日毎欲深くなる自分の愚かさに自嘲しつつも、お会いしたいと思うこの気持ちを、どうしても消すことはできませんでした。

 

 

 

 

 

 唇に触れて。

 

 

 唇を、思い出す。

 

 

 

 

 

 麗しいあのお姿を、もう一度。

 

 

 

 

 

 熱も下がりようやく起き上がれるようになった僕は、しばらく父様にお借りした書物を読んでいましたが、赤鬼を思い出しては、どうしても集中することができず、ぼんやりとしていました。

 

 

 

 

 

 はあ、と。

 

 

 やり場のない思いを火鉢に向けて吐き出しても、胸の内を燃やして灰にして楽にしては、くれませんでした。

 

 

 

 

 

「調子はどうだ」

 

 

 

 

 

 そうやってぼんやりとしていた時、音もなく襖が開いて、幼い頃から僕に代わって草の面倒を見てくれている一樹かずきさんが、炭を入れた籠を持って部屋に入って来ました。

 

 

 火鉢の炭が灰になってしまう前にと、一樹さんが炭を足してくれました。

 

 

 

 

 

「ありがとう、一樹さん」

 

 

 

 

 

 一樹さんは火箸を置いて、青い括袴くくりばかまの脚を折って僕の側に座り、手が冷えると言って腕を組んで直垂ひたたれの袖に手を入れました。

 

 

 難しい顔をして、僕をじっと、見て。

 

 

 

 

 

「大変だったって聞いたぞ」

 

 

 

 

 

 ぼそぼそと、でも、ひどく真摯に。

 

 

 

 

 

「流石に、もう駄目だと思いました。今度こそ冥土に行くのだと」

「それを言うのはおれの前だけにしとけよ?」

「はい」

 

 

 

 

 

 一樹さんは僕より二つ年上で、優しく面倒見が良く、草だけでなく僕にとっても兄のような存在でした。

 

 

 僕が弱音を吐けるのは、一樹さんの前でだけ。

 

 

 一樹さんもそれを知っていて、時々こうして僕を見舞って僕の話を聞いてくれていました。

 

 

 

 

 

「草が泣いていた。怖かったと」

「そう、ですか」

 

 

 

 

 

 僕は草に兄らしいことなど何ひとつできなくて………申し訳ないとどれほど思ったことか。どれほど思っているか。

 

 

 

 

 

「なぁ。起きているなら髪を結ったらどうだ?見てるだけで邪魔くさいぞ」

 

 

 

 

 

 俯く僕に、一樹さんは殊更明るく言いました。

 

 

 どうしても暗くなってしまう話を一樹さんは変えようとして、それが、嬉しくて。

 

 

 

 

 

「一樹さんの髪は相変わらず短いですね」

「邪魔なんだよ。よく我慢できるな」

 

 

 

 

 

 唇を尖らせて、一樹さんが僕の髪を引っ張るので、僕は痛いよって、思わず笑いました。

 

 

 こうして声を出して笑うなんて、随分久し振りな気が、して。

 

 

 笑うことさえ忘れていた自分が、やはり、虚しくて。

 

 

 

 

 

「雪也?」

「死ぬまで伸ばそうと思ったのはいつだったか…………」

「髪を?」

 

 

 

 

 

 自分の髪に指を絡めて、幼い頃に決めたことを、思い出しました。

 

 

 

 

 

「長く生きられないなら切る必要もないと。ならば死ぬまで伸ばしてみてもいい、なんて。まさかこの年まで生きるとは思わず、随分長くなってしまいました」

「お前は冬生まれのせいか名前のせいか色白で、しかも華奢だからな。普通に女に見える」

 

 

 

 

 

 一樹さんは僕がしていたように、僕の長い長い髪をするするっと指に絡めて、柔らかく笑いました。

 

 

 見る者をほっとさせる笑みに、僕もつられて笑いました。

 

 

 

 

 

「兄さん?」

「…………草、どうした?」

 

 

 

 

 

 襖が開いて、草が不安そうに顔を覗かせました。

 

 

 今にも泣いてしまいそうな。そんな顔。

 

 

 

 

 

「兄さんの笑い声が聞こえて」

「一樹さんが僕の髪が邪魔だって、引っ張るから」

「久し振りに聞きました。兄さんの笑う声」

「おいで」

 

 

 

 

 

 手招きすれば、恥ずかしそうに、笑って。

 

 

 

 

 

「父さんの手伝いがあるから」

「実の兄に照れてどうする」

「うるさいよ、一樹さん。兄さん、後で食事と薬を持ってくるね」

「ありがとう、草」

 

 

 

 

 

 一樹さんにはむっとした顔を、僕にははにかんだ笑みを向けて、草は襖を閉めて行ってしまいました。

 

 

 もっと甘えてくれてもいいのに。

 

 

 

 

 

「一樹さんの方が本当の兄さんみたい」

「んなことないぞ」

 

 

 

 

 

 じゃあ、そろそろ行くな、と、一樹さんは僕の頭をくしゃくしゃと撫でてから、立ち上がりました。

 

 

 いつもなら引き留めたりはしないのですが、今日は。今日、は。

 

 

 

 

 

「一樹さん」

「なんだ?」

「…………もし、もし僕が最期に血桜を間近で見たいと言ったら………連れて行ってくれますか?」

 

 

 

 

 

 他の誰にも頼めなくて。けれどどうしても、近くで見たくて。

 

 

 もう、無理にでも、行かないと、僕は。

 

 

 

 

 

「雪也」

 

 

 

 

 

 怖い、顔。

 

 

 

 

 

 怒って、いる。

 

 

 

 

 

 僕は。

 

 

 僕は、そのようなことを、望んではならない、のに。

 

 

 

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 

 

 

 連れて行ってもらえないなら、ひとりで。

 

 

 死を覚悟して。

 

 

 歩いて行く………しか。

 

 

 

 

 

「そんなのいつでも連れて行ってやる。だから最期になんて、言うな」

「一樹さん…………」

「もう少し暖かくなったら行こう」

 

 

 

 

 

 一樹さん。

 

 

 の、言葉が信じられなくて。

 

 

 僕は。

 

 

 

 

 

「いいの…………?」

「おぶって行ってやる」

「本当?」

「だから最期になんて、言うな」

 

 

 

 

 

 涙が溢れて、止まりませんでした。

 

 

 一樹さんがまた僕の側に膝をついて、直垂の袖で涙を拭ってくれました。

 

 

 

 

 

「泣くな、草が心配する」

「……………はい」

 

 

 

 

 

 早く。お願い。早く。

 

 

 早く暖かくなって下さい。

 

 

 早く暖かくして下さい。

 

 

 暦の上では春だけれど、まだ春と言うには寒く、きっと外に出ることは父様も母様も許してくださらないから。

 

 

 

 

 

「行こう、絶対に」

 

 

 

 

 

 一樹さんの優しい声に。

 

 

 僕は何度も何度も、頷きました。

 

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