第5話

 その日から、夕殿はぷつりと姿を消してしまいました。

 

 

 どんなに眠っても、何日待っても、夕殿が夢に現れることはなく、寂しさは募るばかり。

 

 

 

 

 

 同時に、僕の身体はみるみる衰弱していき、座っていることさえ、僅かな時間しかできなくなっていました。

 

 

 

 

 

 もう、駄目。

 

 

 

 

 

 夕殿にも会えない。

 

 

 こんな状態では血桜を見に行くことさえできない。許してもらえない。

 

 

 

 

 

 僕は何のために生まれ、何のために死んで逝くのか。

 

 

 

 

 

 天井を見上げ、己のさだめを憎みました。

 

 

 溢れる涙を拭う気力さえ、なくて。

 

 

 

 

 

 もう、明日は来ないかもしれない。

 

 

 

 

 

 泣き出しそうな顔で僕を見る草にも、何も言えずにいました。

 

 

 

 

 

「兄さん、何か食べたいものはない?」

「…………ないよ」

「少しでもいいから何か食べないと」

「…………いいから、眠らせて」

「兄さん…………」

 

 

 

 

 

 眠りたい。

 

 

 

 

 

 眠って、眠って。

 

 

 

 

 

 夕殿の腕に抱かれたい。

 

 

 唇の熱でこの寂しさを溶かしたい。

 

 

 

 

 

 それが叶わないというのなら。

 

 

 

 

 

 もう。

 

 

 

 

 

 いい。

 

 

 

 

 

「また、様子を見にくるね………」

「草」

「なに?兄さん」

「僕が眠っている時は、起こさないで」

「…………うん、分かった」

 

 

 

 

 

 

 

 優しい言葉をかけることもできませんでした。

 

 

 

 

 

 目を、閉じて。

 

 

 

 

 

 夕殿。

 

 

 

 

 

 応えてくれぬと分かってはいても。

 

 

 思うことは、そればかり。

 

 

 

 

 

 夕殿。夕殿。

 

 

 

 

 

 最期に、貴方にだけは会いたい。

 

 

 会ってから………逝きたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「雪也」

 

 

 

 

 

 聞こえる、声。

 

 

 

 

 

「雪也、起きろ」

 

 

 

 

 

 この声は。

 

 

 夕殿?

 

 

 

 

 

「…………ゆめ?」

 

 

 

 

 

 低い声。

 

 

 頬に触れる熱い手。

 

 

 

 

 

「雪也、目を開けろ」

「…………え?」

 

 

 

 

 

 薄い闇が漂う部屋。

 

 

 僕の、部屋。

 

 

 

 

 

 夕殿の声が聞こえた気がして、目を開けました。

 

 

 

 

 

 これは、夢ではなく、現。

 

 

 現、なら。

 

 

 

 

 

 夕殿には、会えない。

 

 

 

 

 

 涙が溢れそうになって、僕はまた目を閉じました。

 

 

 

 

 

「雪也、俺だ」

「…………夕、殿?」

「ここに居る」

 

 

 

 

 

 もう一度。

 

 

 頬に触れる、熱い手を感じました。

 

 

 

 

 

 嘘。

 

 

 本当に?

 

 

 

 

 

 目を開けて視線を動かせば、薄い闇に白銀の髪が浮かび見えて。

 

 

 

 

 

 胸が。

 

 

 胸が、震えました。

 

 

 

 

 

「夕殿…………!!会いたかった…………もう、もう会えないと思った………!!」

「雪也、静かに。家人に気づかれる」

「夕殿………」

 

 

 

 

 

 頬に触れる手を握り、頬を寄せました。

 

 

 熱い。熱い、手。

 

 

 

 

 

 夢じゃない。

 

 

 これは現。

 

 

 

 

 

 現でこんな風に、触れることができるなんて。

 

 

 

 

 

「随分と衰弱しているな」

「…………もう、本当に二度と会えないかと」

「すまぬ」

 

 

 

 

 

 ふわりと、夕殿が僕に覆い被さり、その芳しいにおいに包まれました。

 

 

 

 

 

 良かった。

 

 

 

 

 

 最期に。会えて。

 

 

 現で、会えて。

 

 

 

 

 

「もう少しで血桜が満開になる」

「血桜?」

 

 

 

 

 

 ここの、この村の中心にある、赤い花弁の不可思議な万年桜。

 

 

 少しずつ花が増えていっているようだと、草が言っていたような気がする。

 

 

 

 

 

「もう少しだ。それまで」

 

 

 

 

 

 それまで?

 

 

 

 

 

 夕殿の唇が、僕の唇に、触れました。

 

 

 夢の中よりもずっとずっと熱い、唇。

 

 

 

 

 

「それまでは、生きろ」

 

 

 

 

 

 生きろ。

 

 

 

 

 

 声と共に流れ込む、熱い、何か。

 

 

 夢の中よりもはっきりと感じたそれは、僕の身体に広がって。

 

 

 

 

 

「明日も来る」

「夕殿…………」

 

 

 

 

 

 行かないで。

 

 

 側に居て。

 

 

 

 

 

 言葉にするよりも先に夕殿は、闇に消えていきました。

 

 

 

 

 

 血桜が満開に?それまでは?

 

 

 何故そう言ったのかは分かりません。

 

 

 

 

 

 けれど。

 

 

 明日も来てくれると言うのなら。

 

 

 

 

 

 僕は、生きていたい。

 

 

 

 

 

 生きて、いたい…………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 外が騒がしくて目が覚めました。

 

 

 外が明るくて朝なんだと思いました。

 

 

 

 

 

「兄さん」

「…………草?何かあった?」

 

 

 

 

 

 身体は少し楽になっていました。

 

 

 起き上がれるかもしれない。

 

 

 けれど、昨日まで臥せっていたのにと、草に不審に思われるかもしれない。

 

 

 

 

 

 そう思って、横になったまま顔を覗かせた草也に問いました。

 

 

 

 

 

「明宗が………」

「明宗が?」

「昨夜、うちの近くで鬼に遭遇したと」

「………………っ」

 

 

 

 

 

 鬼。

 

 

 

 

 

 聞いて、心臓がどくりと跳ねました。

 

 

 

 

 

 それは、夕殿だ。

 

 

 夕殿のことに間違い、ない。

 

 

 

 

 

 昨夜、僕のところへ来たのが何刻なのかは分からない、けれど。

 

 

 

 

 

 明宗に、見られた…………?

 

 

 

 

 

 昔からこの辺りに伝わる話に、異形の者の話がありました。

 

 

 血桜と、そこに湧く泉を守っているのが鬼なのだと。

 

 

 それはこの村独自の言い伝えだけれど、長老様や村長様たちはそこへのお供えを欠かさないと、父様に聞いたことがありました。

 

 

 鬼は、ここを守る者。

 

 

 

 

 

 けれど、それは恐ろしく、時として人を喰らうことがある者、と。

 

 

 

 

 

「ただの言い伝えではなかったのかと、村中が騒ぎになってて」

「見間違いじゃなくて………?」

「薄闇に浮かぶ白銀の髪と角が見えたと、明宗が」

 

 

 

 

 

 夕殿…………。

 

 

 

 

 

 鬼。

 

 

 人ではない、異形の、者。

 

 

 

 

 

 もし夕殿がここに来ているということが知れてしまったら、夕殿はどうなってしまうのでしょうか。

 

 

 人を喰らうと言われている鬼がここに来ては危険なのでは、ないのか、と。

 

 

 

 

 

 僕は夕殿に命を伸ばしてもらっている。

 

 

 それを果たして信じてくれる人はいるのでしょうか。

 

 

 僕が夕殿と接吻をしているのを草が見たら?

 

 

 夕殿に喰われていると勘違い、して。

 

 

 

 

 

 考えれば考えるほどに不安で。

 

 

 でも。会いたくて。

 

 

 

 

 

 夕殿。

 

 

 

 

 

 もし今日も来て下さると言うのなら。

 

 

 僕は貴方にお願いしたい。

 

 

 

 

 

 僕をここから連れ出して、と。

 

 

 

 

 

 例えすぐに死んでしまってもいい。

 

 

 ここから出たい。この狭すぎる世界から、飛び出したい。

 

 

 そして血桜を見て、貴方に看取られて、見送られて、貴方の腕に抱かれて逝きたい、と。

 

 

 

 

 

「きちんと戸締まりをして、気を付けるようにと…………兄さん?」

 

 

 

 

 

 気を付ける?

 

 

 

 

 

 夕殿が居なければ、僕はとっくに冥土へと連れて行かれているのに。

 

 

 そして夕殿は、戸など関係なくきっと出入りする術を持っている、のに。

 

 

 

 

 

 草が、黙ったままの僕を心配そうに見ています。

 

 

 茶色の目が、じっと、僕を。

 

 

 

 

 

「戸締まりをして、気を付けないといけないね」

「はい」

 

 

 

 

 

 にこりと草に向かって嘘の笑顔を向けて。

 

 

 もう少し寝ると、草を部屋から下げました。

 

 

 

 

 

 夕殿。

 

 

 

 

 

 今日も貴方は来て下さいますか?

 

 

 来て僕をその腕に抱いて下さいますか?

 

 

 お願い。

 

 

 

 

 

 見つかる前に。

 

 

 誰かに見つかり、貴方とお会いできなくなる前に。

 

 

 

 

 

 僕をどうか。

 

 

 

 

 

 ここから連れ出して。連れ出して、ください。

 

 

 

 

 

 血桜が満開になるまで。

 

 




 満開になったら何があると、貴方は言うのでしょう。

 

 

 

 

 

 夕殿。

 

 

 

 

 

 満開にならなくても、それが見られなくても、いいから。

 

 

 

 

 

 目を閉じて、僕は夕殿を、心の中で呼び続けました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とんとん、と。

 

 

 肩を叩く感触と、芳しいかおり。

 

 

 

 

 

 夕殿?

 

 

 

 

 

 手を握って、その手に頬をすり寄せました。

 

 

 あたたかい。熱いぐらいの、夕殿の手。

 

 

 

 

 

「雪也」

 

 

 

 

 

 低く囁く声。

 

 

 消えてしまいそうな程小さな声に不安になって、夕殿を探しました。

 

 

 

 

 

 とんとん、と、再び肩を叩かれて。

 

 

 

 

 

「起きろ」

「ゆう、どの?」

 

 

 

 

 

 重い瞼を持ち上げれば、すぐそこに夕殿が居ました。

 

 

 

 

 

「夕殿っ…………」

「静かに」

 

 

 

 

 

 絡みつけた僕の腕に応えるかのように、夕殿も僕を抱き締め、そして、何も言わないまま、唇が重ねられました。

 

 

 僕に、流れてくる、何か。

 

 

 

 

 

 いくつも、いくつも。

 

 

 重なって。

 

 

 

 

 

「また来る」

「夕殿!?」

「静かにしろ」

 

 

 

 

 

 もう一度重なって。塞いで。夕殿は僕から言葉を奪いました。

 

 

 

 

 

「外に人が居る」

「…………え」

「見つかる前に行く」

 

 

 

 

 

 離れようとする夕殿に、離れて行く腕に、僕はしがみつきました。すがりつきました。

 

 

 

 

 

「行かないで」

「雪也」

「ひとりで行ってしまわないで、僕も連れて行って」

 

 

 

 

 

 お願い。

 

 

 ひとりで居たくない。夕殿と居たい。

 

 

 

 

 この気持ちが何なのか、僕には分かりません。

 

 

 草と一樹さんのような恋仲を望んでいる?

 

 

 そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれません。

 

 

 先のない命。先のない僕。

 

 

 

 

 

 夕殿との間に、何かを望む、という訳ではありません。

 

 

 

 けれど、行かないで。側に居て、側に居させて。

 

 

 最期の瞬間に、ひとりで居るのは嫌なのです。

 

 

 最期の瞬間は。

 

 

 

 

 

 夕殿の腕の中で、あたたかく、逝きたい。

 

 

 

 

 

「夕殿、お願い」

「雪也………」

 

 

 

 

 

 夕殿の、焔のような緋色の眸が揺れました。

 

 

 迷い、考えあぐねているようでした。

 

 

 

 

 

 違う、ごめんなさい。困らせたいのではないのです。困らせたくない、ただ側に居たい。

 

 

 そう、思った………だけ。

 

 

 

 

 

「ごめんなさい…………」

「雪也………」

 

 

 

 

 

 夕殿の唇が、もう一度僕に触れました。

 

 

 熱く、柔らかい、夕殿の唇。

 

 

 僕の唇にそっと重なって、左右に掠めて。涙が、溢れそうでした。

 

 

 

 

 

 その時です。

 

 

 

 

 

 だんっ!!と。

 

 

 

 

 

 襖が、大きな音をたてて、開いて。

 

 

 

 

 

「誰だ!?」

「………っ」

 

 

 

 

 

 驚き、大きく跳ねた僕の身体を、夕殿が守るように包み込んでくれました。

 

 

 

 

 

 襖の向こうには明宗と一樹さん、そして、草。

 

 

 

 

 

「鬼が何故ここに居る」

 

 

 

 

 

 明宗が一歩、僕の部屋に入りました。

 

 

 

 

 

「明宗、この方は」

「ここで雪也に何をしている!?」

「明宗、聞いて」

 

 

 

 

 

 怒りがまるで、見えるようでした。

 

 

 明宗の厳しい声、厳しい顔。

 

 

 手にしているのはどこからか持って来た、刀。

 

 

 

 

 

 やめて。

 

 

 やめて、お願い、夕殿を傷つけないで。

 

 

 

 

 

「夕殿…………」

 

 

 

 

 

 手を、離さなければ。

 

 

 明宗が夕殿を傷つける前に。

 

 

 夕殿がこの三人を傷つける前に。

 

 

 

 

 

 手を。

 

 

 この、手を。

 

 

 

 

 

「夕殿」

 

 

 

 

 

 また、と。

 

 

 また来ると、どうか。言って。

 

 

 

 

 

 離せなくて、俯きました。

 

 

 

 

 

「俺と、行くか?」

 

 

 

 

 

 抱き寄せられ、焔の眸が優しく僕を、見ました。

 

 

 あたたかに灯る、焔の眸。

 

 

 

 

 

「雪也」

「行く、お願い、連れて行って」

 

 

 

 

 

 夕殿に、強く、すがりました。

 

 

 

 

 

 一度だけでいい。

 

 

 一度だけでいいから………我が儘を言いたい。

 

 

 

 

 

 夕殿の側に居たい。

 

 

 ただ、それだけを。

 

 

 

 

 

「何してる!!離れろ!!」

 

 

 

 

 

 明宗の声が響いて、刀を抜くのが見えました。

 

 

 

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 

 

 

 ふわり。

 

 

 ふわ、りと。

 

 

 

 

 空気が揺れて。

 

 

 

 

 

 僕は、緋色の焔に包まれました。

 

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