1-12 『踏み潰された可哀想な蟹』
ふと横を見てみれば、奴はケーキの底に埋まっていたチョコレートプレートらしきものを指さしていた。
「そうそう。『踏み潰された可哀想な蟹』さ」
「ああ、だからケーキの下に」
にこやかに答えた怜さんの言葉に、成程と桐山が頷く。俺の左隣では、月島が怪訝そうな顔をして食べる手を止めていた。彼女は憮然としたまま、俺の方に目を向ける。
「何のこと、蟹って。この文脈にどう関係あるの?」
「あー……ヘラクレスの神話に出てくる大蟹の事だろ、多分」
彼女からのひそひそ声での質問につられ、自然と俺も声を低くしてそう答えてしまった。
「どうして、可哀想なの?」
さらに声を潜められ、俺も自然、何となく背を低めながら口を開く。
『多分、『ついで』扱いされたからじゃないか? ギリシャ神話じゃ、ヘラクレスのことが嫌いな女神ヘラが、ヒドラとの対決を邪魔するために怪物のカニを送り込んだんだが……ヒドラとの戦いに集中していたヘラクレスに気づかれずに踏みつぶされて殺された、ってことになってる」
「扱いが雑すぎるわね」
成程、と桐山の従妹は真顔で頷く。
「だろ? で、英雄に全く見向きもされず、倒したことさえ知られないことを哀れに思ったヘラによって、天に挙げられて星座になったってわけ。ま、ヘラクレスにとってはヒドラ退治の『ついで』に殺したちっぽけな存在でも、ヘラにとってはどうでもよくなかったんだろうね」
そういやそうだったな、と俺は桐山の捕捉に頷く。つまり、かに座が夜空に輝く星座となったのは女神ヘラの私情も含んでいたというわけだ。さすが最高神の正妻……って、ちょっと待った。
「桐山くん、ちょっと」
俺が口を開く前に、桐山の従妹が顔を上げ。
「なに? ゆ……待った待った、月島さん! 足踏まないで痛い!」
屈託のない微笑みで頬杖を突き、こちらをいつの間にか覗き込んでいた桐山は、さっと足をひっこめる動作をしながら姿勢を正した。
「しれっと会話に入ってこないで。びっくりするから」
「だって二人でコソコソしてると気になるじゃん? 僕も混ぜてよ」
「桐山くんに聞くと、話が長くなるんだもの」
そんな応酬が俺を挟んで始まり、俺はため息を吐いて黙々とケーキを食べる。
いたたまれなさは、美味しいケーキのお陰でたちまちにどこかへ飛んでいった。我ながら意外と単純な一面もあったものだと思う。
「――さて」
夢中でババロアケーキを食べ進めていると、一足先にケーキを平らげた桐山がそう切り出す。
「今日集まってもらったのはあれね。『星空探偵』の新メンバーの顔合わせがしたくって」
「そう。成程ね」
スプーンを置き、「ふむ」と言いながら月島さんが俺の顔に視線を向ける。しげしげと眺められ、きまり悪くなった俺はついと顔を思わずそらした。
「……さっきも言ってたが、その『星空探偵』って何なんだ?」
もしや、先ほどから俺を凝視している彼女もそのメンバーなのだろうか。
「日常の謎を見つけて紐解く団体名」
桐山が誇らしげに説明してくるけれど、全くもって意味が分からない。
「……目的は?」
「そんなの、『楽しむため』に決まってるだろ?」
人差し指を振りながら桐山は微笑む。
語尾に『僕が』とつきそうな気がするのは気のせいだろうか。
「僕さあ、ずっと憧れてたんだよね。友達と何気ない日常の謎を、ああでもないこうでもないっていいながら駄弁って放課後過ごすの」
友達と言われても、俺は桐山と同じクラスになってから今日初めて喋ったばかりなのだが。思わずそう突っ込みそうになったものの、隣の彼女が「不本意だわ」とボソリと言うのが聞こえ、言葉が引っ込んだ。
「ええと……月島、さん」
「月島でいいわ、碓氷くん。同い年なのだし、遠慮は無用よ」
「あ、はい」
躊躇いがちに呼びかけると即答えが返ってきた。俺は目を瞬かせながら大人しく頷く。
「月島もその『星空探偵』に、昔から入ってるのか」
「訳あって、不本意ながら」
なんだか引っ掛かる物言いだった。
「不本意て」
「大丈夫よ。今のところ楽しませてもらってるし、来たくなくなったら音信不通になるから」
音信不通という言葉が不穏すぎる。が、本人が楽しんでいるのなら俺が何を言うことでもない。
「そうか」
「本当はもう一人、いるんだけど」
月島がスカートのポケットからスマホを取り出してトトトっと操作する。そして眉を微かに顰めた。
「……あら、来れなくなったらしいわ」
「そうか、残念……って、僕のところには連絡来てないけどなんで?」
「何かしたの、桐山くん」
「あのさ、毎回僕が何かやらかした前提で話すのやめない?」
「だってあなたデリカシーないんだもの」
「え……? ひどい」
どうやらもう一人のメンバーがいるらしいが、来れなくなったらしい。俺は桐山と月島のやりとりを聞きながらアイスティーを啜る。
「まあまあ、そのうち会えると思うからこのままゆっくりしてきなよ」
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