アラマシ

 別室から戻ってきた嶋々はだいぶ落ち着いたらしく、席に着くと何事もなかったかのようにキーボードを打ち始めた。続けて課長とともにオフィスに入ってきた蟹流は、どこか気落ちした様子が窺えた。


 終業時間となり、おおかたの社員が帰宅の準備を始めた。幕田間は嶋々がオフィスから出て行くのを見送ってから、席を立って式遊のデスクへと近づいていった。


「課長。あの……」


「なんだ?」ディスプレイを睨んでいた式遊が顔を上げる。


「さっきの嶋々さんのことなんですが」


「ああ……」式遊は視線を外して長い溜息を吐き、片目を細めて幕田間を斜めに見上げた。「他人の詮索か? 物好きなやつだな」


「そう言われましても……」


「冗談だよ」式遊は皮肉な笑みを浮かべた。「どうせ、もう誰かから聞いたんだろ?」


「ええ、まぁ、だいたいのことは九尾から」


「なら充分だろ? それとも答え合わせでもしたいのか?」


「というか、第三者視点ではなく、当事者の見解が知りたいんです。それに、九尾の話が本当なら自分も言動に気をつけないと」


 真剣な表情で頷いた式遊は、「そういえば、昼間にも公園でそんな話をしたな」と思い出したように言った。「それで、九尾は何と言っていた?」


 幕田間は視線を外し、少し考えるような素振りを見せた。


「蟹流が嶋々さんのメイクについてアドバイスをしたと。アイシャドウはもっと薄めのほうが男ウケが良いとか、口紅の色も彼女の印象に合わせて明るめの色にしたほうが似合うとか」


 式遊はデスクに両肘をついて手を組み、幕田間の話を黙って聞いていた。


「九尾の話を聞いた限りでは蟹流に非があるようには思えませんでした。彼女のメイクをけなしたりののしったりしたのではなく、より善くなるようにとアドバイスをしたわけですから」


「アドバイスか……」式遊は幕田間の言葉を咀嚼そしゃくするようにゆっくりと呟いてから、椅子の背凭せもたれに身体を預けた。「なぁ、たとえば、プライベートでの服装や普段の生活態度について他人からあれこれ言われたら、おまえはどう思う?」


「それは……言い方にもよると思いますが、悪意がないのであれば自分は別に……。相手の言葉に一理あると思えば、その意見を取り入れて改善したりするかもしれませんが、そうでなければ受け流すだけです。所詮は他人の意見ですから、聞き入れるも入れないも自分の自由です」


「まぁ、そうだな」式遊は天井を見上げるようにして再び長い溜息を吐き出し、幕田間に視線を戻してから口を開いた。「だがな、そういうことができないヤツもいる。俺や嶋々みたいにある程度の年を食っていて、色々と余裕がない連中は特にな」


 そう言って式遊は身体を起こして姿勢を正した。


「どういうことですか? あの……いやしい言い方かもしれませんが、課長も嶋々さんも、自分たちよりは良い給料をもらっているはずでは?」


「金の話じゃない」式遊は頭を左右に振る。「生き方の話だ。理想に思い描く自分の姿と、現実と向き合う自分の姿とのあいだに、埋めようのない溝があるんだよ。初めはヒビ割れ程度の些細なものだったのが、年月をかけて少しずつ少しずつ開いていって、いつの間にかグレートキャニオン並みの峡谷になっちまってる。でもな、本人たちにはそうは映っていない。まだ取り返しがつくものと信じて、必死にその溝を埋めようと躍起になっているんだ。だから余裕がない」


「でも、理想と現実にギャップがあるのは当然のことじゃないですか? それは誰しもが同じで、似たような悩みや苦しみを抱えて生きているのが普通でしょう? 金持ちになりたいからと懸命に仕事に励んだところで、必ずしも億万長者になれるものでもないですし」


「幕田間、そういった類の話じゃないんだよ。言うなれば、実現可能だった現実が遥か遠くに乖離していく感じだ。夢の中でもがいている感覚に近い。目の前に見えている景色に、いつまで経っても辿り着けないような、そんなもどかしい気持ちに似ている」


「嶋々さんが言われたことって、そこまで大袈裟なことですか?」幕田間は不服そうにわずかに口許を歪めた。


「大袈裟かどうかを判断するのは周りじゃない」


「そうだとしても、あくまで蟹流が言ったことはアドバイスで」


「アドバイスってのはな」式遊は幕田間の言葉を遮って続けた。「相手からわれて初めて機能するものだ。求められてもいないのに他人にあれこれ口出しするのは、そいつのただの傲慢だ」


「ですが……」


「嶋々はな、蟹流の言葉をアドバイスだなんてひとつも思っちゃいなかった」


 幕田間は口を閉じて式遊の次の言葉を待った。


「彼女からしたら、ただの侮辱でしかなかったんだよ」


「侮辱って、そんな」


「物事をどう捉えるかは人それぞれだ。さっきも言ったが、自分に向けられた発言をアドバイスと取るか侮辱と取るか、大袈裟と思うか些細なことと思うか、すべては受け取る側の問題なんだよ。本人が気にしていることを指摘されたならなおさらだ。発言者に悪気があろうがなかろうが、そんなこたぁ関係ない。だから嶋々はハラスメントだと言ったんだ」


 九尾の『嶋々の反応が過剰だ』という言葉が浮かび、思わず口に出しそうになった幕田間だったが、すんでのところで思いとどまった。


「それで、二人は和解……というか、蟹流の誤解は解けたんですか?」


「ああ。俺も蟹流から話を聞いて、あいつに悪気がなかったのはわかったからな。まぁ、俺個人としては、嶋々のほうも少しばかり神経質になりすぎてたんじゃないかとは思うけどな」


 幕田間は黙って頷いた。


「これはここだけの話だから他言するなよ。それと、昼間の繰り返しになるが、おまえも他人の容姿や趣味に関する発言には充分に気をつけろよ」

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