カップル

 式遊から昼間と同じ助言を受けたところで会話を切り上げた幕田間は、社を出て最寄りの駅へと向かった。普段よりも四十分ほど遅い時間だったが、駅のホームには多くのスーツ姿の男女が列をなしていた。


 到着した電車の車内も混雑しており、ひょっとしたら座れるのではないかという淡い期待は見事に裏切られてしまった。乗客の波に押され、車内の中央付近まで流される。


 春先の外気の中ではまだ肌寒さを感じるものの、人いきれが充満した車内ではわずか数分で汗が滲み出し、肌に張り付くシャツが不快感を与えてくる。


 私鉄との接続駅をふたつ通過したあたりで、ようやく身動きが取れる程度に乗客が減ってくれた。その機を逃さず、両足での踏ん張りを少しでも軽減させようと、幕田間は近くのつり革へと右手を伸ばした。


 体重を預けて視線を下げると、目の前の席が二人ぶん空いている。つり革に掴まることばかり考えていたせいか、まるで気づかなかった。誰かに取られる前に座ってしまおう。


 身体の向きを反転させようとした寸前、乗客を押しのけてやってきた若い男女が空席に乱暴に腰を下ろした。


「ラッキー!」


「もう無理。すんごい疲れちゃったー」


 カップルの両隣の乗客が迷惑そうな視線を向けたが、二人の風体を見るなり何事もなかったかのように顔を背けた。


「てかさ、この動画ちょっと見てみ。マジ、ウケっから」人目もはばからず大声で話し出した男は、両サイドを刈り上げた赤い髪をパンチパーマにしており、スマホを持つ指には文字らしきタトゥーが見える。黒のダボついたスウェットを着ているせいでわかりづらいが、重量級の柔道選手のように体格もいい。


「なになに?」男の持つスマホを覗き込むようにしている女は、顔にかかるミルクティー色に染めた長い髪を片手で押さえつつ、もう一方の手で異様に丈の長いニットの裾を伸ばしている。胸元が大きく開いたそれを凝視していた幕田間は、ふと我に返って顔を上げた。


 動画の音声が数秒流れ、続いてカップルの下品な笑い声が車内に響き渡った。声の大きさに数名が振り返る。が、無表情のまますぐに顔を戻した。迷惑に思っている者も少なからずいるはずなのに、彼らを注意しようとする人間は一人もいない。


「マジ草ぁ!」


「こんなんクッソ笑うよなぁ!」


 どうせ乗車している間だけのことであるし、わざわざモラルを振りかざして酷い目に遭ってはたまらない。そもそもこういった迷惑行為を平然とする輩に社会の常識を説いても無意味だ。別に耐えがたいことでもない。我慢してさえいれば穏便に済む。それでも気にさわる人が注意すればいい。


 ほとんどの乗客がそう思っているはずで俺だってそうなんだ、と幕田間は周囲の人間の考えを想像して同調することで、行動しない己の正当化を図った。


「てかさ、そのネックレス何? 俺が誕プレでやったのとちげぇじゃん」


「これ? チョー可愛くない?」女が胸元のネックレスを持ち上げる。


「俺がプレしたヤツは?」


「うちにあるよ」


「は? てかさ、何で俺と会うのに俺がやったヤツつけてこねぇわけ?」男の声音に怒気が混ざり始めた。


「え、別にいいじゃん。ネクハラやめてよー」


「よくねぇよ! てかネクハラって何だコラッ!」男が猛獣のようにえて急に立ち上がり、女の眼前に立ちはだかった。同時にカップルの両側三つ隣までの乗客が席を立ち、彼らの前面にいた幕田間と周りの乗客も乗降口付近までそそくさと移動した。


「今やってんじゃん、ネクハラ。てか何怒ってんの? マジ意味わかんない。それに気づくの遅いしー」


「あぁ? テメェがつけてるもんとかイチイチ気にしてるわけねぇだろ!」


 男の発言には矛盾が生まれているが、怒りのせいなのか彼に気づいた様子はなく、当然、周りの人間にも指摘する者はいない。見回すと、何人かがスマホの背面カメラをカップルに向けている。


「は? ナニソレ? 酷くない? てかマジ酷いんだけど」


「誰からだ」


「はぁ? 何が?」今や女の語調にも怒りが感じられる。


「そのクソッタレなネックレスは誰からもらったんだって聞いてんだよ!」


「もらってないし。自分で買ったし」


「吹いてんじゃねぇ! リア、テメェ浮気してんだろ!」


「浮気ぃ? 何でそうなるわけ? してないし。マジ意味わかんない」女が視線を逸らす。その仕草が感情を逆撫でしたらしく、男が彼女の長い髪を引っ掴んでじり上げた。「痛ッ! ちょ、やめてよ! 痛いッ!」


「相手は誰だ! リュウイチか? ショウか? それともこの前言ってた外人か! 言えッ!」言いながら男は掴んだ髪を前後にグイグイと引っ張っている。


「知らないッ! してないッ!」女がヒステリックに泣き叫んで否定しても、男は力強い手の動きを止めない。


 幕田間は一人くらい仲裁に入らないのかと周囲を窺ったが、撮影に夢中になっている者たちの他には、自分と同様に、相変わらず被害が及ばないようにと遠巻きに見ている者たちしかおらず、ヒーローになろうという命知らずの気配はなかった。


 眼前で突如として始まった凶悪な行為に、ショックと恐怖で為す術もなく突っ立っていた幕田間は、車掌を呼びに行ってはどうかとようやく思い至った。男に気づかれないよう、そろりそろりと現場を離れようとしたところで、車両が大きく揺れて電車が減速し始めた。


 ブレーキの音が聞こえてきたのを合図に、車内にどことなく安堵の空気が広がった。それは問題の解決に対してではなく、問題は置き去りで我が身を遠く離れた場所へと逃れさせて安全を確保できるという、無責任な安心感からくるものであると幕田間は理解していた。


 事実、電車が駅に到着して乗降口が開くなり、まるでダムが決壊したがごとく、みな我先にとホームへ流れ出た。幕田間も群衆に紛れて車両から降りた。

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