第50話

あたしは覚悟を決めて女子トイレを出た。



廊下は相変わらず静かで人の声は少しも聞こえてこない。



みんな大人しく眠っているのだろう。



あたしは足音を殺しながらそっと前進する。



ナースステーションの光が右手から洩れて見えている。



あたしは光の前にさしかかったとき、四つん這いになり身を屈め。はいはいするように移動を開始した。



ナースステーションからは微かな話声が聞こえて来る。



人がいるみたいだ……。



あたしはゴクリと唾を飲み込んだ。



背中にジワリと汗が滲んでくるのを感じる。



今すぐ逃げ出してしまいたい感情に支配されるが、それでも前進を続けた。



たった数メートルというナースステーションの距離が永遠のように長く感じられ、呼吸まで止めてしまう。



やがて階段が視界に見えた。



それでも焦る気持ちを押し殺し、ゆっくりゆっくり近づいていく。



あたしが怪談に到着して立ち上がったのと、ナースステーションから看護師さんが出て来たのはほぼ同時だった。



咄嗟にあたしは靴をぬぎ、それを手に持って階段を駆け下りた。



音を立てず、だけど走れる方法はこれしかなかった。



一気に一階まで駆け下りると心臓が爆発しそうなほど早く打ちつけていた。



肺が圧迫され、痛みを感じる。



それでもあたしは止まらずに走り、緊急外来の扉を発見した。



あそこからなら出られる!



あたしはとびつくようにして扉を開け、外へと脱出したのだった。


☆☆☆


入っていた通り、大西さんはあたしが出て来るのを待ってくれていた。



病院の玄関から出てその姿を見つけた時は本気で泣いてしまいそうになった。



「よく頑張ったわね」



そう言って抱きしめられるとついに涙腺が崩壊し、次々と涙があふれ出してくる。



大西さんに会えることがこれほど幸せな事だなんて、考えたこともなかった。



しかし、病院から抜け出しても家に戻ることはできない。



そんなことをしたら両親に見つかり、また病院に戻ってくることになるだけだ。



下手をすれば今度は拘束具を付けられることになるだろう。



そのため、あたしは大西さんの家に行くことになったのだ。



女王様の家にお邪魔できるなんて、これもまた夢ではないかと自分を疑い、頬をつねったほどだ。



頬にちゃんとした痛みを感じた時、すべて現実なのだと知った。



「ここがあたしの家よ」



やってきたのは学校から近い山の中だった。



そこには大きな穴が掘られていて洞窟のようになっている。



入ってみると土の香りがダイレクトに鼻腔を刺激し、その後甘い香りが漂って来た。



奥へ奥へと続いているらしい穴を進むと、右手に食料庫、左手にトイレ用の深い穴が掘られた部屋など、様々な部屋が出現する。



それらを見ている内にあたしは自分の心がワクワクしてくるのを感じた。



これは蟻の巣だ。



テレビや図鑑で見たことのある蟻の巣そのものだ。



「素敵……」



思わず、うっとりとした声でそう言った。



「でしょう?」



大西さんは嬉しそうに答える。



こんな素敵な家、どうして人間は作らないんだろう?



穴を掘り、沢山の部屋を作り、そこで共同生活をする。



ひとつひとつ区切られた家にいるよりも、大勢で肩を寄せ合って生活をする。



それこそ、素晴らしい毎日が送れそうだった。



「ここが寝室よ」



そう言って通された部屋は6畳ほどの広さのある穴だった。



床には沢山の枯れ葉が敷かれていて、寝転ぶと柔らかくて心地いい。



「明日には決着がつく。今日はゆっくり眠ってね」



大西さんの鈴の音の声はまるで子守歌のようで、あたしはすぐに眠りに落ちて行ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る