♯15:長い手紙を書くように。


     †


 以前から、心には《結界》のようなものがあると考えていた。


 誰にだってあるし、もちろん、僕にもだ。


『記憶に蓋をする』とか『感情を押し殺す』とかもそういう心の結界の一部なのではないか?


 いま僕が垣間視ている——㐂嵜さんと平埜さんの記憶はたぶん、そういったたぐいなんだろう。


 しかしやはり他人の記憶を盗み見ているうしろめたさが拭えない。

 けど、目を逸らすこともできない。


 僕には責任がある。


 不可思議なレファレンス担当としての責任。


 この記憶はふたりの〝想い〟でできている。


 それなのに、ふたりの〝想い〟はシャツのボタンみたくかけ違ったのかもしれなかった。


 不可思議なレファレンス担当の御前ミサキとして——


 そんなふたりの想いをつなぐことが、そのお手伝いができるなら。


     †


「——大丈夫かな、藍那」


 心の声が聞こえてきて、場面シーンが変化した。


 空間全体から声がこだましているようだった。


「駅前か」


 僕がいたのは駅のすぐ近くの通りだった。


「ミサキ、依頼主はいる?」


 肩の上のヒヴァナが訊いてきた。

 空間から聴こえてくる声は、㐂嵜きさきさんのものだ。

 だとすれば、此処ここいるはず。


 周囲を見回してみる。


「見つけた。こっちにくる」


 㐂嵜さんが前のほうから歩いてくる。


「駅に向かってるみたい。ってことは、大学が終わった? ううん、㐂嵜さんのうちは大学の近くらしいから。じゃあ、商店街へ行くのかな?」


 とか頭のなかがダダ漏れになってると、


 㐂嵜さんが僕のとなりを通りすぎてった。

 いまの僕は、記憶のなかの通りすがり。


 すれ違うときの㐂嵜さんの顔は、


「不安そうで寂しそうで、悲しげだった」


 僕がつぶやくと、ヒヴァナは「そうみたいだね」とあいまいな返事をした。


「——ごめんね、藍那」


 㐂嵜さんの心が、空間を揺らし鳴った。


 平埜さんへの謝罪の声が聴こえてくる。


 謝罪?


「なんで謝ってるんだ?」


 僕が首をかしげるタイミングで、景色がぐにゃりと歪んだ。


 周囲の景色が流れていく。

 記憶の場面が変わるのだ。


 意識が吸いこまれるように途切れ、


 僕はつぎの場所にいた。


 そこは、


「電車?」

「——じゃないみたいだよ」


 僕の思い違いをヒヴァナが訂正した。


 窓の外の景色が流れてくので、線路の上を走ってるのかと思ったんだけど。

 其処そこはやはり学内だった。


 僕にはあまり馴染みのない大講義室だ。


『大』の文字が意味する通り三百人以上が入る半円型の階段教室。


 教室は左右がガラス張りになっていて、木々から漏れるやわらかな陽射しが入ってくる。

 見た目にも実際にも開放感がある。


「——採光はサイコー。なんちゃって」


 ヒバナが思いつきそうな駄洒落がヒヴァナからも出てくる。

 僕のなかのヒバナ像をモデルにしてるだけあって、ヒヴァナはちゃんとヒバナである。


 そんなことに妙に感心しつつ、あたりの様子をうかがった。


 僕は窓側の一番奥の席に座っている。


 ノートを開いて講義を受けてる最中の誰かにアバターチェンジしたようだ。

 僕が入れかわったとき窓の外をぼーっと眺めてた。

 入れかわわった誰かさんは、まるで講義に集中してなかったんだな。


「㐂嵜さんだ」


 ヒヴァナにだけ聴こえる声でささやく。

 そんなひそひそしなくても、僕の声など此処にいる誰にも届かないのだけれど。


 教室のまんなかあたりに㐂嵜さんのうしろ姿を見つけた。


「此処は㐂嵜さんの記憶か」


 㐂嵜さんと平埜さんの記憶が合わさって再現されたインナーワールドではあるが、どちらかの記憶ばかりが再生されている。


「ってことは、窓の外に見えてるのも?」


 窓には教室の外の景色ではなく、


 記憶映像が車窓のように流れていた。


 映像けしきには、大学のキャンパス内や学食など、見覚えのある景色モノのほかに、


 僕自身じぶんの姿もあった。


 はじめて㐂嵜さんが、図書館併設のカフェ『時と木』に不可思議なレファレンスの相談にきてくれた日の記憶。


「——わりと新しい記憶だね」

「シーンが切りかわるのも早くなってるような」


 ヒヴァナも僕もうっすらとそれに気づいてた。


「あっちはべつの記憶か」


 僕が座るのとは反対側の窓には、違う記憶の映像が流れている。


 この記憶の持ち主。

 㐂嵜さんは、中央の座席にいる。


 さっき空間を揺らしたような心の声は、まだ聴こえてこない。


「記憶が新しいものになってきてて、シーンの切り替わりが頻繁になってきた……というのは、」


 と、そのとき、


「ぎゃははははははは————っっ!」


 講義中だというのに、教室のなかで大きな笑い声が起こった。


 この講義で爆笑が起こるようなことなどないのだが。


 笑い声がしたほうを見ると、数人の男女の学生たちが固まって座っていた。


 僕とおなじように㐂嵜さんも集団のほうに顔を向けている。

 しかし㐂嵜さんはなんとも言えない表情をして、すぐに姿勢と視線を正面へ戻した。


 でも、その一瞬だけ見えた表情から㐂嵜さんの感情が伝わってきた。


 さみしいとかかなしいとか、怒りとか嫌悪とか、うらやましさとか入り混じって複雑な感情。

 それらが合わさって『無』になる直前だった。


 そして、教室のなかにも変化が起こる。


「㐂嵜さんの周りに誰もいない」


 さっきまで大教室だけあって満員とはいかないまでも、それなりの数の生徒たちが席についていた。


 㐂嵜さんの周りにだって何人もいた。


 なのに、㐂嵜さんの周囲にだけぽっかり空洞のように誰もいないのだ。


「記憶が改変されてる?」

「というか、記憶よりも感情が色濃く出たんじゃないかな」


 僕の疑問にヒヴァナが答える。


「記憶ってあいまいだから、他人に話すときちょっと盛ったりすることあるでしょ。つよく印象に残ったことが記憶になりやすいし」


 とヒヴァナ。


「これは記憶だけど、そのときどきの㐂嵜さんの感情が記憶の再構成に影響してるってことか」


 このとき、


「㐂嵜さんが感じてたのは、孤独なのかも」


 強い強い孤独感が記憶にも変化をあたえた。


「このときすでに〝蠧魚シミ〟の影響で、感情的にも過敏敏感過剰にもなってるはず」


 ヒヴァナが言う。


 㐂嵜さんは周囲の雑音や周囲のすべてを無視するように、ただ、前を見ていた。


 大教室の教壇の一番正面には——黒板やホワイトボードの代わりに、巨大な歪曲モニターが設置されている。

 巨大モニターはタッチパネルで直接書きこむこともできるし、スマホやタブレットやPCなどをミラーリングしたりすることもできる。

 巨大モニター両脇にはこれまた小型(といってもたぶん五十インチくらいはありそう)が補助的に設置されている。


 㐂嵜さんが視線を向けてる巨大なモニターには、いま映像が流れていた。


「さっきまで、講義の内容が映ってたのに」


 㐂嵜さんの感情の変化とともに、モニターに映像が流れはじめた。


 モニターの映像は、パッパッパッと神経質なくらいにブツ切れになって変わっていく。


 と——


 その映像が流れたときに、


「アレ、あたしじゃん」


 ヒヴァナがはしゃいだ声をあげた。


「ついさっきのやつ……!」


 巨大な蜘蛛が巨大モニターに大映しになった。


 大画面で見る蜘蛛は、肉眼で見たときよりも禍々しく、


「——……うッ」


 無意識に身がすくんだ。


 恐怖が足もとから這い出してきて、僕を底なしの闇に引きずりこもうとしている。


「——ミサキ、恐怖に付き合っちゃダメ。引っ張られるよ」


 とヒヴァナのちいさな手が僕の頬に触れる。


「そうだ。此処はただの記憶。この恐怖だって過去の記憶が再生されてるだけだ」


 つぶやいて自分に言い聞かせる。


「ありがと、ヒヴァナ。……え? ヒヴァナ?」


 肩の上にいたはずの、いま頬に触れたはずのヒヴァなの姿がない。


「——そっち、どうなってる?」


 しかし、カノジョの声は聴こえてくるのだった。


「そっちって? どうって?」


 一瞬、なにを訊かれたのか理解できず、プチパニクった。


「おーい、ミサキ〜、聴こえてるー? もしもーし」


「あたしなんか気にしたくとも見えないしね!」


 紛れもない。


 これはヒバナの声だ。


 僕はヒバナの姿を探した。


 そしたら、すぐに見つけらた。


「ヒバナ、其処なの?」



「あたしはいつでもここにいるよぉーん」


 ヒバナは、そこにいた。


 いや、そこに映ってた。


「——っうっしゃああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」


 雄叫ぶヒヴァナではなく——ヒバナ。


 巨大なモニターのなかで、巨大な蜘蛛にノーザンライトスープレックスをブチかましていたのだった。



 現実とインナーワールドがシンクロしていた。

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