♯14:そう惑う。


     †


 また頭のなかで声がする。


 ——また?


 またって、いつだっけ。


 この声は。


「〝蠧魚シミ〟は、もともと意思もカタチも存在すらない。ほぼ概念のようなモノであり、本来こっちの世界では認識の《外》にある」


 聞き覚えのある声。


 ああ、これは僕だ。


「けれど、ごく稀にあっち側とこっち側を隔てる壁にできたヒビから、それこそみ出して、人間の感情や記憶などに干渉することで『存在』を得る。そして具現化したモノを僕らは〝蠧魚〟と呼んでいる」


 僕の声だ。


 僕が頭のなかで考えて、そして、何度も繰り返したこと。


 ふたりに、㐂嵜さんと平埜さんに〝糸〟や〝蠧魚シミ〟について詳しく話をしなければ。

 と思っていた。


 うまく説明できなかったという反省があった。


 この声は、そのことを反芻反省している。


 どうして自分の声が聞こえつづけてるのだろう。


 ふと自分が目を閉じていると気づく。


 それだけじゃなく、身体が浮遊してる感覚がある。


 母親の胎内やゆりかごで眠ってるような既視感だった。


 そんなのほんとは覚えてないはずなのに。


 うっすら目を開けてみる。


 目の前に自分がいた。


 僕の顔をしたべつの僕が僕の顔をのぞきこんでいる。


 いや、頭のなかを覗きこんでる。


 べつの僕は僕と目が合うと困った表情になった。

 すぅっと溶けるように消えていってしまう。


「いまの……なに?」


「——あれは過去の自分ミサキだよ」


「え……ッ!?」


 いきなり耳もとで声がした。

 これは僕の声ではない。


 とたん、


「っと……っとっとっと!」


 浮遊する感覚から急激に落ちていく感覚に変わったのだ。


 うまく姿勢を制御できず、空宙くうちゅうで身体回転しまう。


 夢のなかでうまく走ることができないあの感じにも似ている。


「あ、そうか、これは夢か……!」


 似てるというか、そういうたぐいなのだ——此処ここは。


「——違うよ。似てるけどね」


 まただ。

 また声がした。


 でも、この声は、


 僕じゃない——


「ヒバナ!? ど、どこにいるの!?」


 僕は落ちていく感覚と回転して定まらない視界のなかに、声の主ヒバナの姿を探した。


「ここ、ここっ」


 そう言う、声だけが聞こえる。


「どこ!?」


 探すも姿はない。


「ここだって、ここ」


 でも声は聞こえる。


 そのあいだも落ちていく感覚がつづく。


 さらに目の前がぐるぐると回るが、どうやら地面らしきものが近づいてきているようだ。


「このままだと、ぶつかる……!」


 これは本能。

 僕は必死でもがく。


 空宙での体勢の取り方なんて知らないけど。


 もがく。

 腕をバタバタ。

 脚をバタバタ。


「——無理に逆らおうとしないで」


 ヒバナの声がそう教えてくれた。


「って、どうすればいいの?」

「流れに身を任せて」

「流れに? ああ、落ちてく感覚に抵抗するなってこと?」


 なんとなくヒバナの声が伝えようとしたことが分かった。


 すべてを受け入れる心と態勢かまえだ。


 スカイダイビングをしているイメージで手足を広げる。


「そうそう、その調子」


 ヒバナの声が言う。


 姿勢が安定する。

 パラシュートが広がったみたいな、ふわりとした浮遊感がした。


「あ、目の前が、」


 霧が晴れるように、雲が切れて晴れ間がのぞくように、目の前がひらけた。


 目まぐるしい回転もなくなってる。


 落ちる感覚がうすれていく。


「到着ぅー」


 ヒバナの声で、僕はよろけつつ地面に立った。


 足もとがふわふわしている。


「なんか雲の上にいるみたい……ひぇ、」


 足裏を伝わる感覚に誘われて、なにげなくうつむいてみた。

 下腹部がなんともいえない心細さに襲われる。


「これ、地面……」


 土でもアスファルトでも、板張りでも石畳でもない。

 雲の上とかファンタジーなやつでもなかった。


 幾何学的な、なにか。


「網? ネット?」


 僕の足もとには——網ような、ネットワークを可視化した電脳網にも見えるモノが広がっていた。


「これって、」

「——蜘蛛の巣だね」

「そうか、蜘蛛の巣か」


 ヒバナの声にうなずく。

 でも、それが分かったところで、足もとがおぼつかないまま。

 不安は払拭されるどころか、増した。


 なにしろ、網編あみあみだから、その下が透けて見えるのだ。

 網編みの下には、果てがない。


 というより、

 四方八方、三百六十度、何処をどう見渡しても果てらしきものが見当たらない。


 頭上(たぶん空)は、水色ではなくピンクのグラデーション。

 薄桃色がかった雲がふわふわ浮かんでる。


「雲っていうか、綿菓子みたい」


 足の下にも、ピンクの空が見える。

 上を見ても下を見ても、横を見ても、何処を見ても、ピンク色の空だ。


「ここは、天空の城的なところ?」


 なんというか、


「——ただただ美しすぎて、神秘的で不可思議で、ちょっと怖い。とか?」

「そう。ため息でちゃうやつ」

「分かる分かる」

「だよね。…………って、ヒバナさ」

「なに?」

「なんというか、僕の頭のなかをそんなに的確に言い当てないでくれる……?」


 ヒバナの声に対して、僕は抗議した。

 頭に思い浮かべたことをそっくりそのまま、一言一句違わずにヒバナが言葉に出したからだ。


「僕ってそんなに単純かなぁ?」

「まあ、それもあるけど、」

「あるんだ。分かってたけど、」

「ハハハッ、それだけじゃないよ。ざっくり言うと、いまミサキとあたしは一心同体みたくなってるの」

「一心同体? ヒバナと僕がくっついてるってこと?」

「うーん。これもざっくりだけど。此処ここにいるミサキは、肉体を持たない意識や精神だけの状態」

「人間の身体をデータ化して再現するには、とんでもない計算式ととんでもないコストが必要だ。って、ヒバナ、前に言ってたね」

「そう、それ。他人のインナーワールドに肉体ごと転移を仮に成功させたとして再現性がない。現実世界に再生できるかも分からない。それよりは精神や意識をデータ化して、送りこむほうがまだ容易い」


 かつ、人間に干渉する〝蠧魚〟の性質を利用して、低コストで可能にした。

 それはヒバナの能力によるところが大きだろう。


「褒めてくれて、さんきゅー」

「……だから、頭のなかを読まないでってば」

「しゃーなしなのよ。あたしはいま、ミサキのなかに巣喰う青春の幻みたいな存在だから」

「僕のなかの青春の幻……」


 なんとも甘酸っぱい響きに胸焼けがしてきそうである。


「はいはい。ま、ようは、インナーワールドでミサキをサポートするために、ミサキの記憶のなかにある『ヒバナ』という人間のデータを元に再現された、いうならば——ヴァーチャル・ヒバナ。ヒヴァナとでも呼んで!」


 ヒヴァナ、とても言いにくい。


「ヒヴァナの姿が見えないのは、僕のなかにいるから?」


 声しか聞こえないのはそういうことだから?


「それはミサキが勝手にあたしが此処ここないはずだと思いこんでるか」

「てことは、ここにいると思えば、」

「——いる。ほら、ここここ」


 一度、目を閉じて耳を澄ます。

 ヒバナの姿を思い浮かべてから、ふたたびまぶたを開いた。


「ここ、ここー」


 とぴょんぴょん跳ねて存在をアピールしているヒバナ——らしきものがいた。


 僕の、右の、肩の、上に……。


「オッス、ミサキぃ〜〜っ」


「って——ダレーッ!?」


 右肩に、ヒバナを二頭身のデフォルメキャラみたいにしたなにかしらが乗っかっていた。


 さっきからずっと僕に話しかけていた声はどうやらこの二頭身の——ヒヴァナらしい。


「僕はそのままの姿なのに、ヒヴァナはなんで?」


「そりゃそうだよ。ミサキが主体だから。あたしはあくまで補助的な、AIアシスタントみたいなモノだと思って」

「ヘイ、Siri的な」

「オッケー、なんたら的な」

「なるほど」


 ストンと腹に落ちた。


「いくら此処がインナーワールドだからって時間も無限じゃないし、そろそろ行こうよ、ミサキ」


 ヒヴァナが言う。


「あ、時間!? いま何分経ったっけ!?」


 ヒバナが能力を全開で使用できるリミットは『あと二分くらい』だと言ってたのに。

 なにを呑気に説明なんか聞いてたんだ。


「そこはだいじょぶ」


 としかしヒヴァナが二頭身の短い腕をふんふん振った。


「此処はインナーワールドで現実の時間の流れとは違んだよ。そうね、ドラゴンボールの精神と時の部屋みたいな感じ」

「精神と時の部屋?」

「マジで? 知らない? うひー、じゃあ説明めんどいわ」

「……ごめん」

「とりあえず、時間の流れ方が違う。ってこと」

「分かった」

「でも、さっきも言ったけどここはふたりの人間のインナーワールドを合成した不安定な空間せかいだからいつ崩壊がはじまってもおかしくない」

「もし、そうなったら?」

「ミサキの精神は消されるか、取り残されるか。取り残された場合は、結果的にインナーワールドの異物として処理される」

「それって……」


 嫌な予感。


「精神が意識が消えるということは、現実のミサキは精神を失い身体だけの、——ただの肉塊と化すよね」

「……ひえぇ、肉塊て。やな言い方ぁ」


 聞かなきゃよかったかもしれない。

 こんなことしてるんだからリスクがないワケじゃないって分かってたつもりだけど。


「なるべく、そうならないようアシスタント兼ナビゲーターのヒヴァナちゃんがいるんだよっ」


 と、僕の肩の上で、ちっちゃいヒバナがぴょんこぴょんこする。


「ありがと。ちっちゃくてもおっきくても、ヒバナはヒバナだね。頼りになるなぁ」


 僕は感嘆した。


「でも、あくまでもあたしはミサキのおまけだから、ミサキが自分でやらくちゃだよ」

「そう、だよね。うん。そのためにここにきたんだ」


「まずは、ここからどうすればいいんだろ」


 はたと考える。

 周囲は果てがない。


「この場所は、インナーワールドのエントランスであり、ふたりのインナーワールドが重なってるところだよ」

「インナーワールドへ本格的に潜入するための入り口だね」

「そう。だから、蜘蛛の巣になってるのも理由があるんとか?」


 たしかに。


 現実の世界では、〝蠧魚〟は巨大な蜘蛛に具現化した。

 この蠧魚シミは、㐂嵜さんか平埜さん、またはその両方の記憶や感情などに干渉して、蜘蛛の姿容すがたかたちを得たのだ。


「蜘蛛の巣か」


 つぶやいて、ふと思い出した。


「蜘蛛の巣は獲物を捕まえるためのモノだが、どうして蜘蛛は巣の上を自由に行き来できるのか? どうして自分は巣に捕まらないのか?」


 小学生のころ、そんな疑問が浮かんできた。


「——蜘蛛は足場になる糸を巣のなかに貼ってる。その糸は粘着性のない丈夫で頑丈な糸で、蜘蛛はその糸を伝って巣を自由に往来する」


 というのが、あとで僕が知った情報。


「心象風景の内側せかいで、現実の知識が何処まで通用するか未知すぎるけど、」


 ヒヴァナには僕の思考が垂れ流しになっているのだろう。

 ときたま、「へー」とか「ふーん」とかあいづちを打つのが聴こえた。


 その場でしゃがみこむ。


「この蜘蛛の巣が、なんらかの意味や意図に基づいてカタチ作られてるとしたら、」


 現実のほうでヒバナが結界を張るときにやってた所作を思い出した。

 形だけだけど真似てみる。

 手を伸ばして、おそるおそる蜘蛛の巣に触れた。


 蜘蛛の巣を構成する〝糸〟の一本を僕は選んでいた。


 何故、無数にあるなかからそれを選んだのかといえば、


「薄紫色に淡く光ってる」


 だった。


此処ここる僕は、ヒバナの能力チカラによって、インナーワールドにダイブしてきた、いわばアバター。

 ヒバナのチカラの余波あまりが僕に、なんらかの影響を与えていてもおかしくない。


「だよね、ヒバナとヒヴァナ!」


 現実のヒバナと肩の上のヒヴァナに感謝の想いをこめ触れた〝糸〟が、はっきりと薄紫色に淡く発光しはじめた。


 と同時に、


「い、意識が……!」


 遠のくというより、〝何か〟に吸い寄せられる感覚だった。


「——流れに逆らわないで、身を任せて」


 ヒヴァナが僕に言う。


「そっか、そうだった」


 無意識に身構えてしまった。

 なすがままに身を投げ出す気持ちで。


 すると——


 まるで脳に直接映像が送信されるみたいに、〝何か〟がフラッシュバックした。


「たぶん、誰かの記憶だ」


 僕の記憶にはまったくない『映像』が目の前を、脳裏を通り過ぎていく。


 でも、


 あれ?


「この感じ、前にも……?」


 思い出そうとしたが、擬似体アバターであるはずのない身体がそれを拒否する。

 頭のなかに、なかば強制的に映像が流れこんでくるせいなのか、


「キモチがワルぃ……」


 目が回って、焦点が合わなくなる。


「ふたり分の感情やら記憶がないまぜになって、押し寄せてきてるんだから、ふつうじゃないよ。ミサキ、平気?」


 ヒヴァナが僕の頬を撫でる。


「まだ、平気」


 あくまで『まだ』であって、もうまもなくダメになっちゃうかも。


 目まぐるしく脳裏を駆け抜けていく。

 映像が直接、脳で再生されてるみたいだ。

 左を向いても右を向いても上を向いても下を向いても映像から目をそらせない。


「いまの僕は『意識』だけが他人のインナーワールドにきてるけど、この状態で気を失うとどうなるの……?」


 不安でよくない疑問が浮かんでくる。


「インナーワールドに拒まれて、ウィルスみたいな扱いを受けるかもね」

「ああ、ようは、排除されるってことね」

「そうならないように、気合い入れて、ミサキ」

「気合いと根性って言葉は、もはやパワハラだよ」

「ひっひっひ。そのくらいの意気があれば、だいじょぶそだね。さあ、もうすぐだよ」


 赤ちゃんみたいに奇妙に笑うヒヴァナの言う通りだった。


 そうこうしていると、脳裏を流れていく映像がゆっくりとして見えるようになってきた。


「大学?」


 目の前に、見覚えのある風景が広がっていた。


 そこは、この春から通っている大学のキャンパスだった。


     †


 僕は、映画『ターミネーター2』で未来からやってくるサイボーグみたいなポーズで、記憶のなかの大学に再現された。


「裸じゃなくてよかった」


 映画のなかだとそうだから。


「T2は知ってるんだ?」


 立ち上がる僕の右肩で、なにか不服そうにヒヴァナがつぶやく。


「名作でしょ。知ってるよ」

「精神と時の部屋は知らないのに?」

「ドラゴンボールだっけ。ちゃんと観てないんだ」

「動画サイトにアニメあるし。図書館にコミックスもあるよ」

「そうなんだ。今度、読むか観るかしてみる」


 話しながら、周囲の様子を見回した。


 ふたり分の記憶を無理やり張り合わせている状態で、再現性に支障が出ているかもと危惧したが、


 現実との違いが分からないくらいに、大学の様子がしっかりと再現されている。


「現実とほぼおなじだからといって、油断しないこと」

「油断?」

「よく『夢と現実の区別がつかなくなる』っていうでしょ。それとおなじ」

「このヴァーチャルな世界に取りこまれる……?」

「ご名答。さすがホームズ」

「こんなところでもちゃんと茶化すんだね」

「あたしはきみの心が再生したあたしだよ。きみがそう望んでるってことかな」

「ほんとに? 僕が? ヒバナが僕をすぐに茶化すからじゃなく?」

「ま、そういう考え方もある」

「ほら、やっぱり」

「ひひひ、ミサキは素直すぎるんだよ」

「馬鹿正直な田舎者なんだよ、僕は」

「コラ。そうやってすぐに自分を卑下する。よくないよ」

「……分かってる、ごめん」

「素直だねぇ、ミサキくんは」


 結局、からかわれてる気がするんだけど。


「とにかく。此処が〝蠧魚シミ〟の性質を利用してできてるってこと、お忘れなく」


 最後にヒヴァナがちゃんと気を引き締めさせてくれた。


「このときって、いつなんだろう」


 いま目の前に広がっているヴァーチャルリアリテティな映像は、誰の記憶のどの時期なのか。


 時間を確かめるのに、てっとりばやく、僕はポケットをまさぐった。


 普段のスマホをズボンの左前のポッケに入れてる。


「あれ?」


 ない。


「じゃあ、リュックのほうか」


 じゃないときは、リュックのサイドポケットに入れる。


「他人の記憶にねじりこんでるし、現実のあたしが手を加えてはいるけど、そこらへんはあいまいかもね。もうちょっと探してみて」


 ヒヴァナのアドヴァイスに従って、もうすこし全身をまさぐってみる。


「あ、あった」


 いつもとは違う尻ポケからスマホが見つかった。


「そうだよね。べつのひとの記憶でできてるんだもんね、此処って」


 この現実と区別がつなかない大学の風景も、


 かろうじて僕は僕の姿を形成しているが、完全に僕だって僕ではない。


 このスマホだって例外ではない。


 スマホを手に持った感覚や細かいデザイン。


「なんかちょっと違う気がするけど、まあいいや」


 スマホの画面に触れると、ディスプレイが点灯する。


 画面に『4月●●日』と表示。

 日付や時間はぼんやりしてはっきりしない。


「四月なら、僕が入学したころ。いや『ゼミ』がはじまった時期か」


 ここは自分主観の世界でない。


 㐂嵜さんと平埜さんの心象風景。


 四月でふたりは三年生になった。

 平埜さんがゼミに入った時期だと思われる。


「やっぱり、三ヶ月前くらいがターニングポイントだったんだ」


 ことのはじまりである——


 㐂嵜さんが平埜さんから伸びる〝糸〟を発見したのは一ヶ月ほど前。

 しかし実際、ふたりのどちらか、またはふたりともが〝蠧魚〟の干渉を受けたのは、三ヶ月前だった。


「あれって、」


 ひとりごと、かつ肩の上のヒヴァナにつぶやく。


 ふたりを——㐂嵜さんと平埜さんの姿を見つけた。


 キャンパスの一角にある多目的ホール。

 テーブルや自販機などがあり、学生たちが自由に使える広場だ。

 ガラス張りの眺望のいいテラスっぽい席にふたりが座っていた。


 㐂嵜さんが席から立ち上がる。


「んじゃあ、ね。藍那あいな


 つづけて、平埜さんも席を立った。


「うん、またあとで、ね。沙香さやかちゃん」


 ふたりはいつも駅で別れるときのように、短く簡単な言葉を交わした。


 なんてことのない。

 大学じゃなくても、よくある友人同士のやりとりだった。


 でも、


 ふたりとも笑顔だったが、何処となくぎこちない。

 表情も固く見える。


「これは、平埜さんがはじめてゼミに行く日の記憶だ」


 僕は直感した。


 ふたりはちいさく手を振って、笑顔で別れる。

 離れていく。


 僕がぼーっとふたりを見ていた場所へ、㐂嵜さんが向かってくる。


「あ、ちょっ、ど、どうしよう」


 あまりにもぼーっと立っていた僕は、あわてて身を隠そうとしたが、開けた広場ホールではテーブルの下くらいしか逃げ場がない。


 あわあわしているうちに、


「……っ、あ、れ?」


 㐂嵜さんは、僕のとなりを通り過ぎていった。


 まるで、僕のことが視界に入ってなかったように。


「ガン無視」


 ヒヴァナがくすくす笑う。


「……あ、もしかして、四月だから僕はまだ㐂嵜さんにも平埜さんにも面識がないんだ。だから、僕を認識できてなかったんだ」

「それに、ミサキはこのとき、この場にいなかったんじゃない?」

「ああ、それもそうか」


 本当の僕は、この場には居合わせてなかった。


 此処に居るはずがないのだ。


「無視されて当然といえば当然」


 でも、無視されるっていうのは、なんだかどうしても寂しい気持ちになる。


 これは過去の記憶で、僕の存在には気づかないと分かってても、僕は相手のことを知っている。


「前は、他人に無視してほしいって思ってたのにな」


 思わず、僕は自分の手で自分の口を塞いだ。


「もう遅い、聞こえてるよ」


 ヒヴァナが言う。


「忘れてください」

「忘れるよ。だって、あたしはあたしじゃないヴァーチャルだから、インナーワールドから出たら消えるだけ」

「そうなんだ……。なんか、寂しいな」

「この世界で誰が消えようと、なにが消えて失われ様と気にする人間なんか、いない。ミサキくらいだよ」

「此処は、過去の記憶から再現されたインナーワールドだから」


 たとえば、僕がいますぐ消えても誰も気にしない。


 いや、それは現実の世界でも、そうか。


人間ひと他人ひとにとても無関心な社会だもんね」


 田舎から上京してきて、最初はそれが怖くもあったが、いまではすっかりなれてしまった。


「あんなに他人の目を気にしてたのに。こっちでは誰も僕のこと知らないし。……って、僕のことなんかどうでもよくて、」


「——あたしはきみを無視したりしないよ」


 ヒヴァナが言った。

 やっぱり頭のなかのことがダダ漏れで伝わってしまっている。

 なんて恥ずかしい状態。


「ありがと。でも。たまに僕からの着信、無視するよね」

「それはシャーロックがあまりにもジョンづかいが荒いから」

「遠回しに……、ごめんね」

「いいよ、きみには振り回されてもいいと思ってるから」

「そういうのは……、うん、いいや」


 どうせ、いつものようにからかって、僕の反応を見てたのしんでるだけだ。


「ヴァーチャルでもサイズがミニミニでも、やっぱしヒバナはヒバナだよ」

「それがなにかしら?」

「頼りになる。って話」


 僕は言って、振り返った。

 横を通り過ぎてった、㐂嵜さんの背中を目で追いかける。


 すこし目線を変えると、平埜さんが歩いていくのが見えた。


 僕とおんなじように、ちょっと振り返り㐂嵜さんの背中を目で追っている。


 というより、まったく同じだ。


 どうも無意識に平埜さんと意識が同期シンクロしていたらしい。


「ミサキ、気をつけて。引っ張られてる」

「そうみたい。うん、」


 ふぅ、と大きく息を吐いた。

 この僕はアバターだから呼吸なんて関係ないけど。


 気持ちを落ち着かせる。


 そうすると、


 ——視えてきた。


「〝糸〟だ……!」


 離れてくふたりの間に——〝糸〟が伸びているのだ。


 透明にも半透明にも見える淡い色の〝糸〟が、ふたりにつながっている。

 または〝糸〟がふたりをつなげていた。


 その〝糸〟は、ふたりの距離が離れていくのに合わせて伸びていたが、㐂嵜さんが平埜さんの視界からいなくなった瞬間、音もなく切れた。


 偶然か、それともそのことに気づいたのか、糸が切れたタイミングで、㐂嵜さんが足を止めた。

 振り向いて、平埜さんが去っていたほうに視線を向ける。


 㐂嵜さんの表情は、とても不安げで、心配そうだった。


 㐂嵜さんの唇が動く。

 去っていった平埜さんの背中になにかをつぶやいた。


 僕のいる位置からは、なにを言ったのか聞き取れないはずだが、


「——藍那、ひとりで大丈夫かな」


「——コンビニの店員さんに話しかけられて、ダッシュで逃げるくらいなのに」


「——人見知りすぎるのよね、それなのにゼミに入るとかって」


「——面識のないひととコミュニケーション取れる? あのゼミの助教、厳しくて有名でしょ」

 

 頭のなかに、その声が聴こえてきたのだ。


 平埜さんのことを心配して想う気持ちが伝わってくる。


 つよい想いがこの記憶でできた空間を支配していた。


 しかし、


「けど、この感覚……なんだ」


 違和感に似たなにか。


 ふたりの間には〝糸〟が伸びていた。


 まだこのとき㐂嵜さんは〝糸〟の存在に気づいてない。


「ていうか、㐂嵜さん自身で〝糸〟の干渉を受けてたなんて分かるワケないもんね」


 僕も最初、それに気づいてなかったくらいだ。


「ほんとうに、そう?」


 けど、ヒヴァナがそれを打ち消した。


 瞬間。


 目の前が、ぐにゃりと歪む。


「なっ!?」


 目眩めまいかとも思ったが、違う。


 まばたきをした間に、


 僕はべつの場所に移動していたのだった。


「場面が、変わった……?」


 それは、映画でカットがかかって、シーンが変わるように。


 其処そこはおなじく大学の教室のなか。


 ふだんの講義で使用する教室よりも、すこしちいさい。

 ゼミに使われる教室だ。


 教室には、二十人弱のゼミ生がいた。


 僕もゼミ生に混じって、席に座っている。

 デスクの上に、見知らぬノートPCが拡げてあった。


「本来、此処に座ってるひとのモノだろうね」


 ヒヴァナがそう言って、僕は気づいた。


「本来、僕は此処にいないはずだから、」


 入学したばかりの一年生。

 だから僕はゼミに入ってない。


 というよりも、

 僕はこの記憶に侵入した異物なのだ。

 此処にいることがイレギュラー。


「此処にいるはずのひとと入れかわってるんだ。記憶を再生する映像の一部をCGで書き換えてるみたいな?」

「ナイスたとえ」


 ヒヴァナに褒められる。


「あそこにいるの、平埜さん?」


 右斜め前に平埜さんが座っていているのを見つけた。

 後ろ姿だけど、真剣な表情で講義を受けているのが、伝わってきた。


 そして、その背中を見つめてるうちに、頭のなかにまた声が響きはじめた。


「——ちゃんと前を向こう。沙香ちゃんに心配かけないようにしよう。これまでとは違う自分になるの」


 今度の声は、平埜さんだ。


 彼女もまた、㐂嵜さんをつよく想っている。


「なのに、なんだ、この違和感」


 僕は、また空間に違和感が漂い出した。


 すると、


「また……!?」

 

 目の前が歪む。

 まばたきの間に、場面が切りかわる。


「あれ? おなじ場所だ」


 またゼミの教室。


 しかし、教室にいるゼミ生の服装や髪型などに変化が見られる。

 季節が夏へと近づいている。


「なにげに僕も衣替えしてるし……」


 窓ガラスに映った自分の姿も申し訳程度に夏っぽい感じに変わっている。

 ただ、普段僕がまったく着ないB系っぽいファッションだった。


「なんかこっぱずかしい……」


 着なれないので照れる。


「なんで、服変わったの?」


 肩の上のヒヴァナに訊く。


「ミサキがゼミ生から浮いてると思ったんじゃない? それか、なり変わったひとに対してリスペクトをこめて、元のひとの一部を取り入れたとか」


 それっぽい説明に納得する。


「にしても、」


 窓ガラスに映る自分に違和感である。


 さっきと違ってこの違和感の正体は、自分自身のなれないファッションのせいだ。


「自分に似合うファッションって考えたことなかったけど、これは違うなぁ」


 窓に映った自分の姿を見て、そう思う。


 でも、


 そんなこと気にしてるのは、自分だけだ。


 これは過去の記憶。

 誰も僕のことなんか気にもとめないのに。


「上京してきてから、他人の目を気にするのやめようとしてるんだけど」


 頭のなか垂れ流して、ひとりごちる。


 所詮自分は自分だ。


 こんな過去の記憶でも、他人の目をに気にするなんて。


 しかし田舎から上京してきただけで、すぐに進化するほど人間は便利にできてないのだ。


「そうしようというきっかけにはなってるけど。ヒバナとか、おばさんとかいいお手本いるし」

「ま、すこしずつでいいんでないの。きみはきみらしく、きみのペースでやっていけばいいんだよ」


 ヴァーチャルなヒヴァナに慰められる。

 ヴァーチャルじゃなくてもヒバナなら、こういうだろう。

 ということをヒヴァナが言ってくれる。


「それはありがたいけど、——えっ!?」


 どうせ消えてしまうんでしょ。


 とか、マジでしょーもないことが浮かんだ瞬間、頭のなかから消し飛んだ。


 いきなりのことに、声が出てしまった。


 ななめ前に座っていた平埜さんが、こちらに振り向いてきた。


 そして、僕に向かって話はじめたのだ。


「ええっと……!?」


 あわてて、目線を外してしまう。


 不審に思われた!?


 だけど、目の前の平埜さんは、そんなことお構いなしで、話をつづけていた。


 そうだ。

 これは記憶。

 ただ過去の記憶が映像として再生されてるだけ。


 平埜さんは僕話かけてるんじゃなくて。

 この席に座っていただろう——僕が成り代わってるひとに話しかけてるにすぎない。


 平埜さんは、笑みを浮かべてる。

 駅で逢ったときにはまったくなかった笑みなど見せなかった。


 ただ、この時点で、〝蠧魚〟が具現化した〝糸〟の干渉を受けていたと思われる。


 まだこのときは影響が弱く、彼女自身、ゼミに溶けこもうと試行錯誤している想いがつよい。

 きっと『こうなりたい自分』を一生懸命、演じていたんじゃないだろうか。


「これが、きっかけ?」


 平埜さんが変わっていったのは、彼女自身がそう望んだから。


「たしかに、蠧魚がそういうつよい想いに惹かれたのなら、ありえる」


 ヒヴァナも同調する。


 ただ、


 㐂嵜さんといっしょのときは、元の平埜さんだった。

 あれも彼女の自然体である。


 声は、また頭のなかに直接響いてきた。


「——大丈夫大丈夫。わたしはひとりで平気だよ。大丈夫大丈夫」


 平埜さんの声。

 目の前で喋りかけてくる笑顔とは違う印象を受けた。


『大丈夫』と、くり返されてるあたり、不安を振り払おうと自分に言い聞かせてる。


「——変わらなきゃ。変わらなきゃ。変わらなきゃ」


 平埜さんの心が呪文のようにおなじ言葉を返す。

 声から必死さが痛いくらいに伝わってくる。


 だけど、そんなつよい想いが、願いが、


 あっちとこっちを隔てる壁に生まれたヒビからみ出した〝蠧魚〟を惹きつける。


 彼女は変わりたいと思っていた。

〝蠧魚〟による〝糸〟はそうなるきっかけを彼女に与えたのかもしれない。


 でも、


「そんなのってよくないよ」


 僕は口に出してしまって、すぐに首を振って自分の言葉を否定した。


「違う。そうじゃないんだ」


 たとえ、なにかの影響を受けて、なにかの力を借りてでも自分を変えたいと願うのは『悪』なのだろうか?


 全部の人間が、自分の力だけで自分自身を変えられるワケじゃなくて。

 自力を信じて駆け抜けられる人間ばかりではないのだから。


 この記憶の映像で、


 平埜さんが懸命に笑顔で誰かに話しかけている。


 心ではたくさん不安とか、あせりとか、悩みを抱えたままで。


「これは、ほんとに悪いことなの?」


 僕には分からなかった。


 彼女の想いは蠧魚に喰われ、〝糸〟となり彼女の性格に干渉する。


「それでも、平埜さんの急激な変化は、彼女自身の想いがカタチになったモノでもある」


「けど——」


 僕とヒヴァナの声が重なった。


 記憶の彼女の笑顔。

 人見知りがすぎる彼女。

 変わろうとする心。


「でも、やっぱり。これは、ダメだ」


〝蠧魚〟は、ただ彼女の願いを叶えようとするモノではない。


 ただ彼女の想いや願いを利用しているだけなのだ。


 蠧魚に、感情や想いや気持ちに同調することも同情することもない。

 解ろうともしないだろう。


「平埜さんっ」


 無駄だと分かっている。


 でも、言葉をかけずにはいられなかった。


 目の前の過去の平埜さんの目をまっすぐに見て、言葉をかけた。


「大丈夫、その想いがあれば、きっと——」


 言いたかった言葉は、過去に流されてしまう。


 その瞬間、


 目の前が、


 映像が、ぐにゃりと歪む。


「また……ッ、」


 めまいのような空間に吸いこまれる感覚。

 意識が遠のいていく感じ。


 記憶が切り替わろうというのだ。


 パチン。


 と指を鳴らすような音とともに、泡がはじけるように、目の前が明るくなった。



 するとそこは、



 もう、㐂嵜さんの記憶だった。

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