♯7:急僕パ来。


     †


「アンタぁぁぁっ! やっぱり、あのとき! あのコに——藍那になにかしたんだろぉぉぉッッッ!!」


 誰もいない店内に、㐂嵜きさきさんの怒声が鳴り響く。


 僕はビビりすぎて、磨いていたコーヒーのカップを床に落としそうになった。


 そのとき手にしてたのが、お店で一番高価で価値のあるヴィンテージのカップだった。


 おおいに焦る。


 結果、手からすべり落ちそうになったカップを死守すべく、僕は水の張った洗い場に身体を半分くらいダイヴさせることになった。


 おかげさまで、洗い場の水に沈めていたほかのカップやグラスなどの食器類とぶつかることなく、なんとか高級カップを守り切った。

 エプロンも制服がわりの白シャツもずぶ濡れてしまったのだけれど。


「あ、あの、㐂嵜さん……っ!?」


 僕は濡れた身をタオルでぬぐいながら、あわててカウンターの外に出た。

 すでに㐂嵜さんは、カウンター席のヒバナの眼前まできていた。


「ちょっとアンタに言ってんの!? こっち向きなさいよ!」


 㐂嵜さんはヒバナにつめよっていく。

 ヒートアップしているのか、ヒバナの目のことを忘れてしまっているよう。


「こっち? って、どっち?」


 と、ヒバナは的外れなほうを向いて言った。

 その怒声で、㐂嵜さんがいま目の前にいると分かってるはずなのに。


 でも、そのおちゃらけたヒバナの態度は、㐂嵜さんは、ハッと気づかせた。


「㐂嵜さん、㐂嵜さん!」


 一瞬の隙ができた。

 僕はふたりの間に割って入った。

 ヒバナを背にして、㐂嵜さんの正面に立つ。


 㐂嵜さんのいまにも飛びかかってきそうな雰囲気に腰が引けそうになった。


「いったん! いったん落ち着きましょう!」


 殺気に気圧され、考えもなく僕はそれを口走った。

 瞬間、しまったと後悔した。


 大きな声。

 怒りにまかせた態度。

 しゃくり上げる強い語気。


 感情的なひとと対峙するとき、

「落ち着け」は気持ちを逆撫でし、火に油をそそぐ場合がある。


「落ち着け? ハァ!? なに言ってんのッ? アンタたちのせいで! 藍那がッッ!!」


 案の定、怒りレベルを上げ、㐂嵜さんが僕をニラミつけてきた。


「あ、藍那さんって、平埜さんのことですよね?」


 刺されそうな視線に腰が引けそうになる。

 ぐっとこらえて㐂嵜さんに質問した。

 質問するまでもなく『藍那』が誰かはもちろん分かってて訊いた。


「そうよ! あのとき、このひとが〝糸〟を抜いたせいで……! 藍那が……」


「——それで? お友達トモダチ、どうなっちゃったの?」


 今度はヒバナが㐂嵜さんに訊ねた。

 僕の肩に手を置いて、椅子から立ち上がった。

 肩越しにひょっこり顔をのぞかせる。


「どうしたって!? アンタたちが見守るって言ったクセに、なんで知らないのよ!!」


 ごもっとも。

 また㐂嵜さんに怒鳴られた。


 申し訳ないが、きょうはお客さんがいなくてよかった。

 お店としてはそれはそれで問題なんだろうけれど。


「あなたの怒りはごもっとも。でも話してくれないとなにがあったのか、こっちは分からないよ」


 㐂嵜さんの怒りのトーンとは逆に、ヒバナの声はほどよく落ち着いている。

 ほんとはなにがあったかも把握み。


「なに言ってんのよ! 藍那がああなったのは、アンタたちのせいでしょ!?」


 㐂嵜さんはただヒバナを責めた。


「だから、おトモダチがどうなったか訊いてるんだけど」


 まったく動じず、ヒバナはくり返す。


 薄紫色のレンズの奥。

 光を宿していない瞳が㐂嵜さんをまっすぐに見射みいる。


「藍那がおかしいの! あのコ、あんなふうに笑ったりしなかったのに……!」


 㐂嵜さんの言葉に「なるほど」とヒバナはうなずく。

 相手の言葉に同調を見せ、それから、


「じゃあ、あなたはどうなの?」


 ヒバナが㐂嵜さんに訊ねる。


「わたし? いま、わたしのことなんかどうだっていいでしょ」


 㐂嵜さんは牙を剥くようにうなった。


「そう。かもしれない。でも、そうじゃないかもしれない」


 としかしヒバナは返す。


 僕が大学で見た㐂嵜さんは、ここにいるひとと同一人物に思えないほど、感情が破綻した表情をしていた。

 平埜さんに起こった変化は、実際は㐂嵜さん自身にも起こっているのだ。


 㐂嵜さん自身は、もしかして、それに気づいてない?

 だから、ヒバナはそれを気づかせるために問いかけているのかもしれない。


 ヒバナの考えが分かった気がして、僕も「なるほど」と心のなかでうなった。


「あなたはどうしてそんなに怒ってるの?」


 としかし、すぐにヒバナは挑発とも取れることを言い出してしまった。


 あれ……?


「はあああ!? ふざっけんじゃないわよ!」


 またまた㐂嵜さんがあっというまに沸点に達する。


「だって、あなたは怒りをまき散らすだけで、ぜんぜん要領を得ないじゃない?」


「なにをいってるの? そんなの当然じゃない! あなたたちが約束を果たさないから!」


 㐂嵜さんの僕らの呼び方が『アンタ』から『あなた』に変わってるのに気づいた。


 どれだけ大声で怒鳴ってもわめき散らしたとして、一定のテンションで返してくるヒバナとのやりとり。

 そのせいか、怒りに身を任せつつも頭の片隅では、冷静な自分が顔をのぞかせてるのか。


 これなら、こちらの話を聞いてもらえるかもしれない。


「あの、㐂嵜さん」

「なによ!?」


 僕が呼びかけると、ナイフのように尖った視線を投げつけられ、ぐっと喉を詰まらせそうになった。


 生唾を呑みこむ。

 でも、言葉は飲みこまなかった。


 ヒバナとのすり合わせはまだだし、ヒバナ頼りな部分も多い。

 けど、レファレンス担当ととして、ここまで得た情報を正直に誠実に話そう。


 たとえそれで分かってもらえなくても、いまはかまわない。


「今回のこと、僕らが分かっていることをお話しさせてください」


 僕は言った。


「いまさらそれを伝えられたからってなんになるの?」


 平埜さんには〝糸〟の影響が表れてしまっている。

「一週間もなにもせずに放置した」

 そのことが原因であり、僕らの責任だと思っている㐂嵜さんは、咄嗟に拒否反応を示した。


「平埜さんが変わってしまった原因が分かるかもしません」

「そんなの分かりきってる。あなたたちがあんなことをしなければ、」


 㐂嵜さんがそう言い返そうとして、


「それいったら、そもそも。最初に〝糸〟に気づいて抜いたの、あなたじゃなかったっけ?」


 ヒバナが割って入ってきた。


「あ、ちょっと、ヒバナ……っ」


 小声で言う。

 身体は正面を、㐂嵜さんのほうに向けたまま、ちょっとだけ首をうしろに向けた。


「わたしのせいだって言いたいの!?」


 ほらまた……。

 㐂嵜さんが沸騰してしまった。


「い、いや、そういってるワケじゃないんです!」


 あわてて訂正する。


「じゃあいまのはどういう意味よ」

「あ、ちょっと㐂嵜さん……っ」


 せまり来る㐂嵜さん。

 あとずさりするも、うしろにはヒバナがいるのでこれ以上は退がれない。


「てゆうか、ヒバナ、押さないでって。なんで押すのっ!?」


 小声で背後のヒバナにお願いする。

 何故かヒバナは僕の背中をぐいぐい押して前へ行かせようとする。


 そんなとき、ふと頭をよぎる光景があった。


 かつて、小学五年生のころ。

 クラスで男子と女子のちょっとしたいざこざから一大抗争へと発展したことがあった。


 波を立てることなく、空気のような存在を心がけていた僕だったが、どっちつかずの態度が災いしてしまう。


御前ミサキ結心ユウト』は、どちらの側の人間なのだという論争になる。


 男子としては『男子なんだから男子の側だ』と主張。

 女子としては『男子側に加担していない以上は女子側』という主張。


 僕はどちら側にもつきたくないというか無関係でいたかったので、無派閥を選んだつもりだったのだけれど。

 結果、男子女子双方から詰められることとなる。


 そして、現在。


 正面からはレファレンスの相談依頼者。

 背後にはレファレンスの同僚(協力者)。


 どちら側に立ってもどちらとも立たず。

 どちらを立てる立てない

 あのころとおんなじである。


 ——嗚呼、僕はなにも成長していないのだな……。


 遠い目をして、自分の無能かつ無力っぷりを嘆いていると、


「で。——結局、あなたはミサキにどうしてほしいの?」


 僕の背後からヒバナが問う。


 それに対して、


「約束を果たして——」


 㐂嵜さんが返した。

 そして、


「わたしはあなたたちを信じたい。だから、約束を果たして。わたしたちを助けて」


 と、つづけた。


「分かった!」


 と力強い返答。


 僕もうなずいた。


 しかしながら、

「分かった」

 と発したのは僕じゃない。


「あなたのその望み叶えてましょう!」


 これを言っているのは、


 ——ヒバナである。


 なんだか急に誇張したふうにしゃべり出したのだ。


 どうしたの?


 てか、なんで?


「あ、ちょっと、そんなこと言って、ヒバナ……!?」


 僕らが、レファレンスが助けるとか望みを叶えるとか、そういうんじゃないじゃない!?


「ヒバナっ、僕らができるのはあくまでも手助けであって——……がフッ!?」


 しゃべってる途中でヒバナに顔面鷲づかみされて、押し退けられた。


 よろけたイキオイでカウンターの席にちょうど腰を下ろしてしまった。


「助かりたいと願う心こそが貴方あなたを助けるのです!」


 ヒバナが自己啓発セミナーみたいなしゃべり方をしはじめた。

 自己啓発セミナーに行ったことないけど。


「信じる者には祝福がお与えららん」


 なんかの教祖みたいな身ぶり手ぶりをするヒバナ。

 教祖とかよく知らないけど。


 お与えららんって、なに?


「ほんとうに、助けてくれるの!?」


 㐂嵜さんが吸いつくような瞳で、大袈裟に両腕を広げるヒバナを見つめている。


 何故かヒバナのトンチキな芝居に、㐂嵜さんが引き寄せられてしまっているのだった。


 この㐂嵜さんの急激な感情の変化は——〝糸〟の影響を受けているせいだと分かってきた。

 ダウナーだったり怒っていたり、感情の上昇下降が激しいのもそのせいだと思われる。


 ヒバナが最初に㐂嵜さんに〝糸〟のことを「気にしなくていい」と言っていたのは、このことを見越してのことだった。

 といまなら理解できる。


 いまの㐂嵜さんは、周囲の人間の感情や雰囲気に容易に干渉されてしまう。

 急激に感情を昂らせたり、ちょっとしたことで落ちこんでしまう。


 初期段階なら㐂嵜さんさえ気にしなければ、〝糸〟の干渉も受けなくなるかも、とヒバナは視たのだ。


 が、結局、僕もそうだったのだけど、

「気にするな」

 と言われると逆に気になってしまうのが、人間のさがというヤツ。


 そして、それが——どう、平埜さんに関わっていたのかというと……。


 ……などなど、

 そこらへんやらここらへんのすり合わせ、今後の打ち合わせをしようか。

 という段階で、㐂嵜さんが乗りこんできたので……。


 ヒバナがいま、なにをしようとしているのか、なにを考えているのか。

 ここまで長々と語ってきたが、僕の予想予測想像が多く含まれております……。


「藍那を、わたしたちを助けて」


 㐂嵜さんがけわしい表情で懇願する。


 僕もなんとかその期待に応えたい。


 カウンター席に存在感を消し、腰かける僕。


 正面に立つヒバナ。


 美しい黒髪。

 揃えられた前髪。


 綺麗な横顔。


 その目を見ていた。


 サングラスの奥の瞳には、なにも映っていないと知っている。


 でも、その瞳が薄紫色の輝きを帯びたとき、カノジョは奇蹟を引き寄せるのだ。


 奇蹟を起こすのではなく、その手で引き寄せる。


 いま、カノジョの瞳は薄紫色に輝いていない。


 それでもカノジョは、


「あなたがそう想うのなら、あたしたちは精一杯、それに応えるよ」


 大袈裟で胡散臭い芝居はもう必要ないのだろう。


 ヒバナは、手をさし伸べる。


 が、さし出した手が急に方向転換して、僕のほうを指さす。


「——ミサキが、ね!」


「——え、僕ッ!?」


 びっくらぶっこいた。


 いま心の声で、ヒバナのことを褒め称えていたところだったので、急に僕にパスが来て。


「え? レファレンス担当って誰でしたっけ?」


 僕のほうに顔を向けて、ヒバナが怪訝な顔をする。

 同時に、悪戯っぽい笑みを唇に浮かべながら。


 約束を果たす。

 ヒバナが言った。


 僕ももちろんおんなじ気持ちだ。


「レファレンス担当は、——ミサキです……っ」


 僕は言った。


 㐂嵜さんも僕のほうを見ている。


 途端。

 緊張感がつま先から這い上がってきて、身体を走り回る。


「ま、任せてください……!」


 思わず、僕は言ってはいけない科白セリフをブッ放ってしまった……。


「ほんとうね?」


 㐂嵜さんが食いついてきた。


「もちろん」


 酸っぱいモノを飲みこんでいる僕に代わって、ヒバナが言った。


 ——僕にどうしろと!?


 そんな視線を向けるが、やっぱりヒバナには意味なく。


「じゃあ、さっそくおっぱじめるわよ!」


 なんだか昔の少年マンガのヒロインを誤読したみたいな口調で、ヒバナが僕に言った。


「うん。でも、おっぱじめるって?」


 だから、そういう話はまだできていないのだ。

 とはいえ、やることは決まっている。


〝糸〟の正体について。


 正体と対峙するのだ。


 おっぱじめるのは、そういうことだと思うんだけど。

 僕は正体である〝アレ〟に対しては、とことん役に立たない無力で無能なのだけど。


 いまのところ、〝アレ〟に対抗するすべ能力チカラを持ち得ているのは、僕が知る限りヒバナだけだ。


 そんなことはヒバナ自身も分かってるはずなのだけれども?


 すると、ヒバナが言った。


「じゃあ、例のヤツ。準備しちゃいますか」

「ああ、うん。なんだっけ?」


 ほんとによく分かってない。


「——魔法陣」

「は?」

「魔法陣。ミサキの得意なヤツ」

「はい?」

「やっちゃいやしょう! レッツ、魔法陣っ!!」


 冗談かと思った。


 これが冗談などではなかったのである。


 これより僕は——真夜中の世界に、


《魔法陣》を描くことになるのだった。



「魔法陣って、なに?」

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