第8話 狂気は身の内に

 恭仁は感情を押し殺した無表情で屋敷のドアを開け、玄関に歩み入る。


「ただいま戻りました」


 誰も返事をする者がおらずとも、他人行儀で挨拶を口にした。居間の中からテレビ番組の、女性役者の大仰な台詞が聞こえた。恭仁は水でも飲もうと居間に歩み入ってキッチンへと向かう。居間の中央に据えられたテーブルの両端に置いてあるソファ、その向こう側に母親の香織がもたれて、テレビに映る古いドラマの再放送を気怠げに眺めていた。手前側のソファには姉の霧江が腰かけ、やはり気怠げにスマホに視線を落としてポチポチと弄っている。恭仁が横目に見ると、霧江が僅かに身じろぎした。


「どこ行ってたの恭仁」

「ちょっと遊びに」

「遊びって、あんた友達いないでしょ。もしや友達でもできたワケ?」


 恭仁に背を向けたまま、霧江は面白がってしつこく聞いてきた。


「別に。休みの日に僕がどこへ行こうと勝手でしょう」

「そりゃそうだ」


 どうでも良さそうに霧江が言うと、恭仁は眉根を寄せキッチンに向き直る。


「あんた、どこに行ってきたの!」


 今度は鋭い剣幕と金切声で、香織の問いが放たれた。恭仁が顔を向けると、香織が引き攣った怖い表情で、彼を鬼のように睨みつけていた。


「別に僕が――」

「つべこべ言わずに、親の質問に答えなさい!」

「うっるさいな。お母さん、いちいち怒鳴らないでよ」


 恭仁は吐こうとした溜め息を呑み、何か気の利いた建前を脳裏に探した。


「まさか、何か親に言えない場所に行ってきたとでもいうの!?」

「そんなことないですよ。ちょっと射撃場に。スポーツ射撃をしに」

「ああ、そういや同じクラスの射撃部の子が噂してたわ。あんたのこと」

「どういうこと!? 私は何も聞いてないわよ!」

「だから怒鳴らないでって言ってんじゃん」

「霧江は黙ってなさい!」


 面倒臭そうな霧江の言葉をピシャリと黙らせ、香織が有無を言わさぬ表情で恭仁に向き直る。そのうち調で手が出そうだな。恭仁は思った。


「体験入部に行っただけですし、射撃部には入部する気もありません。武道の稽古も今まで通りキッチリ行っております。誰にも迷惑はかけていません」

「私はそんな話を聞いてるんじゃないわよ! 一体!?」

とは、一体ですか?」

「1から10まで説明されないと分からないの!? 射撃なんて、!? そんなの私は絶対に許さないわ!」


 躾けのなっていない小型犬のようなキャンキャン耳障りな声で、香織は頭ごなしに恭仁に喚き散らした。恭仁は不愉快さと哀れみを隠さぬ表情で香織を一瞥し、罵倒を右から左に聞き流して歩き出した。同じ言葉の通じない相手だという諦めがあった。


「何なのその顔は! 言いたいことがあるならはっきり言ったらどうなの!?」


 恭仁はゆっくりと溜め息をこぼし、歩みを止めて香織に振り返った。


「でしたら遠慮なく、言わせていただきます。お母様、貴方はどうして、頭ごなしに僕のやることなすこと否定するのですか? 僕が射撃部に行ったり射撃場に行ったりしたことで、母さんにどんな迷惑をかけましたか? 銃が人殺しの道具だとお母様は当たり前のように言いますが、スポーツ射撃は安全に配慮したレッキとした競技です」


あーあ言っちゃった。と言わんばかり、霧江が背を向けたまま肩を竦める。


「あんた、あんたってガキは……」


 香織はわなわなと全身を震わせ、そう言うが早いが、バネ仕掛けもかくやと素早く立ち上がって示現流のごとく腕を振り上げれば、恭仁に駆け寄って平手打ち。


「つべこべ口答えしないで! 親の言うことを黙って聞きなさい!」


 一度、二度、三度。殴られ慣れた恭仁は、殴られる瞬間に打つ方向とは逆に身体を逸らすことで、打撃の勢いを殺すテクニックをも身に着けていた。


「何よその目は! 脛齧りの分際で、親に文句があるっていうの!?」

「あります。少なくとも、人に迷惑をかけない範囲において――」


 ここで先ず恭仁は頬を殴られた。それでも恭仁は恐れることなく、真っ直ぐ香織の顔を見つめた。何かのオソレ――に表情を強張らせた、母親の顔を。


「――僕が休日にすることや行く場所に、何か言われる筋合いは無いです」

「私が迷惑してるのよ! 何でわからないの! あんたもおおおッ!」


 香織は繰り返し恭仁を平手打ち、平手打ち、平手打ちした。癇癪は収まらず彼女は今の奥に駆け、柱に掛けられた節くれだったを手に舞い戻る。


「もう一度言ってみなさい! 母親の言うことが聞けないっていうの!?」

「こればかりはどうしても聞けません。許してもらえなくても構いません」


 言い終わる前に、乾いた竹の棒が頭頂部に振り下ろされ、痛みが弾けた。


「殴られても止めません! 初めて僕がやりたいと思ったことなんです!」

「もおお、この聞き分けの無いクソガキ! どうしてあんたってヤツは!」

「どうして殴るんですか! どうして言葉で説得しようとする代わりに、そう暴力に訴えるんですか! 僕は家畜ですか! 僕は母さんの奴隷か何かですか!」

「母さんだなんて呼ぶんじゃねえ! お前は私の子供なんかじゃねえくせに!」


 ハタと恭仁は訝しみ、思わず顔を上げて香織の顔を覗き込んだ。香りが渾身の力で振り下した懲罰棒が、恭仁の額でひしゃげ音を立て、弾け飛ぶ。


「何でお前みたいなガキと、私が家族ごっこしなくちゃいけないのよ!」


 香織は圧し折れた竹棒を苛立たしげに投げ捨てて、恭仁の向う脛を足蹴にしてからソファに戻った。恭仁は裂けた額から流血し、霧江を振り返った。霧江もまた恭仁を見ていた。霧江はいつになくバツが悪そうな表情で目を細め、スマホに視線を戻す。


「まさか、知らないかったのは僕だけ? みんな知ってて黙ってた?」


 誰も何も言わなかった。香織は当てつけのように、テレビの音量を上げる。


「お母さん、うるさい」


 香織は霧江の抗議を無視した。棒立ちで言葉を失う恭仁の顔から、潮が引くようにスッと表情が消えた。元より彼は、家中で不用意に表情を顔に表したりしないように努めてはいたが、今この時は完全に、作為でも何でもなしに、顔の精気が消失した。


 恭仁は額から血を垂らしたままキッチンへ歩き、冷蔵庫を過ぎて台所のラックから包丁を抜いた。香織も霧江も、恭仁の動きなど気にも留めない。


 恭仁は包丁を手に、無言で居間へと戻った。霧江はスマホを弄るのに夢中で包丁に気が付かない。恭仁は無造作にリモコンを掴み、テレビを消した。


「何すんのよ!」


 香織が苛立たしげに怒鳴り、霧江がテレビを一瞥し、2人が同時に恭仁を振り向き言葉を失った。霧江が蒼褪めた表情でスマホを取り落として息を呑み、香織も包丁と恭仁を交互に見てパクパクと口を開く。恭仁は片手のリモコンを放り出して、片手の包丁の柄を香織の方に向けると、音を立ててテーブルに叩きつけた。


「ようやく合点がいきました。今までの母さん……が僕にしてきた仕打ちの全てに。僕のことが不愉快なら、今ここで僕を殺してください」

「恭仁、あんた自分が何言ってるか分かってんの!?」

「姉さん……いえ、は口を挟まないでください」


恭仁は感情の無い声で、霧江を一瞥もせずに冷淡に告げて突き放した。


「香織さんが僕のことを憎んでいるのは、よく分かります。僕には知り得ないが色々とあったんでしょう。別に構いません。どうしようもないことは、どうしようもありませんから。でもこれ以上はもう耐えられません。香織さんが何かにつけて僕を痛めつける気なら、いまここで、これで永遠に終わらせてください」


 今の空気が一瞬だけ、死んだような静寂に澱んだ。ただ一瞬だけ。


「……はあああああッ!? 何でお前みたいなクソガキ殺して、私が犯罪者になって刑務所行かなきゃいけないわけ!? 死にたきゃお前が一人で勝手に死ね!」

「母さん、いくら何でもその言い方は酷すぎるよ!」

「うるさいんだよ! ! このクソガキ! 殺せ殺せ!」


 香織は霧江に向かって喚き散らすと、ソファにもたれて馬鹿笑いした。


「ホラさっさと死ねよ! 早く死ね! ちゃんと見といてやるからしっかり死ねよ! 死ねるもんなら死んでみろ! 早く、早く、はーやーく死ね!」


 この女は何かがおかしい。今更そのことに気付き、恭仁は千尋のごとく深い絶望を顔に表した。何かが壊れている。病んでいる。修復不能なまでに。


「死ねって言ってるだろ! 腹掻っ捌いて死ね! おら口だけか、死ね!」


 それに気づくのは余りに遅すぎた。僕の失ったあるべき青春は失われ果てて二度と戻ってこない。僕は一体何のために、誰のために生まれてきたのか。


「分かりました。お世話になりました」


 恭仁は包丁を手に取ると、絨毯の上に膝を折った。咄嗟に手を伸ばす霧江を腕力に任せに振り払い、ジャージのジッパーを下げると、下着を捲り上げた。


「死ーね! 死ーね! はーやーくー死ーね! クーソーガーキ!」


 恭仁は包丁を両手に握って、切っ先を腹に突きつけ、暫し言葉を探した。


「親知らず/浮世は桜/野辺の塵」


 今際の際に納得できる言葉を導き出せ、恭仁は会心の笑みを浮かべた。


 恭仁、お前はやればできる男じゃないか。それでも、痛いものは痛いなぁ。


 腹を刺し貫いたきり、もう1ミリだって動かせやしない。


 自分で腹を切った昔の侍は、偉かったんだなぁ。


 僕の本当の親は、一体誰だったんだろう。


 ……。


 2人分の甲高い悲鳴が、倉山家の窓を破らんばかり朗々と響いた。



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