第9話 恨み積もりて

 恭仁の割腹自殺は、未遂に終わった。病院で手術を受けて、一命を取り留めた彼は病室の寝台で目を覚ます。恭仁は包丁を腹に刺しただけで、肝臓などの主要な臓器は傷つけずに済み、腸やその他臓器の損傷も最小限だったのは不幸中の幸いだった。


「恭仁! お前、何でこんなことしたんだ!」


 父親の利義が警察から取る物も取り敢えず病室へ駆けつけ、有無を言わさず恭仁の頬を殴ったことで、恭仁は三途の川を渡り損ねたな、と実感した。


「父さん」

「何だ!」


 恭仁は利義と真正面から向き合い、自分の放った言葉に眉根を寄せた。


「……いえ、

「な、何だ」


 恭仁が不穏に目を光らせ、低く押し殺した冷静な言葉で告げると、激昂した利義が狼狽えたように言葉の調子を落とす。を察したような様子だ。



 霧江を一瞥し恭仁が問い返すと、霧江は恭仁の入院に必要な荷物を詰めたバッグを放り、顔を逸らした。利義は横歩きで霧江を庇うように進み出た。


とは何をだ。恭仁、なぜそんな他人行儀な物言いをする」

「利義さん」

「恭仁!」

「僕は」

「聞いてるのか!」

「僕の話を聞いてください」

「いい加減にしろ!」

「それはこっちのセリフですよ!」


 倍々ゲームで大声を上げる2人の姿に、霧江は利義の影で溜め息をついた。


「いいから俺の質問に答えろ!」

「質問するのはこっちです!」


 怒鳴り合いは最高潮に達し、病室の他の患者たちが騒々しさに舌打ちした。


「利義さん。より、今ここでどうしても貴方に聞かなきゃならないことがあります。確かめなきゃならないことが」

「だから何だ!」


 恭仁が冷徹な声色で静かに告げると、利義は激昂して喚き散らした。


義母カアさん、香織さんは僕のことを、自分の子供じゃないと確実に言い切りました。利義さんはどうですか。貴方は本当に僕の父さんですか」


 利義はギクリと肩を震わせ、傍目に気の毒なほどわなわな震え、狼狽した。


「霧江さんは何も言わないですけど、何か知ってるようには見えます。そうなれば、義兄ニイさん――貞義さんと隆市さんがそのことを知らないはずがない。貴方たちは何を考えているんですか。なぜ僕個人の事なのに、僕だけ仲間外れにして貴方たちだけが当たり前のように知っていて、僕には黙っているんですか」

「違う! 違う恭仁、そうじゃない! それはお前の思い違いだ!」


 利義があたふたと弁解の言葉を口走る姿を、恭仁は無言で見据えていた。


「お前が成人したら言うつもりだった。大人になるまでは黙っていようと」

「なぜですか」

! 思春期にお前だけ俺たちの子供じゃないんだと、自分だけは実は養子だったんだと教えられ、学校で笑い物や爪弾きにされたりしないように!」


 。利義は確かにそう言った。利義もまた恭仁の親でないということだ。


「親は違えど、俺たちは一つ屋根の下で暮らすだ。恭仁が成長するまでみんなで力を合わせて守って、見守って行こう……そう、約束したはずなのに……」


 恭仁は溜め息をこぼし、病室を見渡した。香織の姿はどこにもなかった。


「お母さん、完全になっちゃったよ。あんたのせいでね!」


 利義の背後から霧江が歩み出ると、涙を溜めた目で大手を振った。


「あんたが自殺紛いのことなんかするから!」

「他に方法がありましたか」

「黙って耐えてれば良かったでしょ! あんた一人で!」

「理不尽に殴られて、自分の子供じゃないとまで言われてもですか!」

「そうよ! 今まで通りあんた一人で耐えてれば、全て丸く収まってた!」

「憎まれて殴られるだけの存在なら、死んで居なくなっても同じことだ!」


 恭仁の積年の怨嗟が込められた怒りの言葉に、霧江もまた怒り心頭だった。


「何でそうなるのよ! 自分が死んだら全てが解決するっての!? 自分だけ死んで楽になりたいとか考えたワケ!? バカじゃないの! 今まで育ててくれた父さんと母さんの気持ちを考えたことある!? 家族みんなが悲しむって思わないの!?」


 恭仁は疑心暗鬼の眼差しで、霧江から利義に視線を移し、溜め息をこぼした。


「本当に悲しむと嘘偽りなく言い切れますか。自分の意見を押し付け、僕の気持ちを踏みつけにしてきた貴方たちが。今まで、家族みんなから受けてきた辱めの数々を、僕は一生忘れません。どの口が言うのですか。僕が死んだら家族が悲しむだなんて、どう考えたらそんなお花畑な発想が出てきますか」


 気色ばんだ霧江が飛び出そうとするのを、利義が羽交い絞めして抑え込む。


「このバカタレ! 何でお前はそうなのよ!」


 恭仁の心底から軽蔑する眼差しに、霧江は喚き散らして利義の羽交い絞めする腕を振り解き、右手を振り上げて恭仁に迫る。恭仁は冷ややかに見返した。


「僕をのは貴方たちでしょう。殴りたいなら殴ればいい」


 恭仁は感情を殺した平坦な声で、霧江を真正面から見て言い切った。霧江は奥歯を噛み締めて涙を溢れさせると、何回か躊躇して結局、恭仁を殴った。


「殴られたのがあんただけだと思ってるの!? 母さんは昔ッから情緒不安定なの、わかるでしょ!? 薬もずっと飲んでた。私だって兄さんたちだって、小さい頃から何かにつけて殴られたけど、それでも母さんはいつか良くなると信じて、ずっと今まで耐えて耐えて耐え続けて来た! あんたみたいなを家族に――」

「止めろ霧江! それ以上言うな!」


 霧江はボロボロと涙を流しながら恭仁を繰り返し殴るも、哲義が悲壮な叫びを上げ割って入り、振り上げた拳を掴んで止められると、腰砕けになって泣き崩れた。


「元はと言えばでしょ! お父さんが恭仁を家族にしてから母さんがどれだけ悩んだか分かる!? 恭仁の秘密が近所にバレないようにずーっと心配して神経すり減らして、私たちも母さんから叩かれて、いい迷惑よ!」


 霧江が放った言葉に、利義は呆然自失と言葉を失い立ち尽くす。よくもまあ次から次へと新事実が掘り起こされるものだ、恭仁は眩暈を覚えんばかりだったが、貞義と霧江の混乱ぶりでは事の次第を聞き質すどころではない。


 病室はそれきり重い沈黙に包まれた。


 義理の母、倉山香識が発狂した。恭仁がその事実を知らされたのは、彼が入院して数日経過した後だった。情緒が崩壊し、壁に向かって譫言を語り、近づく者を恭仁と呼ばわって暴れ回る。どうすることも出来ず精神病院に緊急入院させられたという。



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