第19話

〈姉〉

 縁と過ごす丸一日の獲得から何日目だろう、と数えるに当たって計算違いが生まれる今日この頃。料理の腕っ節はレンジで茹で卵を作ろうとしていた時期から随分改善されて、「何か味が足りないなぁ」と首を傾げる縁に「胡麻塩とか?」案を投げれば「……これだ!」と頷いてもらえる程にはなった。

 映画鑑賞に飽きれば画材を買ってお互いをデッサンし合ったり、避けて通って来たかのように思えるゲームの類に手を出してみたりと、出来るだけ室内で完結する遊びを求めた。因みにマリオカートは私の全戦全勝。躍起に再戦を申し込んでくる縁の悔しい表情が貴重で、ただ操作能力を競い合うだけの媒体ではないことを知った。広い世界、自分の関心が向かない物にも修学旅行最終日の大部屋班のように価値が眠っている。それだと起きているか。旅行行かずに済んで良かったなぁ。

 それでも健康と買い出しを思って時折、凡そ三日に一回は散歩に出掛ける。老後はこうして二人近所を巡って、争う故の無くなったそこら辺の婆さんと挨拶でも交わしたいね。その頃になれば好い加減他人に後腐れは抱いていないと思う。学生以若には見つからないよう公園は回避するように信号を渡る。

 それなのに出会ってしまった。

「あぁ!絆ちゃんだぁ!」

 慰陽さんの騒音が向かい側から呼び掛ける。縁の手を引っ張って逃げれば笑顔の全力疾走で追われそうで、健康にとって害悪な体験となりそうなので会釈して認知を伝えることにした。しまった、今日は休日だったか。見た様子単体の登場には安堵する。普段の付き合いは薄くあってくれるのか。

「よく見たら縁ちゃんも居るぅ。で、学校辞めちゃったんだよね?」一呼吸、いや一対面空けるべき話題を脇腹から捻じ込んできた。私だけでなく縁の喉まで異物感に襲わせる。

「……よくご存じですね」あくまでこの人に罪は無いから丁寧にサービスするけど、誰のせいか知っていたら流石に年齢差を克服してやるぞ。情報源はどうせ家庭の事情でとか何とか偏った発信をしているのだろう。あながち間違いではないけど。

「それで影良が絆ちゃんに会いたいってぇ」すると胃を絞り取ってドライヤーで乾燥させるような台詞を平常の顔が放った。「は?」声に出そうになる怒りを生まれ変わった私は惜しまず出す。この人には遠慮など無用だと思うようにした上で「何故ですか?」問う。

「影良と喧嘩したんでしょう?仲直りしてよぅ」あいつ、学校には白を切っておきながら姉には自白していたのか。それとも私の退学の原因とは無関係に喧嘩したことにして、普通なら怪しまれて不思議の無い顔の傷を誤魔化したのか。闇より深い大穴として、私が能動的にあなたの妹を傷害した挙句自主退学したと信じて止まないのか。第一の線とすれば真の経緯を知りながら、膨大な時間苛まれた不均衡を喧嘩と仲直りという表現で片付けようとしている。さすればこの姉妹は本当に救いが無くなるべきだと思った。喧嘩相手と身内を引き合わせる時点で可笑しいと思うけど。

「ワタシ影良のこと大好きだからぁ」動機は訊くより先に宣言してくれた。あ、何だ。妹の為か。妹中心に回る世界は皆平和であって欲しいという思いは共通ながら、彼女の場合節介の度が過ぎるのだと漸く理解した。この姉妹は何故普通に生きていけるのだろう。生きるなら視界の外れで勝手に生きて、もう私達の間に入るの止めてもらえませんか。

 そう思って今度こそ縁を連れて逃げようと足を出すと、コンマ一秒以内の初動で私の手首を掴んできた。「逃げないでぇ」ジム通いを疑わせる握力が掴んで離さない。立てた爪がギリギリと血管内の交通を制御する。

「ぐぐ、わ、分かりました」諦めて指示に従うことにした。さっきから充血の激しい縁が「帰ろうよ」震え声で訴えてくるが「我慢しよう」自己暗示を兼ねて呟いた。人間関係は我慢の連続、私達は特に悪運には恵まれているから。

「じゃあワタシん家にレッツゴゥ」ここで待っているので妹さんを呼んで来てください、という案が棄却されるのを待たず腕を引く慰陽さん。一応未だ敬称略には至らせていないあなた、他人と同義の者共を家にまで連れ込むつもりか。近所付き合いを過大視するのは弱冠二十歳前後にして時代錯誤だろう。それに休日のあいつは私達とは対極的にミスド辺りでぎゃあぎゃあ騒いでいるイメージがあったけど、都合悪く在宅中のよう。バイト先の候補から飲食店を除外しながら、相手の陣地に誘われるのは間抜けな戦略だけど、この市民社会なら防犯は機能すると考えて歩みを合わせた。

 今では相関図の追える縁が叶わなかった復讐代行に挑まないかという不安と共にアパートに着く。一階奥、日当たりとは険悪な部屋のドアノブを回して、生まれて初めての他人の居住スペースの空気を吸う。縁の身体に合うか注意する目の端には、我が家とは異なる狭い玄関に散らばった靴が二足。見えない場所で利口に振る舞う裏切りは無さそうだ。察するにどうして同じ道を辿ってこの人生の分岐が生まれるのかね。何故お互い愛し合う私達の方が苦痛を舐める羽目になるのか。

「ただいま連れて来たよぅ」呼び掛ける声から本当にあの顔が再来してしまうのだと実感した。けれど今更距離を近付けて何をするのだ。賠償金を請求出来るならそうしたいけど。

「…………は?」出てきた元クラスメイトの返事からするに、濃厚だった第二の線を歩いたようで私達の到来は微塵も期待していなかった。ソファに寝転がる様からは私の手製の傷が回復していると分かり、今尚縁に肩揉みを頼む代わりに自ら感謝のお返しに出る私とは体質から違うのだと思った。

「影良絆ちゃんと会いたがっていたでしょぅ」

「……ちっ」恐らく姉の認知にも届くその態度は適当な言い訳を生産したことを後悔しているのだろう。二度と会わない約束を確信していた二人は戦いの火蓋の開きを予感する。

「……………………」やぁどうも元気かいと言った建前的な軽口はどんなに心を欺いても叩けない。縁は人より物へと関心を絞り警戒と防衛に思いを寄せている様子。

「ごめん!仲直りしよう?」このまま三人の怨恨が深みを増していくのかと思うと、パッと伏せていた表情が切り替わり、私の元まで飛び上がり伝えてきた。その近さにあの時の衝動が甦る。あぁもうあの教室さえ脳内に再現したくなかったのに。姉の前では強く出られない性格なら、この姉を学校で紹介していれば教室の勢力図を少しは描き換えられていただろうか。慰陽さんの行動力は校舎へ向かって欲しかった。

「今まで傷付けてきたつもりは全然無かったんだけど、もしそうなら心から謝るから」私の方を被害者とはしながら、まるでこれまでの体験が嘘だったみたいな台詞回しを平気な顔で行う彼女。これが本心だとしたら私は今後履歴書をどんな角度から見つめれば良いのだろう。

「はい、二人握手ぅ」対応を迷っていると空気の識字能力が無い人が私と罪人の手を引き寄せ、結び付けてきた。おい止めろ。縁用に清潔を保っているのに黴菌が入る。

「ちょ、そこまでは」縁は言うまでないとして触感の悪い手の持ち主まで抵抗するのは、照れ臭さより欺罔の露呈であることを教えてくれた。これは私の記憶消去を狙う儀式なのかね。さっきから私の口主導の発意を促さないのは対話を通して解決を図るなんて毛頭なく、他己の満足を錯視することで自己満足する一人と端から満足な生活を謳歌している一人による寸劇だと趣旨を掴んだ。

「はい仲直り。これからも宜しくぅ」態々突っ込まないけど、家まで連行されたから二人共謀で追い詰められる未来を考えたがそのディストピアは非現実的だったようだ。じゃあ帰って良いですかね、言おうとして続く。

「一緒にご飯作ろぅ」

「嫌ですけど」きっぱり言った。

「嫌じゃないよ作ろうよぅ」という訳で手首をケアする文脈をなぞり、彼女達と夕食を共にすることになった。賛成派が限られる中、相手側が猛反対しないのは無駄な労力だと悟ったからだろう。

「夕食代浮くと前向きに考えよう?」もう聞こえて構わないかと通常音量で縁と妥協し合う。「お腹空いたよぅ」奥の声に「……私が行くから」言うと縁は気遣いから素直に受け入れ、夕刻見えるキッチンで慰陽さんと並んだ。静かなリビングを他所に「冷蔵庫自由に使って」「どんな味付けが好き?」「指切っちゃったよぅ」喋りのネタが尽きない彼女をあーはいと処理する。こんな環境で育ったらああなっても、許しかけた同情と人参を直ぐ圧力鍋に捨てた。

 各々食卓の四辺に着いて限定的な会話線を繰り広げる。奥では気付かぬ間に例の飼い犬が小皿を漁っていて、慰陽さんの脚先に委縮する顔は被害者に近しく思えた。不本意にも縁と磨いたスキルを用いて完成させたはずの肉じゃがは、想像以上に不味かった。縁は慰陽さんの手に恩のある白米を一粒残らず残り物とした。

「絆ちゃん退学して良かったじゃない。こうして仲直り出来たんだからさぁ」食後に聞き捨てられない台詞が訪れた。意味が分からないようで、この人の思考をトレスすれば確かに学校に居るまま握手を認めることは無かっただろうから一考未満には値した。では今何故弛緩しているかと言えば、距離と風化と一線超えたある種の余裕が故かな。

「お泊まりしていく?」慰陽さんの発言は許容不可能な域に達した。

「ガスの元栓閉めたか不安なので帰ります」オール電化だけど説得的な理由を添えて返す。

「えぇでも折角なら……」とは口籠ったが、人工的な幸いなことにそれ以上食い下がることは無く「また今度で良いかぁ」納得してくれた。やっと帰れる。

「いつか家にもお邪魔したいなぁ。ね、影良」

「ん、あー……まぁ」

「さようなら!」

 不気味な言葉はそれ以上解さないように縁と同じ速度で廊下を駆けた。汚い扉を閉じる手前、隙間に映った三番は瞼をひん剥いて舌を突き出していた。反省の欠片も無いみたいだね。何か思い付きから悪くはないと言った言葉尻をしていたし。

 外は黄昏時。やっぱり外なんて出るものではないな。だよね、縁。この世界に良いことなんて無い。この文脈が延長されるなら家にまで居場所が無くなる。前回の仕返しに襲われるかもしれない。切掛けは向こうだけど虚しい報復合戦がやがて事件と化す気がした。

 引越しするお金は無い。街から去ることは出来ない。

 ここは学校ではない。助けてくれる大人は依然誰一人居ない。

 移動中、連絡先を受信拒否に設定する。これからどうしようと縁に相談してみた。


〈妹〉

 遠目から収める公園には、わたし以上に幼い子供達が無垢な笑い声で水飲み場周りに集まるけど、その外れでぽつりと一人立つ少年が居る。きっと大人は口では正義感漂うことを言いながら、街を歩けばこの存在に気付くことさえ無いだろうな。君の気持ちが分かるよ、わたしは目で訴えた。

 そんなノスタルジーを吸い込んでいると、邪魔者が懲りずにやって来てしまった。教室で対峙したあいつの姉はお姉ちゃん目掛けて気安く突っ走る。お姉ちゃんを好むのは妹との接点からかと今になって理解を投げる。けど不味い、今日は護身用グッズを何一つ取り揃えていない。武器を手放したわたしは足しか頼れるものが無い。

 コイツはお姉ちゃんが退学したことを多分妹伝に知っているようだが、よくワタシの妹に刃を向けたわね等とわたしの行為や進路にまでは踏み込まない。過剰なるリベンジまで出ないのもまた性格のお蔭かと思い捨てた。

 妹に会わせたいとほざく間抜け面やお姉ちゃんの腕を圧迫する爪に怒りが降り注いだ挙句、コイツの自宅、きっと妹も居るだろうその場所に運ばれる羽目になった。お姉ちゃんわたしが付いているから安心してと言えるように、いざとなれば投擲する物を物色しながら部屋へ進入した。奥にはあの日見た生育不良少女。わたし相手には辞句だけの謝罪さえ述べること無く「また会いましたね」のマの字で終わる。その後料理しようと没にすべき企画が挙がり、受け入れるしかない状況に堪えながら一貫して無言のまま時を流した。気分転換の為に街に出たのにね。どうしてわたし達はこんな目ばかり遭うのだろう。

「……外にも行けなくなっちゃったね」暗い道を歩きながらどうしたら良いのかなとお姉ちゃんを見上げる。帰り際の何か言っていたことから中だって安全とは限らない。お姉ちゃんも同感らしく「…………はぁ」悩みを散らした後、決心したように言う。

「行きたい場所があるんだ」

 その言葉に何か救いを感じた。最初から発想していたけれど形にするのは控えていた、そんな口振りだった。その引き締まった表情に新しい一歩を踏み出せると予感した。

 お姉ちゃんが向かう先なら、わたしは何処へでも付いていくよ。


 この日、夢を見た。

 四年生時代の教室。周りを見渡すと弾む話題に溢れている。遊園地がどうのゲームセンターがどうの誰ちゃん家がどうの。わたしは机を離した傍観者、時折独り言であははと言うしかない。わたしだけ周りと違う。その事実を陰気な目元が笑いながら伝えてくる。

 思い出すと今でも辛い辛い辛い辛い。暴れたいのに動けない。百円おにぎりを手に取れない。夢と現実の境界に抗おうと熱に任せる。だけど出来ないから首を捻られて上昇する。この視点に立てば気付かないようにしていただけと分かった。わたしだって辛かった。でもそれを認めたら最後世界からズレ落ちる風潮を肌で感じていた。

 だから強くあろうとした。お姉ちゃんのことで頭を満たすようにした。お姉ちゃんへの愛を積み重ねていけば負の構成要素は無き者になると信じた。いやだからではない、それだけではないけど、だからということもあったと思って、だからそうだからお姉ちゃんが居る。居ない教室、居た。居ない?居るよね、おぅい。遠いその席に座るお前ではないお姉ちゃん辛い嫌いお姉ちゃん好き。お姉ちゃん好き。お姉ちゃん好き。お姉ちゃん好き。

 お姉ちゃん好き……?

 だよね、お姉ちゃん?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る