第18話

〈姉〉

 縁に助けられた。小さくて愛らしかったその背中がヒロインからヒーローへと印象を変えた。

「お前達ここでお姉ちゃんを虐めていたな」筋肉の足りない握り拳が私の口には出来なかった事実を表現する。よく見るとミリ単位で震えているのが分かった。相手は女とは言え身長差、勢力差からして無理も無い。私は無理をさせてしまっている。

 縁が叫ぶ。赤ん坊の頃から聞き慣れたはずの縁からこんな大声が出るとは想像していなかった。私は縁の為に声を張り上げたことがあっただろうか。あの時だって私は家に帰った縁に囁くことしか出来ていなかった。私の為に身体を張る様は忘れかけていた存在の熱を思わせた。

 あのまま私一人だったら、縁が駆けつけるのがもう少し遅かったら反撃と称した言葉以上の暴力が追加され、トイレに連れ込まれて打撲跡では済まない傷跡を顔面周りに残したかもしれない。そしたら縁にどんな顔向けを果たしただろう。痛みの拭えない肩甲骨を持ち上げて縁より視線を高くする。

 私の為に有難う。そうだね、何故躊躇していたのだ。何故机の上に伏してただ授業が終わるのを待ちわびていたのだ。お姉ちゃんが妹を巻き添えにしてどうするのだ。私のことは私がケジメを付ける。手を伸ばしかける縁は理解を迎えたようで後のことは任せてくれた。殺せなくても重症なら良い。血が出てくれるなら良い。恐怖を植え付けられれば良い。これを受けてお姉さんがどう思うかは知らないけど、二度と私達に近寄らせない為に壁の方へ向かう。

 引き抜いた瞬間腕を回し振り返る。助走無しにトップスピードで飛び掛かった先は遠藤影良。彼女の瞳孔目掛けてカッターを振り下ろす。

 無事得られた確かな感触の矛先は、出席番号十三番だった。

 腕の奥へと切り込み血管の流動性が私の右手から伝わる。刃の劣化を誘導させる

「片伊さん…………」

 加害者二人に挟まれて真の被害者は倒れ込む。眼鏡を振り飛ばし、額から首下へ薔薇色の河川を形作る。私の手に付いた初めての血液は望んでいた状況より虚しかった。二人はそのまま時を止めてしまった。

 廊下から遅刻し過ぎた大人達の足音が聴こえた。


 私達は二人共退学になった。

 正確に言えば縁は自主退学の勧告を受け入れ、隣の市の公立中学に転校することが決まり、手続きが終わるまでの間家で過ごしている。中学生の縁は十分通い続けられた訳だけど、「お姉ちゃんを置いてあの学校に行くのは嫌だ」と言って進んでフェードアウトを選んだ。噂は学校中に広がっているだろうし、第二の虐めに遭う可能性を考えれば必然と言えるかもしれない。私のせいだけど。根本的にはアイツらのせいだけど。

 私は晴れて最終学歴中卒。現行犯逮捕されなかっただけ運に恵まれているかもしれない。しかし学費が浮いてラッキーと迂闊に喜ぶばかりではいられない。数年食べていく貯金は通帳に残っているけど、それが消えたら餓死する。高卒認定試験を受けるか通信制やら何やらの高校紛いに移るか、適当な所に就職するか夜勤アルバイトライフに転落するかと現在勘案中。受験期手前の退学は他人の頭には理解出来ないだろうけど、どうせバイト生活に近似される大学に私は大した意味を感じていなかったので後悔は無い。結婚して養ってもらうのは論外。言うなれば縁と結婚して支え合いたい。仕事の為に家を空けるのは流石の縁も反対はしないと思う。反対するなら姉妹同じ職場、となると農業でも始めることになるのか。足りない知識と資金を確保さえ出来れば無しではないかもしれない。兎に角縁と一緒なら山野で猪を狩る自炊生活を送ったって良い。そう言った甘い考えは捨てつつある頃合いだけど。

 中学時代の三年間のようにいつかは離れてしまうのは分かっていた。そのいつかが可能な限り先延ばしになれば良い。

 そうして私達は夏季休暇に引き続き、念願叶って一日中家の中で側に居た。ゲームをしたり私も料理に加わったりと毎日が楽しい。今まで耐えていた苦労は何だったのだろうと思うような無責任感。精神的には問題無いどころか、日常が問題だらけだったのでそれだけで世界に希望を感じる。さて、これからの人生どうしようか。


 あの日、担任が野次馬をどけて駆け寄ると私の抗う手段は没収され、怒鳴られながら素早く補導された。私とその周辺を仲良し組と思っていたような担任だから何を言われようと耳には入らなかったけど。校長からは退学の旨が知らされ、この程度でその処分が下るなら体育の度に生徒を入れ替えるのが道理だとは思いながら了承した。そして事件の被害者へ面会と謝罪をするように指南され、相手次第では傷が増えるかもしれませんよ、という冗談を捨て台詞にするのは控えておいた。三番の顔にも傷を負わせたはずだけど、その件については不問にされた。

 一週間後、十三番の収まる病院へとこんな時でも縁と二人で面会に行った。十三番自身は「ほんの切り傷だから気にしないで大丈夫」と言い、実際文房具由来の中途半端な自傷行為とさして変わらない傷は瘡蓋で守られていた。三番相手だったらあれ以上先の攻撃を繰り返してここが墓前へと描写を変えていただろうけど。

「それより片伊さんは学校大丈夫?」と聞いてくれ、無暗に中退の件を知らせて悲しむ動作を強いるのは面倒だと思って「大丈夫大丈夫」と明るく答えておいた。退院したら私の見えない所で思いを馳せてください。

「ごめんなさい、もっと早く気付いてあげられていたら」とその後に続く話を聞くと、彼女は休み時間学年委員会に出席していた所、騒ぎが聞こえて私の元へ飛び込んできたらしい。クラス委員であることさえ認知していなかったけど、孤立する私に無遠慮に話し掛けてきたのはそういう訳か。

 ふむふむと椅子に座って思いの丈を拾っていると、不意に病室を訪れた成人に頬を叩かれた。少し前の出来事を想起してしまうけど、「お母さん!」と響く声から証明される身分は「ウチの娘に何てことしてくれたの!」と年下に容赦無く喝を入れた。きちんと親らしい愛情を娘に抱いている証拠だ。それが正しいよ。間違っているのは私とその周りの方。それを見た縁の目はまた平静さを失っていたけど、「良いの縁」宥めると大人の事情に妥協してくれた。

「娘さんを傷付けて申し訳ありません」怒りを覚える必要の無くなった私は率直に謝った。縁も私に合わせて頭を下げてくれた。女の傷は栄誉の証と思ってくれる性格ではなかったようで「あんたのせいで……!」と胸元を掴んだ後、寝転ぶ十三番に涙を届けた。フルーツでも用意すれば打たれなかったかもしれないが、お金が勿体無いのでこれで良かったと思う。実際諸悪の根源は私では決して無い。

 ただ、十三番のことをどうでもいいと思うのは止めにした。彼女は平時五人を始めとする集団の振る舞いを止めることは無かった。それは煽りと虐めの判別が付かなかったからだと思われ、私も逆の立場ならそう捉えて距離を取っていたと思う。代わりにいつも悲しげな目でこちらを見ていたのは実は知っていた。敵しか居ない教室の中で唯一私に柔らかく接してくれた。恐らくクラスメイト含む学校の人間の八割は私に非があると考えるだろうけど、彼女だけは私に正義ある同情を向けてくれた。自身を犠牲にしてまで善意を貫く、私には理解出来なくなってしまった行動経路を平然と辿る。私の不幸な人生の中で縁に次いで信頼を置ける人物と言えた。そんな彼女を傷付けてしまったのは本当にすまないと思っている。傷付けるのは三番だけで良かったのに。

 三番は今頃のうのうとあの席に座って呼吸している。ああいう奴は私みたいな奴が居なくなったら何を楽しみとして生きていくのだろう。左前に花瓶でもおいて笑いながら、今回のことを出汁に味わいながら過ごすのか。他者を見下すことでしか自己を保証出来ない薄っぺらな人間なこと。私も私で縁の居ない人生なんて続けられないけど。

 冷静な頭で振り返ると、私はクラス、特に三番を始めとして教室での権勢を握る周りの席五人に虐められていた。きっと共通の敵が欲しかったのだろう。受験期が迫ってイライラしていたのもあるかもしれない。五人は半日以上を費やす席の周りに異物が混じるのを許さなかった。陰気で目立たず授業後直ぐに帰宅するネタ満載の私をおかずに近隣住民の結束を図ろうとした。中等部から私は気弱だったとは言え、ここまで弄ばれるのは初めてで心を整理するのに必死だった。縁に言えばあんな状態になる予想は簡単に付き、卒業まで隠し切れれば余計な気苦労掛けずに済むと黙っていたが、思った以上に早くバレた。縁は私の隠し事を知ってどう思ったか。縁に最大の謝意を伝えたい。ごめんね。

 縁も小学生時代、虐められていた。その時は答えを貰えなかったが後に訊く処に依れば、日常会話の反りが合わないこと、友達付き合いが悪いことが正当性の無い理由として挙げられていたらしい。今の私と同様当初はひた隠しにしていた縁のランドセルに「汚染物質」の落書きを見つけた日以来、縁の一挙一動から気鬱を掬い取った。「学校は楽しい?」と尋ねれば曖昧な肯定、「無理して学校行っている?」と気を遣えば曖昧な否定が生まれた。直接餓鬼共に注意しようかと思いはしたが、それが悪評を加速させないか等とうだうだ迷いに流され、依然臆病に見守るだけだった。あの時もっと縁に言葉で寄り添って解決の手立てを探るべきだったと今でも悔いている。

 快くない空気が続いたある日、縁が教室で暴れたので保健室に身柄を移したという一報が入った。流石に授業を受けている場合ではないと判断した私は早退し、現れた親族の体格に目を丸くする初対面の先生からは、縁さんが給食中いきなり喧嘩を始めたので今日は早退させますと経緯を伝えられ、これから暫く学校を休ませるのも手段の一つだと提案してきた。帰りながら疲れ姿の縁から正しい情報を聞けば、コンビニで買ったパンと牛乳を広げていたら周りの子が「何食ってんの?お弁当作ってもらえないの?」と急に煽り始め、一対多数の言い合いになったようだ。構って欲しかったのか何なのか真意は知らないけど、シンプルで下らなくて根が深い子供の悪意が縁に向いた。縁は机を倒して反抗したらしい。

 結局縁は四年生の間自宅に籠り、クラスの変わった次の年から通学を再開した。私の中学時代は縁の心配で頭が満たされていた。重なるメンバーも居るから平穏に進むか危惧していたけど、さしたる事件無い生活は復活した。以来、縁の性格は極端さが増したように思える。私が経験の薄かった思春期手前の迫害は人格形成に効くということか。縁が縁であることに変わりは無いし、愛はその分深まったけど。勿論それ以前から誰にも負けない愛の深度は宿していたけど。

 だから縁は当然地元の中学なんぞに通いたいとは思っていない。攻撃を仕掛けた、傍観した同級生、あるいはそんな重大事件を忘れた同級生と再会するリスクなど背負いたくない。おまけにここら辺は柄が悪いと評判だから、地元から離れて良い中高に進学したかった私と同じ中学を選び、次は少し離れた土地に通おうとしている。その内離れ離れの時間がまたやって来るのは事実だけど、縁は私の居ない電車に乗り続けられるだろうか。長所である想いの強さが吉と出るか凶と出るか。私の社会的地位はどうでもいいけど縁の履歴書は整っていてもらいたい。縁の意志こそ最大限尊重するけど。

 こうして姉妹共々他人の被害者になるとは思わなかった。ある意味縁の気持ちが理解出来たと前向きには思えない。街を蠢く不幸の化け物が我が家に駐在するフィクションにしか解が求まらない。引越しする程のお金は無いし。取り返した観察日記に「これからは幸せだけが私達に訪れますように」と書いた。


〈妹〉

 お姉ちゃんと家で過ごす秋の平日。近所の犬猫や小学生がわんわん吠えるのを昼間から聞けるゆとりある午後、取り寄せた紅茶を飲みながら映画を見る。お姉ちゃんが選んだのは映画館で鑑賞した作品の続きで、もう次回作が出たのかいと思ったらどうやら夏に観たのは旧作の再上映だったらしい。世間の流行の一時代後ろを歩くのは並走するよりはマシだよね。結末は救いの認められないバッドエンドで、明るい陽射しの下視聴する内容として中々乙ではあったけど、中途半端なリアリティだなと感じた。現実のわたし達ならもっと劇的なシーンを描けると思うけどね。映画監督権限でお姉ちゃんにあれこれ演じさせたい。

 台所の姉妹クッキングは俎板辺りに付き始め、今日はハンバーグ制作に精を出した。お姉ちゃんを思って一人丸める豚肉も味があるけど、二人手心が加われば皮脂の分だけ美味しくなる。出来上がった塊は隣の二個が歪となっていて、まだ知らない不器用な部分を発見するのが意義深い。わたしにとってはデジャヴを感じる生活パターンだけど、実質の夏休み延長は学生にとって有難い。

 わたしは新たな中学へ転入することになった。けど正直行きたくない。通学時間が今までの倍近く掛かることで、あの時窓から通わせていたお姉ちゃんとの心の距離まで遠くなってしまいそうだし、どうせろくな友達出来ないし、下手すればトラウマを繰り返すことになるから。このままこうして時間を貪っていたい。

 あの日を思い出す。わたしはお姉ちゃんの虐めを知らなかった。好き好き言っておきながらお姉ちゃんの心の奥底まで注意が届いていなかった。お姉ちゃんにはわたしの件で山程心配掛けたというのに。頭の中では立派なわたしも、お姉ちゃんの前では惨めな若輩者だと自覚出来るね。

 言い忘れていたけど、わたしは小学四年生から虐められていた。当時、と言っても三年前だけど遠い過去に感じるその当初は虐めという認識は無かった。筆箱から消しゴムが無くなっていたり給食の時間机の間隔を空けられたり、体操着が見当たらないと思ったら「ごめんね!校庭に置いてきちゃった」なんて言われたけど、表面上は皆柔らかく顎を持ち上げるから偶然の産物だと思っていた。「汚染物質」だって当時流行っていた曲を教えてくれただけだと捉えていた。それがやがて表面に結晶として浮かび上がり、私もこれ以上逆境に甘んじたくないと口論を積み重ね、口では解決しないと踏ん切り付けた結果、自主休学という形に着地した。その期間で磨いた家事スキルがお姉ちゃんの為になっていると思えば却って有意義だったかもしれない。お姉ちゃんは当時中学三年生。自身の悩みもあっただろうにわたしの相談に乗ってくれ、職員室へ駆け付けてくれた。助けられてばかりだった。五年以降教室に返り咲いたのは我ながら根性があったと思う。学校に行きたくないという引き籠り気質より、行ったら気に入らない奴を粛清したくなるヤンキー気質であったからか。

 お姉ちゃんの件に話を戻すと、補導されるお姉ちゃんに付いていこうとしたら授業に出ろと断られたり、そうかと思えば生活指導室にセットで連れ込まれたり、お姉ちゃんから身分不相応に刺されやがった女の病室へ赴いたりして今に至る。少年院へ入院する少女二人とはならずに済んで良かった。お姉ちゃんと一緒なら刑務所だろうと絞首台だろうと幸せだけど、別離の時間が増えるなら断固拒否したいので助かった。緩衝材となったあのよく分からない女には一応の感謝をしておこう。

 あの刃先を振り翳すお姉ちゃん、格好良かったなぁ。わたしがお姉ちゃんを敵から守る騎士になるつもりだったけど、あの状況ながら守ってもらいたい欲求が沸いた。人生を選択肢で分岐のあるゲームと考えたら、お姉ちゃんが刺したのはあの人で良かったかな。意図的ではないとは言え見舞いを受け入れるくらい寛大な心の持ち主だから多少は罪の意識を育む。お姉ちゃんの教室に居て前兆を掴んでいた時点で、全員有罪と考えて良いか。

 制服を脱いだ夜、「黙っていてごめんね」お姉ちゃんは泣いていた。謝るべきはわたしなのに。自己嫌悪さえ向けて欲しくなかったのに。お姉ちゃんはわたしと同じく身体の浸食は行われず、所有物や言論周りで圧力を掛けられていたらしい。実力行使に出たのはわたしが目にした光景が初披露だと。だからこそ隠していた、不自然な関係とは思わないようにしていたのかもしれない。欺瞞風味の二酸化炭素を浴びながら。

 ふと、退出際の素振りからして、井口はお姉ちゃんの境遇をわたしに先んじて知っていたのだろうかと思った。やたら興味津々と尋問を繰り返してきたし、まさかお姉ちゃんに気が合ったのか。尚更出て行って正解だったわ。わたしの声は井口の耳に届いてしまったはずだけど、どんな印象を抱いたのだろうね。凄まじくどうでもいいか。あまり言及すると再登場の伏線になりそうだから止めておこう。

 やっとのこさ付き合う義理の無い他人から解き放たれた。観察日記に「お姉ちゃんとずっと一緒に居られますように」と書いた。お姉ちゃんは何て書いたかな。

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