第9話:静けさとは程遠い夜

 夜更けすぎ、ふと目を覚ます。

 見知らぬ天井に驚くも、景信はすぐに冷静さを取り戻した。

 視界に広がるこの光景こそ、これより先ずっと目にする現実である。

 この現実と思っている世界こそが夢であったならよかったのに……そんなことを、景信はふと思う。

 開けっぱなしにしていた窓から吹く緩やかな風に視線を向けてやれば、その向こう――上質な天鵞絨びろうどの生地を敷き詰めたかのような空にぽっかりと浮かぶ、白い月。



「……きれいな月だな」



 いつぶりだろうか。

 白い月を見やる景信はふと、これまでを振り返ってみる。

 天体観測に千珠院景信せんじゅいんかげのぶは差して興味を持たない。星も月も確かにきれいだ、がそれだけのこと。そんな少年だった。

 故に月をこんなにもマジマジと眺めていること自体、景信は他人事のように珍しく感じた。



「……なぁお月様。どうして俺はこんな訳のわからない奇病を患ったんだ?」



 返答がない月だからこそ、景信はぽつりと己が心情を吐露した。

 彼が夢現乖離症候群むげんかいりしょうこうぐんを患った人間として、どのような夢を見たのか他人にすれば興味の塊に等しい。任意ではあるが発症者からの体験談をもとに様々な研究が行われている。謎多き奇病であるが、経験も知識も十人十色である発症者はいわば、知識の宝庫でもあるのだ。

 景信は、誰にもまだ語っていない。

 心の整理がついていないということで、母達もそれ以上彼に追及することはなかった。



「……はぁ。とりあえずもう一回寝るか」



 朝までまだ遠い。

 布団をこっぽりと被って景信は目を閉じた――閉じられたばかりの瞼をカッと見開かせたのは、鼻腔をくすぐる甘い香りだった。それはもぐったばかりの布団から香っていて、明らかに自身の体臭とは異なるその香りに景信はバッと飛び起きた。

 そして跳ねのけた掛け布団から姿を現した者を見て、景信は唖然とする。

 こんな時間にどうして彼女がいるのか……悪びれる様子もなく、てへと舌をかわいらしく出した長女――虎美に景信は上ずった声で問い質す。



「なっ、なっ……なんで!」

「なんでって、添い寝をしにきたのよ」

「いやそんな、当たり前だろみたいな感じで言われても……!」

「景信ちゃんはこうやって私達と添い寝してたって、今日言ってたじゃない」

「言って……たような気はするけど! だからっていきなりこんなことされても困るから! 後俺にはもう添い寝は必要ないから!」



 虎美はとてもスタイルがいい。

 その純然たる事実が、薄いネグリジェ1枚によって余計に際立っている。

 幸い下着によって彼女の大切な部分は隠されているが、それでも年頃な景信には強烈な刺激で、事実少年の下腹部よりやや下にあるソレは男性としての機能を立派に果たさんとしている。

 咄嗟に景信は虎美に背を向けた。そして思いっきり自らの頬を殴り飛ばした。

 じんじんと頬に帯びる熱と痛みが、分身たる己の猛りを徐々に鎮めていく。

 これで一安心……とはいかず。


「か、景信ちゃんいきなり自分を殴るなんてそんな悲しいことしないで!」

「ちょぅえぇっ!?」


 突然身内が自傷行為をすれば止めに入るのは当然であろう。

 そのことを失念していた景信は、背後から虎美に抱き着かせることを許してしまった。

 のしりと全体重と共に、彼女が女性たる象徴物が形を変えて押し当てられる。

 わかりきっているが、背中に当たる感触は極めて柔らかくて気持ちがいい。

 後少しで完全に鎮静化するはずだった景信のソレが、今度は一瞬にして本稼働を開始してしまう。ズボン越しからでもありありと示すソレを、何が何でも彼女に見られてはなるまい、と景信は必死に虎美に抵抗の意志を見せる。



「と、とにかく! 俺はあなたと一緒に寝る気はありませんのでどうか部屋に帰ってください! 俺は一人でも寝られますか――」

「――、どうしてそんなこというの?」



 虎美の口調ががらりと変わった。

 きらきらと輝いていた瞳からはその輝きが失せ、真っ黒に濁った様はさながら深淵の闇のよう。



「ねぇどうして!? どうしてそんな悲しいことをお姉ちゃんに言うの!?」

「お、落ち着いてくださいって……! 俺は別に――」

「お姉ちゃんが嫌いなの? 景信ちゃんはそんなにお姉ちゃんと添い寝したくないの……?」

「いやだから、嫌いとかそういう理由じゃなくて……単純に俺は――」

「じゃあどうして!? お姉ちゃんのことが嫌いじゃないんだったら一緒に寝て!」



 あまりに突然すぎる長女の豹変には景信も顔をさぁっと顔を青ざめ、次にこの窮地を如何にして打破するべきか彼の思考は幾度となく仮説シュミレーションを繰り返す。

 肉体が生命の危機を感じている。あれだけ散々甘やかしてきた姉が、家族に対して手痛い目に遭わせるなどあるはずがない、とそう楽観視できればどれほど楽だったか。

 禍々しい威圧感を発する虎美に、下手な言い訳は通用するまい。

 かと言ってここで折れてしまえば、今後ずっと添い寝を要求してくるのも目に見えているし、景信としてもその事態だけは避けたいところだった。

 長女の機嫌を損なわせることなく、かつこの危機的状況から打破するには――景信は言葉を発した。



「昔の俺だったら確かに受け入れていたでしょう。だけど今の俺にはどうしてもその、まだ本当の家族のことを赤の他人としか思えないんです!」

「――、ッ!」

「……すいません。今は俺にもう少しだけ時間をくれませんか……? まだその、あなたをお姉ちゃんと呼ぶことにでさえも躊躇っているほどなんです」

「景信ちゃん……」

「いつか必ず、俺自身もなんとかします。今後のためにもなんとかしなくちゃいけないのは重々理解はしてるんです。それがいつになるかわかりませんけど……」



 この回答は問題の解決をただ先延ばしにしただけにすぎない。

 けれども景信は、この回答こそ最適解であるという自信があった。



「……そう。わかったわ景信ちゃん。お姉ちゃんこそごめんね、景信ちゃんの気持ちをもっと考えてあげなきゃいけないのに……」

「すいません。だけど、いつかは……」

「うん、お姉ちゃん待ってる。でも甘えたくなったら遠慮なくいつでも虎美お姉ちゃん

って甘えてにきていいからね? お姉ちゃんいつでも景信ちゃんのためたら24時間受け付けるからね!」

「あはは……ありがとう、ございます……なのかな」



 実際に長女……虎美の真っ黒に染まった瞳には微々たる速度であれど、確実に輝きが灯りつつあった。他者に恐怖を植え付ける禍々しかった雰囲気も同様に収まりを見せる。本来の姿に戻っていく虎美に景信の心にもようやく平穏が訪れた。

 いつか必ず、再びこの問題と向き合わねばならない日が訪れる。


 その時が訪れるまでに、長女の機嫌を損なわせることなくかつ、平穏な日々を手に入れるためにも景信はこれから先模索していかねばならない。同様に景信の胸中には残す2人の姉……朱音と清華の存在があった。長女でこうも豹変したのだ、あの2人がそうでないという確証はない。同じく血を分けた姉妹であるからこそ、きっと長女に引けを取らぬと掛かった方がよかろう。



「――、不安しかないな……」



 未来は視えぬのが当たり前だが、思い描くだけならば万人が許される。

 彼ももちろん例外にもれることない一人であるのだが、思い描く未来はどれも不安と絶望ばかりで溢れていて、それが景信の口から盛大な溜息をもらせた。



「…………」



 まるで睡魔がやってこない。

 景信の意識は虎美の乱入という不祥事によってすっかり覚醒を果たしてしまっていた。

 かと言って、このまま寝ずに朝を迎えるのもそれは酷というもの。

 となればここは無理矢理にでも再度眠る方がいい。景信はぎゅっと強く目を閉じた。



「……っ!」



 虎美はもうこの部屋にはいないというのに、彼女の存在はまたしても景信の眠りを妨げる。布団に染み付いた彼女の香りが、景信が鼻で呼吸をする度に甘くくすぐる。嗅いでいて不快感どころか心地良さすらあるから、余計に質が悪い。



「あぁ……クソ! 本当に……!」



 普段しないうつ伏せの状態に素早く転じると、景信は枕に顔を埋めた。

 自分の臭いならば悶々とすることもあるまい。これが虎美の香りから唯一逃れられる方法だった。

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