第8話:懐かしくて温かい味

 途中より紫苑に手を引かれながら食堂へと案内された景信がまず目にしたのは、ぼろぼろと大粒の涙を流す1人の女性だった。彼女もこの屋敷に住み込みで働いている従者なのは、その格好を見やれば一目瞭然である。


 唯一他との相違点は彼女のみが何故かメイド服を着用している――メイドカフェのメイドが着用するようなフリフリのゴスロリ衣装ではなく、それこそ古来よりある由緒正しきメイド服だった……確か、ヴィクトリアンメイド服だったか。

 顔を合わせるや否や、メイドの目がカッと見開かれる。


 そして、疾風迅雷しっぷうじんらい――俗にいう、目にも止まらぬ速さを実体験した景信は、でかでかと映る彼女の顔を呆然と見返すしかできなかった。とてつもなく距離が近い、鼻先が今にも触れそうなぐらいにあるメイドも三姉妹と同じぐらいきれいでかわいい。


 とりあえずこのメイド少女はさすがに姉ではないだろう……何故か妙な安心感を憶える景信の肩を、メイドの手が触れた。がっしりと肩を掴む力は女人とは思えぬほどの万力で、ぎしぎしと軋む骨に景信の表情かおには苦悶の色が見る見るうちに滲み出ていく。



「い、痛……!」

「あぁ景信様! よくご無事で……この琥珀、心より嬉しく思います!」

「あ、あなたは……!」

「ちょっと琥珀、景信ちゃんを早く離して!」

「ノブが痛がってんのがわかんないの!?」

「従者のくせに馴れ馴れしいですよあなたは……恥を知りなさい!」



 三姉妹から注意を受けて、メイド少女の力がほんの少しだけ緩和された。

 一先ず痛みから解放された景信は安堵の息をほっと吐いて、しかし彼女の手はまだ肩から離れていない。琥珀と呼ばれたこのメイドと三姉妹がどのような関係であるかはさておき、従者と主人という立場はまず不動たる間柄なのは言うまでもない。

 それを踏まえてメイド少女の行動は、その主命に明らかに背いている。

 それがわからぬほど愚かではない――悪い意味で、明確な敵意をあろうことか主人に向けているメイド少女は理解した上でやっている。


(こ、このメイドさん正気か!?)


 主命に背くなど、彼女の行為は自殺に等しい。

 姉妹喧嘩で真剣を抜こうとしたぐらいの彼女達が、メイド少女の愚行を当然笑って許すはずもなし――案の定、三人の右手は既に腰の太刀の柄を握っていた。



「――、いい加減にしてください!!」



 力強い一喝が殺伐とした空気を一瞬でかき消した。

 三姉妹もメイド少女も、どちらと共に目を丸くしている。

 この場を制したのが、千珠院家でもっとも権力のある紫苑ではなく景信であったのが、彼女達に驚愕をもたらしたのだ。彼女らの母である紫苑もその美しい顔には景信に対する驚愕の感情いろが滲んでいる。

 その景信はぎらりと鋭い眼光をもって食堂にいる者を一瞥いちべつした後、小さな呼気に続けて声を発した。



「お、俺が言うのもなんですけど食事はもっと楽しくするべきじゃないですか?」



 食事は楽しい時間にしなければならない……夢の中での教訓ではあるものの、景信は幼少期からこの両親からの教えをずっと守ってきた。何故ならそれが正しいことと信じているし、景信としても楽しい方が好きだった。時によっては沈黙に順ずる場合もあろうが、ワイワイとしている方がそれだけで食欲も促進されれば心も満たされる。

 記憶のない景信も、せめて食事の時ぐらいは陰湿な気を出さぬよう心掛けた。

 それ故に三姉妹とメイドの所業を、景信は許せない。



「まずは三人は腰の刀から手を離してください。それからそこのメイドさんの……えっと……」

「琥珀です! 琥珀とお呼びください景信様!」

「わ、わかりました。じゃあ琥珀さんも引いてください。せっかくのおいしそうな料理も、殺伐とした中じゃまずくなってしまいますから」

「も、申し訳ございません景信様!」

「……景信ちゃんがそういうなら仕方ないわね」

「感謝しなよ~こはっき~」

「……ふん。命拾いしたことを心から感謝することですね」

「……やれやれ」



 以前もこんな感じだったのだろうか……このようなことが日常茶飯事に起こると想像した景信は、大きな溜息を吐いた。

 自身の精神に負担が掛からぬよう、景信は意識を食事の方へと集中する。



「――、いくらなんでも豪勢すぎやしませんか……?」



 お膳台の上に所狭しと陳列した食事は、豪勢の一言に尽きた。

 さながら旅館の食事であるかの如く、海鮮から山菜とあらゆる食材がふんだんに用いられているし献立についても、景信の好物ばかりだった。


(……俺の親なんだから、好きなものぐらい知ってて当然か……)


 なんともいえぬまま、お膳台の前に景信は腰を下ろした。

 三姉妹とその母も同じく席に着く。



「それじゃあ、どうぞ召し上がれ」

「いただきます!」

「いっただっきまーす!」

「いただきますわお母様」

「……いただきます」



 食事が始まってすぐに、上姉2人の色気もお上品さの欠片もない豪快かつ清々しいまでの食べっぷりに意表を突かれたものの、景信も他よりも遅れて食事に手をつける。迷いなく彼の箸は、景信の好物である里芋の煮っころがしを掴み、そのまま口へと運ぶ。



「――――」



 口腔内を満たすのは旨味、ただそれだけ。

 おいしい……これ以外の言葉は不要である。

 咀嚼を繰り返す度に心を満たすのは旨さではなく、懐かしいという感情だった。

 記憶になくとも景信の舌は母の味を憶えていた。

 それは紛れもなく彼がこの家で、母の料理を食べていたという証であり、そしてやはり今までのは夢幻の産物であったと思い知った景信の目からはほろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。



「……っ……ぐすっ……」



 自分の意志で、どうすることもできなかった。

 一口、また一口と食べれば食べるほどに涙がどんどん溢れてくる。

 母の作った料理は、どれもこれもおいしい。

 味付けに関しては夢……と断言したくない――母の味とは少しばかり異なる。

 だが、決定的な相違点は彼女の料理には懐かしさがあった。

 記憶にはもうない、けれども優しくて穏やかな温もりだけは今も心に残っていたらしい。

 そして当然ながら、突然涙した景信を目の当たりにした5人はぎょっと目を丸くして激しく狼狽している。鼻水を何度も啜り、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながらも食事の手を一向に止めない息子の姿は、それほど彼女達にとって衝撃的な光景だった。



「どどど、どうしちゃったの景信ちゃん!? どこかいたいの?」

「ちょ、マジでどしたんノブ!? こ、これ病院連れて行った方がいんじゃない系?」

「お、落ち着いてください姉さま方! 千珠院の人間は狼狽えません!」

「景信様、どこが具合でも悪いのですか……!?」

「信くん、いったいどうしたの!?」

「……い、いや……そうじゃなくて……」

「じゃあ、どうしたの……? 家族なんだから遠慮しないで私達に言って?」



 紫苑の優しい眼と言葉に、景信は語るつもりは毛頭なかったのに、自分でも気付かぬ間にぽつりと心情をもらしていた。



「……すごく、おいしいんです。はじめて食べるはずの料理なのに……俺の身体が、心が……懐かしいって感じてるんです」

「景信ちゃん……」

「もう何年も食べてないような、そんな気さえしてるんです。だ、だから……」

「――、大丈夫よ信くん」

「あ……」



 母にそっと抱き寄せられる。

 紫苑の初動はとてもゆったりとしたもので、その気になれば素人同然の景信でも簡単に捌けるほどだった。しかし景信は現在、その母の胸元にいる。見えているはずの動きに対して彼は抗わず、自ら受け入れることを選んだ。

 母の成すがままに自然と身を委ねている自分に少々驚いた景信であったが、そんな感情も母の優しい抱擁の前には路傍の石に等しい。柔らかい胸に顔を挟んだまま、母の優しい言葉に耳を傾ける。



「これから戸惑うことばかりだと思うけど、もうここにいれば安心だから。だからゆっくりとでいいから、少しずつこの家に馴染んでいってね」

「あ……か、かあ……」

「ん?」

「い、いや……なんでもない、です……も、もう大丈夫だから!」



 幾ばくか冷静さを取り戻したところで、母に抱擁されている事実に気恥ずかしさが勝った景信は逃げるように母から離れた。離れた瞬間、あっと声を漏らす彼女の顔は心なしか寂しそうではあったが、かと言って再び戻ろうという気ももうない。


――俺はさっき、なんて言おうとした……?


 脳裏にふっと湧いて出た疑問に景信は沈思する。

 母に抱擁されて、無意識の内に発しようとした言葉は景信もよく知っている。

 寧ろ両者の関係であれば、彼が彼女に対しそう呼称するのは至って普通の光景である。

 母さん……あの時、一瞬でもこの女性をそう呼びそうになった自分がいた。

 あなた達を家族だとは思えない、とのたまっておきながらなんたる様か。景信は激しく己を叱責した。

 鼻腔にはまだ、母の程よく甘い香りが残っている。

 その香りを忘れるように、景信はお膳台の料理に全神経を集中させた。

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